おでかけ大好き!ピースくん

ぼくピースくんが色んな所に遊びに行った写真を発表しま~す!

三戸城跡(2023年9月)

2023年10月21日 | こんちゃんのお城めぐり
こんにちはこんちゃんです😊
大変ご無沙汰致しております😌
なんと!5月に訪れた「九戸城跡」以来なんです😓
いくら今年の夏が暑かったとはいえ、あんまりです😢
今回、ぺろ氏にお付き合いしておでかけしていたら、見覚えのある城跡へ来ているではないですか❗
これは素通りする訳にはいかないのです😔

という事で、2019年に訪れた、第39回「三戸城」を再訪しました😃
こんちゃんのお城めぐり番外編としてお送りします😌

最初に「三戸城本丸跡」の石碑の前からです😊
そうでした😌
本丸跡は、城山公園の駐車場になっているんでしたね😅

駐車場のそばの大門跡です😊
本丸の正門跡で、発掘調査により、崩落した石垣、門礎石、石列などの遺構が検出されたのでしたね😌
2019年に訪れた時と変わらず、遺構のまま残っています😃
南部氏関連城館跡では最大の門跡だそうです😌

こちらぺろ氏が訪問した、三戸町立歴史民俗資料館です😌
奥は、隅櫓を模した温故館です😊

鳥居の前にある「三戸城」の石碑です😃
前回は、ここから下にある模擬復元した「綱門」まで下ってお城めぐりをしましたが、今回その時間はないそうです😞
残念ですね😢

下へは下りず、初代南部光行公を奉祀する糠部神社をお参りしました😌

社殿の前にたつ御神木、「城山の杉」です😌
推定樹齢800年あるそうですよ😊
歴代の南部氏も眺めていたのでしょうか😌

糠部神社から、本丸跡の駐車場を横切りイベント広場へ行きました😊
2019年9月に訪れた時、発掘調査をしていましたね😃
今は、調査が終わって埋め戻されていました😊
この下に今でも、本丸跡石垣が眠っているのですね😌

イベント広場からさらに奥へ向かいます😊
三戸城跡には、来たからには是非見ておきたい遺構があるのです😃
ワタシがご案内します❗タッタッタッ🐾

その前に、市街地から城山を見上げると見える、「三」「戸」「城」と巨大な看板が設置されてる場所に来ました😊
望岳亭という東屋があります😌

望岳亭からの眺めです😊
南部氏がここに三戸城を築いた意味がよく解ります😌

望岳亭から道を下っていくと、見えてきました❗
鍛冶屋門跡です😃

これを見ずに三戸城を去ることはできません😌
鍛冶屋門跡には、素晴らしい石垣が残っているのです😃

城跡内では最も古い野面積で築かれています😊
シュタッ🐾
見て下さい😊
とってもかっこいいです😃

城の搦手に相当し、出入口は複数回に折れ曲がる枡形道となっています😌

整備し過ぎていない、この遺構感がなんとも言えずステキなんです😃

あぁ、こんなところに、矢穴跡の残る石が…
どうして、切られずにここまで来たのでしょう?😊
想像していると時間を忘れてしまいます…😌

しかし無情にもタイムアップのお時間がきてしまったようです😢
ほんとはまだまだお城めぐりを続けたかったのですが、ダメと言われてしまいました😞
またいつか、ゆっくりお城めぐりをしたいと思う、ステキな城跡でした😌
こんちゃんがお送りしました😊

九戸城跡・2(2023年5月)

2023年06月03日 | こんちゃんのお城めぐり
引き続きこんちゃんが、九戸城跡からお送りします😌
二ノ丸から本丸へ向かいます😃
本丸と二ノ丸を結ぶ入口は東側と南側の2か所あり、いずれも枡形虎口になっているそうです😊
東側の本丸追手門から入って行きます😃

本丸追手門は空堀で二ノ丸と隔てられた場所にあり、木橋が架かっていたと思われているそうです😌
現在の橋の上から見た堀跡です😊
きれいに整備されていますねぇ😌

橋を渡った場所に「本丸追手門跡」の石碑がありました😊
石垣があったように見えます😌

反対側にもありますねぇ😃

本丸跡です😊
九戸城落城後に蒲生氏郷により約100m四方の矩形、直線の近世的な郭に改修されているそうです😌

本丸から、九戸城ガイドハウスのあった、三ノ丸方向を眺めています😊
北面、西面は切岸状の断崖で三ノ丸と画されています😌
三ノ丸の向こうには、馬淵川が流れています😌
城は馬淵川右岸の河岸段丘上に位置し、馬淵川、白鳥川、猫淵川を外堀としているそうです😊

土塁が見えます😊
登れるようになっていたので行ってみました😃

土塁の上から東側、二ノ丸方向を眺めています😊
右手に本丸南側堀があり、石垣が残っているのが見えました😃
東北最古と言われており、会津若松城の天守部分に残存する天正期の石垣との類似性などから、蒲生氏郷による普請で、穴太衆という足軽も兼ねた石垣構築専門集団がいたと考えられているそうです😌

土塁の上から、もう一つの本丸と二ノ丸を結ぶ入口、本丸南虎口が見れました😊
ここからだと、枡形がよくわかりますね😃

「九戸城本丸跡」の石碑と、土塁の石垣です😃

本丸南虎口から二ノ丸へ出て来ました😊
名称は不明なんだそうです😌
土橋で本丸と二ノ丸を繋ぎ櫓を配し櫓門を構えていたことから城郭の中でも重要な虎口であったと推定されているそうです😌
1辺が約15m四方の枡形を呈し、本丸の出入口には櫓門の礎石が残っていたそうです😊
発掘調査などによって、九戸氏の時代にも同じ位置に虎口があったと推定されているそうです😌

「九戸城二ノ丸跡」の石碑です😊
二ノ丸跡とゆうにはちょっと端っこにありましたね😅

本丸南堀跡です😊
南面の石垣と北面の石垣の積み方が異なるそうです😲
北面石垣は横目地が通らないことから、在地系の職人によって築かれた可能性が指摘されているそうです😌
残っている石垣は隅石が失われ、V字に崩れていることから、寛永13年(1636年)の廃城時に破却された可能性があるそうです😞
確かに規模は違いますが佐賀県の名護屋城跡にあった破却跡とおんなじに見えました😌

二ノ丸南側に地形模型がありました😊
お城の形がよくわかります😃

二ノ丸を出て東へ行き、若狭館との間にある堀跡を歩きました😊
右手に見えているのが、若狭館跡です😌
九戸城時代の姿を残しているといわれているそうです😌

奥へ進んでゆくと、正面に石沢館跡が見えて来ました😊
この辺りも整備して園路を作る予定なのかもしれませんね😌

更に奥へ進むと、石沢館跡と二ノ丸跡の間の堀跡です😊
こちらから三ノ丸にある九戸城ガイドハウスへ戻れるみたいなのですが、現在は立入禁止になっていました😌

そして正面は二ノ丸搦手に繋がっていました😊
しかし現在はこちらも通り抜け出来ませんでした😌
なので今回のお城めぐりはここで終了となります😊

史跡指定当時は、本丸の大部分が農地となっており、二ノ丸の約半分は國分氏の宅地だったそうですが、土地買上により公有地化が進められ、平成元年から史跡環境整備事業による調査が実施されているそうです😊
現在はお城の遺構を残した素敵な史跡公園になっていました😃
それではまたどこかのお城めぐりでお会いしましょう😊
こんちゃんがお送りしました😌

九戸城跡・1(2023年5月)

2023年06月03日 | こんちゃんのお城めぐり
こんにちはこんちゃんです😊
三ノ丸跡の石碑の上から失礼します😌
今回ワタシが訪れたのは九戸城跡です😃
九戸氏が明応年間(1492年~1501年)に築城したといわれています😌
それでは始めましょう😊
こんちゃんのお城めぐり、第133回「九戸城跡」です😃

三ノ丸跡のエントランス広場に九戸城ガイドハウスがありました😊

九戸政実が城主の頃、豊臣秀吉による奥州仕置で、奥羽が混乱する中、三戸南部26代当主南部信直は、秀吉から本領を安堵されたそうです😌
一方奥州仕置や、信直に不満を持つ糠部の領主たちは、政実のもとに結集、天正19年(1591年)春、政実はついに蜂起したが、同年9月、秀吉がおくった再仕置軍に包囲され、政実は降伏し九戸城は落城したそうです😢
再仕置軍の蒲生氏郷が再普請して、信直に引き渡し、信直は南部氏の本城とし、名を福岡城と改めたそうです😌
その後、信直の子利直が盛岡城を築き、本城を移した後は、城代が置かれたそうですが、寛永13年(1636年)に廃城となったそうです😌

エントランス広場にある「史跡 九戸城跡」の石碑です😊
九戸城ガイドハウスで案内図やパンフレットを頂いてから、お城めぐりへ出発しました😌

正面に見えているのは、本丸や二ノ丸がある高台のようです😊
行ってみましょう😃
ワタシに付いてきて下さい❗タッタッタッ🐾

続日本100名城の幟です😊
本丸との間は、堀と土塁によって仕切られていて、本丸との比高差は約20mあるそうです😌

整備された園路を進んでゆくと、本丸西側の堀跡がありました😊

ウッドデッキ風の園路から見た堀跡です😊

二ノ丸跡の下で1度道路に出てしまいました😊
お城の外に出てしまったのかと思いましたら、なんと「深田堀」とゆう堀跡だったのです😲

道路横に「堀跡」の石碑がありました😊
現在道路になっているこの場所は、九戸城の二ノ丸と松ノ丸、在府小路(武家屋敷跡)を隔てる堀跡だったそうです😌
底での幅が60mもあり、日本の城跡でみられる堀跡としては最大級の立派なもので、城の時期によっては水堀であった可能性もあるそうです😊

深田堀の二ノ丸切岸です😃
二ノ丸南側の深田堀は、高低差が約10mあるそうですよ😊

この場所全体が、深田堀とゆう堀跡だったのですね😃
びっくりです😲

こちらが大手のようです😊
二ノ丸、本丸へはこちらから入って行きます😌

この先に二ノ丸大手があったみたいです😌
堀を挟んだ武家屋敷(在府小路遺跡)と土橋で繋がっていたそうです😊
二ノ丸大手は福岡城の普請時に改修したと推定されているそうです😌
平成30年度の調査によって、東西48m、南北5m以上の枡形虎口であることが判明したそうです😃
南から入ると土塁によって西へと進路を誘導され、虎口内を40m程度進むと北に折れ曲がり、本丸南東隅櫓付近で二ノ丸に入る構造になっていたそうです😊
想像してみましょう❗在りし日の、二ノ丸大手の姿を😌

現在の二ノ丸跡では、園児たちがピクニックをしていました😊
平和で良いですねぇ😌

二ノ丸搦手にある古碑群です😊
ローマ字の創始者田中舘愛橘の詩碑などがあるみたいです😌
左側が二ノ丸搦手でしたが通行止めになっていました😌

二ノ丸の東側に来ました😊
土塁跡のように見えますね😃

本丸の東面、南面は石垣をもつ堀と土塁で二ノ丸と画されているそうです😌
本丸側に見えているのは南東隅櫓跡です😌
本丸には他に、南西、北東と、3ヶ所に櫓を配していたそうです😊

堀跡との境を、人工的なフェンスではなく生け垣で仕切っているのが、とてもいいと思いました😊
素敵な整備の仕方ですね😃

次は本丸へ向かいます😌

土沢城跡(2023年5月)

2023年05月23日 | こんちゃんのお城めぐり
こんにちはこんちゃんです😊
ピース氏が訪れた土澤アート・クラフトフェア会場の美術館前エリアの裏山は、なんと城跡なのでした😃
これはめぐらねばなりません😌
それでは、第132回こんちゃんのお城めぐり「土沢城跡」を始めます😊
現在城跡は舘山公園となっています😌

さぁ参りましょう😃
ワタシがご案内します❗タッタッタッ🐾

少し行くと、入口手前に「堀跡」の標柱が立っていました😊
片側はコンクリートで固められてはいますが、堀跡らしい雰囲気は残っています😃

「大手橋跡」の標柱がある場所には、土沢城の説明と、古絵図がありました😊
それによると、近世、江刺氏居城の山城で初代城主江刺長作隆直は、旧葛西氏家臣で、南部藩新堀城居城後、伊達藩との藩境守備のため、この地に転封したそうです😌
こちらも伊達藩との藩境のためのお城だったのですね😊
築城は1612年(慶長17年)の春、廃城は1670年(寛文10年)といわれているそうです😌

大手橋跡から階段を上がって来ました😌
この場所は「大手桜丸跡」とゆうみたいですね😊
今は神社や東屋があります😊
御本館へは、右手奥にある階段を行くようです😃

大手桜丸跡から、谷とゆうか、窪みを挟んで見えるのは、東館みたいですね😊
きれいに整備されていて、曲輪の段々がよくわかります😃

大手桜丸跡から登って行く道は、大手道跡だったのですね😃
随所に標柱が立っていて、とてもわかりやすいです😊
大手道跡を園路にしているのもいいですねぇ😌

大手道跡を上って行くと曲輪の手前で突き当たり、道が左右にわかれていました😊
左側から行ってみましょう😌
タッタッタッ🐾

「西館跡」です😊
右手が少し高くなっています😌

1段高い場所に「中館跡」がありました😊
土沢城の縄張は、盛岡城や三戸城にも関係したといわれる、盛岡藩の野田内匠頭直盛であったとの伝えがあるそうです😊
城普請が得意な方だったのでしょうか😌

「大手門跡」です😊
先ほどの分かれ道を右に行くと大手門跡に出たのでしょうね😌

御本館跡に着きました😊
何かモニュメントみたいになっていますよ😃

こちらには説明文が刻まれていました😌
そして奥には、

とても立派な「土沢城跡」の石碑が立っていました😃
なかなか無い規模の石碑ですね😊

御本館から1段低い場所へ😌

ここが東館跡になります😊
それにしても、1670年廃城の城跡ですのによく形が残っていましたねぇ😌

東館跡の下にも曲輪が見えます😊
腰曲輪でしょうか😃

東館跡から直接下りては行けなかったので、1度道路へ出て、曲輪へ上る坂を見つけました😊

「廓跡」と書かれた標柱がここにも立っていました😊

今回の土沢城跡のお城めぐりは、とてもめぐりやすかったと思いました😊
随所にある標柱や、草木の刈り込み、曲輪の見せ方など、城跡を存分に楽しめる整備をなされていると思いました😃
とてもいい城跡ですね😊
堪能させて頂きました😌
それではまた次のお城めぐりでお会いしましょう😊
こんちゃんがお送りしました😌

花巻城跡(2023年4月)

2023年05月21日 | こんちゃんのお城めぐり
こんにちはこんちゃんです😊
今回のお城めぐりは、早坂御門跡から始まります😌
花巻城の二の丸に建立された楼門で、参勤交代などのときの一日市町、四日町への往来の公道の門であったそうです😌
築城創期には、盛岡城への往還、大手口の御門であったと伝えられているそうです😊
とゆうことで始まりました、こんちゃんのお城めぐり、第131回は「花巻城跡」です😃
早坂御門跡の奥に見える、左手の階段を登ってゆきます😊

城は本丸、二の丸、三の丸の三郭からなるそうです😌
階段を登ってゆくと、復元された西御門が見えてきました😊

手前の広場には、「御長屋跡」の標柱が立っていました😌
現在この場所は、鳥谷ヶ崎公園となっていますが、城跡としての案内があるのはとてもうれしいですね😊

「花巻城跡(鳥谷ヶ崎城跡)」の石碑もありました😊
花巻城の前身は、鳥谷ヶ崎城跡といい、中世領主、稗貫氏の居城だったそうです😌
稗貫氏は、鎌倉時代以来の名家でしたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻めに参陣しなかったことにより、所領没収の憂き目にあい、没落してしまったそうです😢

長屋前御門跡の標柱がありました😊

長屋前御門跡の左手にはお堀があります😊
花巻城には数多くの堀が巡らされていたそうです😌
外堀としては西側に濁り御堀、南に上御堀、下御堀、そして二の丸と三の丸の間には、薬研御堀、亀御堀、臼御堀などがあったそうです😊
本丸と二の丸の間にある、この鐘撞堂前御堀は、今も水をたたえています😌

鐘撞堂前御堀から西御門方向です😌
本丸の西御門に通じる土橋付近にのみ、野面積みの石垣が築かれているのが見えました😃
木が繁っていてよく見えなかったのが、少し残念です😌
せっかく残っている石垣ですから見えるように整備されているとよいなぁと思いました😊

石垣のあった土橋部分を通って復元された本丸西御門に来ました😌
平成4年(1992年)に花巻城整備400年を記念して復元が計画され、周辺の発掘調査や資料収集が行われたのち、平成7年4月に落成したそうです😊

本丸に入ると、土塁で囲まれている感じが残っていました😊
すてきです😃

本丸跡の標柱に、スックと立たせていただきました😃
天正19年(1591年)九戸政実の乱の平定後、稗貫、和賀、志和の三郡は南部氏の所領となり、鳥谷ヶ崎城は伊達領と境を接する要地であったことから、鳥谷ヶ崎城を整備して花巻城と改め、南部家の重臣、北秀愛を城代としたそうです😌
本丸には天守閣は造られず、藩主が宿泊する御殿と城代以下の役人が詰める御用の間があったそうです😊

初代二所ノ関軍右エ門墓碑ですか😌
宝暦10年(1760年)生まれ、和賀郡黒岩村万内(現北上市黒岩)出身の力士で、南部候のお抱えとなったそうです😌
文化3年(1806年)二所ノ関軍右エ門を襲名し、初代年寄となったそうです😊
現在もいらっしゃる二所ノ関親方のお名前は、ここ岩手県から始まっていたのですね😌

御武具蔵跡です😌
こちらの後ろも、土塁っぽく見えます😊

こちらは本丸御井戸です😊
残っているのですね😌

菱櫓跡です😊
花巻城は、南北に約500m、東西で最大700mあるそうです😌
奥羽山脈から東に延びる段丘の突出部を利用した城で、下位の段丘面との比高は約12mほどあるそうです😃

御台所前御門跡は本丸の南口となる門で、名称は、本丸御殿の「御料理之間」に面していたことによるそうです😌
「西御門」が藩主の使用する正門であるのに対して、こちらは城代などの藩士が使用する通用門だったそうです😊
本丸と二の丸を隔てる内堀を渡る坂道の奥にあり枡形を構成していたみたいです😌
慶長5年(1600年)の「和賀一揆」では、領内の反乱鎮圧や、最上の上杉征伐で兵力の手薄となった花巻城が、和賀、稗貫旧臣による夜襲を受け、三の丸、二の丸などが突破され、この門付近も激戦となったそうですが、城代、北松斎の指揮によって味方が帰還するまで持ちこたえ撃退したと伝えられているそうです😃

御囲穀御蔵前御堀跡を渡る坂道を通って、二の丸へゆきましょう😌

二の丸跡です😊
二の丸には、和賀、稗貫二郡の北上川筋にある八通りの年貢米を収納する土蔵が造られていたそうです😌
八通りの総石高は約8万石あったそうです😊

二の丸と三の丸の間にあった薬研御堀はどうなっているのでしょうか😊
この向こうでしょうか?😌

坂道を下ってみると、通りに出ました😊
もしかしたら昔はここが薬研御堀だったのかもしれません😌
はっきりとはわかりませんでした😊

三ノ丸には、武家屋敷が軒を連ねていたそうです😊
仙台藩と藩境を接していたため、花巻城が警備のための駐屯基地の役割を担っていたそうです😌
最後に花巻市役所前で、「史跡 花巻城大手門跡」の石碑を見つけました😃
そうですか、ここが花巻城の大手門だったのですね😌
よっち氏にお付き合いして花巻市役所まで来てよかったです😊

今回の花巻城跡は、本丸付近以外はほぼ遺構が残っていませんでしたが、現在ある遺構は大事に整備されていてよいお城めぐりが出来ました😌
それではまた次回のお城めぐりでお会いしましょう😊
こんちゃんがお送りしました😌