ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

もう、疲れちゃったんです!

2020年05月30日 | 介護
もう、疲れちゃったんです!
母との同居!
ほぼ2年前からの母のアルツハイマー型認知症で、疲れちゃったんです。
適当でも家事をしながら認知症の母を見る。
疲れちゃったんです。
病院の付き添いをする。
疲れちゃったんです。
私のしたことは全て気に入らないらしく、やり直しをします。
嫌みのように目の前でやり直しをします。
もう、疲れちゃったんです。
洗濯から掃除まで疲れちゃったんです。
お風呂の洗い方やトイレの掃除の仕方まで文句を言います。
身体は一つしかないのに、あれもこれもやるのは無理です。
門限5時で消灯時間が9時なんです。
一生懸命作ったおかずも入れ歯で好き嫌いが多いので、食べるものも無いと梅干しや鰹節やふりかけで食べるんです。
そのせいか、お腹空いたを連発します。
ご飯が一番いいんだよ!
と、言っておきながら、時々パンが食べたいとか?うどんや蕎麦が食べたいと言います。
パンやうどんや蕎麦を買ってくると文句を言われます。
ご飯が一番安いんだよ!
同じおかずは次の日には食べません。
残り物らしいです。
干した洗濯物を干し直されて、私たちの洗濯物にも文句を言います。
例え生乾きでも3時には取り込むんです。
もしも洗濯物を干して出掛けたら3時までに帰らなければならないんです。
どこへ行く?
誰と行く?
何しに行く?
何時に帰る?
何を食べた?
何を買ってきた?
もう、疲れちゃったんです。
毎回聴かれて疲れちゃったんです。
近所の内科に行くのも断って行くんです。
休日なのに早く起こされて、朝食の支度をするんです。
体調悪くても家事を強いられるんです。
もう、疲れちゃったんです。
夫婦は同じ部屋に寝て、一緒にお風呂に入らなければならないと!
全国的に世界中でそうではないのに、それが決まりだそうです。
母の法律ではそれが決まりだそうです。
もう、疲れちゃったんです。
作った食事にあからさまに文句を言われるのは疲れちゃったんです。
認知症になったら味覚が変わったのか?
何でも辛いとかしょっぱいと言います。
薄味の白ちゃけた料理を好むんです。
昔食べたものしか受け付けなくなりました。
介護疲れですね。
逆らっても逆らっても無理なんです。
どこかの国の独裁政権よろしく、おかしな新興宗教の教祖のようです。
自分の言うことは絶対何です。
安倍政権よりも天皇陛下よりも自分が正しいと思っています。
反省する。
謝罪をする。
母にはそんな言葉はありません。

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前島茂子の場合

2020年05月30日 | 介護
前島茂子は還暦を過ぎていた。一度も結婚をしたことが無い。若い頃にいくつかお見合いはしたが帯に短し襷に長しでうまいことはいかなかった。
高校を卒業すると親の言いなりで就職をした。父親のコネで就職した会社は入社して3年で倒産した。
その後働いた食品会社も人間関係につまずき、5年で退職する。
母が見合い話をいくつか持ってくるが、相手が高校中退だったり3流大学卒業だったりと、好みでは無かった。かなり太った相撲取りのような男性やすでに髪が禿げ上がった男性もいた。
職業も千差万別で自営業からサラリーマンから職人までと様々だった。
選り好みをしている場合では無いなと思った時にはすでに40近かった。今さらもう、この年で結婚して子供を産み育てることは半ばあきらめていた。
その頃茂子は小さな会社の事務員をしていた。茂子に任されるのは雑役が主な仕事だった。他の社員が来る前に掃除をする。書類を配る。資料を整理する。電話番をする。
それらの仕事を黙々とする。茂子に取って職場は楽しくも無かった。与えられた仕事を黙々とこなす。定時になったら帰る。
茂子は定時になったら帰るのだ。どこにも寄らずに帰るのだ。なぜなら自宅にはうるさい茂子の母が居たからに他ならない。
働いた給料は振り込まれた側から母に管理されるのだ。茂子に渡されるのは月に3万円の小遣いと交通費だけだった。残りの金は母が生活費の一部と茂子の老後のためにと貯金をしていた。しかし、通帳は茂子名義でも一切渡してはもらえなかった。
茂子が60歳で会社を定年退職する年に茂子の母は乳ガンで亡くなった。茂子は葬儀の金にも困っていたが、母の遺品を整理していたら茂子名義の通帳と印鑑が出てきて、銀行のカードも出てきたので事なきを得た。
茂子はその時通帳に記載されている額に驚き何度も疑った。茂子はその中から母の葬儀のお金を捻出し、事なきを得た。
それにしても残った額の多さに驚き、亡くなった母に改めて感謝したのは言うまでもない。
気が付けば茂子は62歳になっていた。これといった友達も無くこれといった趣味もなく日々を過ごしていた。
そんな茂子の前に一人の男性が現れた。何を隠そうその男性は昔茂子が見合いした男性だったのだ。立派な紳士になっていた。たまたま一人で入った映画館の隣の席に座っていた男性がその昔の見合いの相手だったのだ。
それは特徴のある顔のほくろでわかったのだ。右眉の横にある大きなほくろと鼻の横のほくろでわかったのだ。
上映後茂子は思いきって隣の席の紳士に声を掛けた。紳士は茂子のことを覚えていた。
二人はその後食事をすることになったのだ。おとなしく口下手なその紳士は昔お見合いをした時と変わらなかった。
二人はその後携帯の電話番号とメールを交換して別れた。
それから数日してあの口下手な紳士から電話が来た。茂子は少しそわそわして電話口に出た。紳士は「もう一度会ってくれませんか?」それだけ言って電話を切った。
茂子はあわてて
いつ?
どこ?
何時?とメールをした。
ドキドキしていた。
そうなのだ!あの時見合いした男性は立派な紳士になっていた。相変わらずおとなしく口下手な感じではあったが立派な紳士になっていた。

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踏み切り開いたら5分で実家

2020年05月29日 | 介護
旦那の実家が近所の踏み切り開いたら5分です。
旦那も私も用事がない限り行きません。
旦那は実家の前の床屋に行くのに寄りもしません。
旦那には兄がいます。
なぜか旦那は兄と同じ高校に行き、大学も同じ大学の同じ学部でした。
兄は地方公務員になり、旦那は司法書士事務所の事務員です。
兄は同い年の小学校の教師と結婚し、姉は数年して教師をやめました。
私は欲しかった姉が出来たのですが、さすがに大学出の元教師の姉とは実の姉のような気持ちにはなれませんね。
頭のいい人には気を使います。
こんなに実家が近いのは良くも悪くもあると思いますが、これといって悪いと思ったことはありません。
私は旦那の両親が大好きでした。
そもそも結婚するにあたって旦那の両親を確かめたり確認したりしたわけではありません。
たまたま良い両親に恵まれただけなのです。
嫁としての諍いも無く過ごしてきました。
兄に対しても姉に対しても義理という肩書きはあるにせよ、文句を言ったことも思ったこともありません。
義母は多趣味で新舞踊の師範の資格まで取りました。
ダンスも踊ればカラオケも歌う!
墨彩画もしていました。
義父は町内会の役員もし、お祭りの役員もしていました。
今は町内会の役員もお祭りの役員も兄が引き受けています。
私は毎年行われる地元の提灯祭りが大好きでした。
今年はコロナの影響で中止です。
この提灯祭りは伝統のある有名な祭りです。
銀座祭りのパレードにも出ました。
東京ドームのふるさとフェアーにも出ました。
NHKホールにも出ました。
天皇陛下の即位のパレードにも出ました。
それが今年は見られません。
山車が出ます。
昼間は人形山車ですが夜には提灯山車になります。
この提灯山車の曳っかわせや引き回しは見事です。
山車の中では鉦や笛や太鼓が鳴らされます。
各町内ごとに鳴らす演目は違います。
毎年相当な人出です。
毎年7月12日と18日に行われる天王様のお祭りです。
嫁に来たときに父はお祭りの八雲神社の俄神主をしていました。
八雲神社と言っても天王院と言う曹洞宗のお寺の中にある千貫神輿のことなんです。
お寺の中に千貫神輿を飾ってある建物があります。
そこが八雲神社なので、お祭りにはその御輿を持ってきて賽銭箱を置いて神社とするのです。
その前で父と数名の人が白い着物と白い袴で俄神主に!
お賽銭を賽銭箱に入れた人に俄神主が御幣を振ると言うものです。
そもそも天王院は鈴木家の菩提寺です。
鈴木家の葬式は天王院のお坊さんにお願いする。
私も結婚する前は父の実家も母の実家も田舎のお寺は天王院で曹洞宗です。
たまたま偶然でした。
もとは福井の永平寺です。
その旦那の母が数年前に亡くなり、今度は父です。
95歳で老衰でした。
まあ、人生95年も生きれば幸せですね。
晩年は耳が遠くなり、左目が見えなくなりしました。
温厚な性格で頼まれたら断れないようなので何でも引き受けてしまうようです。
真面目な国鉄職員だったようです。
大宮の操作場にいたようです。
旦那の母は私が結婚してもしばらく働いていました。
いゃあ、私は本当に良き旦那の両親に恵まれたと思います。
そして良き旦那の兄と兄嫁に恵まれたと思います。
この場を借りて感謝します。
自分の両親が嫌だったので!
未だに母は嫌ですね。

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もう元には戻れない。すべては運命なのだ!

2020年05月28日 | 介護
私が母のもとに生まれたことは運命なのだ。
ある意味宿命なのだ。
今更それを変えることは出来ないのだ。
母はこのところことあるごとに32年間も育ててやったと言ってくる。
育ててはくれたが育て方は間違っていた。
自分の育て方が正しと思って育てていたのだ。
一つも間違っていないと思って育てていたのだ。
母の考えや意見はどこかの国の独裁政権のごとく家にはびこっていた。
逆らっても無理なのだ。
酒とたばことギャンブルが好きな父と結婚し、常にパートで働いてきた。
子育てをし、家事をし、働いていた。
ましてやそこには母が幼くして実母を亡くし、義母に育てられた経緯がそこにあるのだ。
女学校を出るとすぐに母は働いた。
妹や弟が出来ると母は仕事を辞め実家に帰されるのだ。
そしてまた働く。
働いた金は仕送りもするのだ。
次から次へと生まれる妹や弟を背負って幼いながらも家事をする。
遊びにも行かれない。
そんな育った境遇にもあるのだと思う。
実母の愛情を知らない。
娘の私に対する愛情の注ぎ方をある意味はき違えているのだと思う。
私は母の言いなりになって育った。
逆らえど逆らえど無理だったのだ。
母好みの女の子に仕立て上げられ育てられ、すべてを管理されて生きてきたのだ。
ここにその例をあげたら枚挙にいとまがない。
最近だって夫婦は一緒に寝るものだと言って来た利、一緒に風呂に入れと言って来たりする。
たとえ旦那のいびきがうるさくても妻の歯ぎしりがひどくても一緒に寝るものらしい?
風呂がどんなに狭くても夫婦は一緒に入るものらしい?
すべてにおいて矛盾している。
私の主人の給料の額を聞いてきたり、ボーナスが出たかと聞いて来たりもする。
果ては給料の使い方にも文句は言ってくる。
貯金がいくらあるかも聞いてくる。
買ってきたものには決まって文句を言う。
作った食事にも文句を言う。
嫌いな食べ物には文句を言う。
入れ歯なので噛めないものにも文句は言う。
私が出掛けると言葉では言わないが、上から下まで眺めてファッションチェックまでされるのだ。
美容院に行く。
帰ってくると私の髪形に文句を言う。
どこへ行く?
誰と行く?
何しに行く?
何時に帰る?
は、定番です。
帰ってきたら何を食べたか?
何を買ったまで聞いてきます。
若いころ彼氏が出来れば勝手にデートの約束をしてきたことに怒り、帰ってきたらデートの内容まで聞かれる始末でした。
母が認知症になったら言われたことは女性の門限は5時です。
そうです。17時です。
その後、私の消灯時間を19時と決められました。
もう、夕食を5分で食べる始末です。
いつまでも食べていると目で合図をするのです。
私は5分で夕食を済ませ、5分で片づけ、明日のお米を研いで風呂を沸かして、自分は入らずに寝ると言うことに!
そのうち「なんで風呂に入らないんだい?」ですからね。
夜中にこっそり10分の入浴です。
そのうち消灯時間が21時になりました。
もう、母のことを上げれば本当に枚挙にいとまがないのは事実です。
家事の仕方にも文句は言われます。
掃除に洗濯その他いろいろ母なりのやり方があるようで、文系の利器は嫌がります。
私たち夫婦は家の中で息を殺して暮らしています。
そもそも私は子供の頃から芸能人がすきでした。
その芸能人の追っかけをすることはいまだに母は嫌がります。
後援会に入ること。ファンクラブに入ること。
嫌がります。
ライブに行くこと。
コンサートに行くこと。
劇場に行くことも嫌がります。
したがってうそをついて行く。
3回行っても1回だと言い張る。
お金は貯めるものだと思っているのです。
私がこうしてブログをしていることもSNSをしていることも母には内緒です。
スマホを持っていること。
パソコンを使うことも反対されています。
延々と通っているパソコン教室もやめてほしいようです。
せっかく入った地元の高齢者大学もやめてほしいようです。
私がkindleで本を2冊も作ったこともLINEのスタンプを作ったことも内緒です。
言えば反対されることは目に見えています。
今、私がシャンソンが好きでシャンソン歌手のライブに行っていることも内緒です。
浪曲が好きで木馬亭に行っていることも内緒です。
断りもなく師匠の後援会に入れてもらいました。
すべて内緒です。
そんなわけで私は結婚して10年目に母と同居し、その後、更年期と母との同居からくるうつ病になり、心療内科に通っています。
今は症状は落ち着いていますがいまだに病院には通っています。
そんな母に育てられた娘はこんなおばちゃんになりました。

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人前で泣くのは恥?

2020年05月28日 | 介護
だいぶ以前に父の姉の旦那さんの葬式が東京のお寺であった。
そのころは母もまだ歩けたので、母と二人で参列した。
葬儀の最中父の姉は嗚咽して泣いていた。
それを見た母は私に小声で「葬式にはみっともないかな泣くな!」と、言って来た。
その言葉が私の頭の中にあったので、私は自分の父の葬式に一つも涙を見せなかった。
泣いたら母に何を言われるかと思うと涙は出なかった。
弟は四十九日の納骨の時に大勢の親せきの前であいさつをしながら泣いた。
母はそれを止めることなく見ていた。
私はその時も泣かなかった。
本当のことを言えば思いっきり泣きたいと思ったが、泣けば母に何を言われるかと思うと、泣けないでいた。
母曰く人前で涙を見せるのは馬鹿だと言う。
関西ならばアホだということだろう。
数年前に主人の母が亡くなった。
温厚な誰からも好かれる母だった。
いつも愛想がよくて人気者だった。
その日、私は葬式で少しだけ泣いた。
なぜならその葬式には母は列席しなかったのだ。
私は今、思いっきり誰かの胸にすがり声を上げて泣きたいと思う。
しかし泣くことは許されないのだ。
込み上げる涙を必死にこらえ不通を装う。
これこそ一番酷なのだ。
平静を装う。
冷静を保つ。
今の私には一番酷なことなのだ。
泣くことは母に言わせると美徳ではなく恥なのだ。
言いようもない悲しみが込み上げてきても涙を見せることもこぼすことも許されないのだ。
今朝の義兄の電話で施設にいた義父が老衰で亡くなったと言う知らせを聞いた。
95歳だった。
定年まで国鉄で働いていた。
まじめで余計なことは言わない義父だった。
義母と義父は仲の良い夫婦だった。
義父は元気なころは祭りの役員をしていた。
八雲神社のにわか神主も祭りの時はしていた。
年末は氏神様の愛宕神社の手伝いもしていた。
町内会の役員もしていた。
まじめでおとなしくて余計なことは言わないタイプの人だった。
95歳の死因は老衰です。
このご時世だからと葬式は家族葬にするそうです。
私にとっては大事なお父さんでした。
実の父を亡くしてたとえ義父でも大切な父でした。
嫁に来た手の頃一緒に笠間稲荷に行ったことがありました。
菊人形を見て、義父は孫への土産を買い、遠い昔の思いです。
その後、義兄が歌舞伎のチケットをもらったけれど見に行けないのでと義父と浅草公会堂に歌舞伎を見に行ったこともありました。
どうも兄夫婦には気を遣うらしく、兄夫婦が留守の時に呼んでくれて食事をしたことも…。
私はこの家に嫁に来たことは良かったです。
素敵な両親に恵まれたのです。
しかし今、私は泣くことは許されないのです。
本当は泣きたい気持ちをぐっとこらえています。
なぜ葬式に泣くのはいけないのでしょう?
個人を忍んで泣くことは許されないのです。
それはみっともないことで、バカのすることだと…。
そんなわけで喪中になりました。
もしかしたら行きたかった木馬亭にも行かれないかも知れません。
行く予定にしていたシャンソニエにも行かれないかも知れません。
実の父が亡くなりたった一人お父さんと呼べる人も亡くなりまでぃた。
泣くことは母に言わせると美学ではないのです。
人前で泣くことは恥なのです。
涙は人に見せるものじゃないようです。
今、私はどこかで思いっきり号泣したい!
主人の父は大好きでした。

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