こんにちはこんちゃんです😊
遠野市にある鍋倉城跡に来ました😃
鍋倉城跡は、天正年間(1573~92年)に遠野を治めていた戦国大名の阿曽沼広郷によって築かれたと伝わっているそうです😌
阿曽沼氏は、豊臣秀吉に礼を欠いたため大名の地位を失い、南部家の配下となったそうです😞
さらに、慶長5年(1600年)には家臣の謀反により遠野を追われ、城代が遠野を治めることとなったようです😓
寛永4年(1627年)盛岡藩主南部利直の命により、筆頭家老の南部(八戸)直義が、八戸の根城から所替えし、遠野に入ったそうです😊
そうでした、八戸の根城南部氏がこちらへ来て、遠野南部氏になったのでしたね😃
鍋倉城跡は、県内屈指の大規模な中世山城の遺構を良好に残し、近世期も大きく改変せず近世城郭として利用し、戦国期から明治期まで存続した稀有な城郭として史跡指定に値するとして、令和5年3月20日国指定史跡となったそうです😊
長くなってしまいましたが、それでは始めましょう😌
こんちゃんのお城めぐり、第135回は「鍋倉城跡」です😃
まず、南部神社の鳥居をくぐり、石段を上って行きましょう😊
こちらには、中御門があったそうです😌
石段を上ると、南部神社の社殿がありました😊
明治時代、旧城跡に社殿を建てて鍋倉神社と称していましたが、昭和時代に南部神社と改称したそうです😌
勤王八世の南部氏をご祭神として祀っているそうです😌
南部神社境内に、「正面登城口」の看板がありました😃
本丸、二の丸、三の丸に登城する道は、北に面した急な谷地の湿潤な地帯を囲む様に構築された道を登ったそうです😌
現在の神社前登り口の通路はその跡なんだそうですよ😊
では、登って行きましょう😃
ワタシがご案内します❗タッタッタッ🐾
下から見上げると、竪堀のように見えました😃
こちらは、切岸っぽいですね😃
こちらは堀切ではないでしょうか😃
遺構かどうかは、分かりませんが、ワクワクします😊
三の丸手前にある駐車場は、武者溜だったそうです😊
下にも曲輪が見えますねぇ😊
そして、遠野の街がよく見えました😃
鍋倉城跡は、遠野市の市街地南端にある鍋倉山(標高344m)にあります😌
鍋倉山は、遠野盆地中心平野部に突出した半島状の地形で、東側と北側は来内川、西側は猿ヶ石川に囲まれた天然の要害なんだそうです😌
いい場所にあるお城だったから、中世から近世にかけて、ずっと使われてきたのでしょう😃
「三の丸址」の標柱があります😊三の丸に着いたようです😃
遠野南部家の重臣、中舘氏と福田氏の屋敷があったそうです😌
中世には東館と呼ばれていたそうですよ😊
三の丸には、天守閣風展望台がありました😊
三の丸の端から見下ろす景色は、切岸と帯曲輪みたいで、遺構にみえました😊
三の丸から武者溜へ戻って、今度は本丸を目指します😃
本丸手前に「大手門址」の看板がありました😊
ここにかつて、大手門があったのですね😌
阿曽沼氏の時代は、二階造りの「二楼門」であったそうですが、慶長7年(1602年)盛岡南部利直の命により、「四ツ足門」に改めたそうです😊
本丸に着きました😃
本丸には、城主の屋敷があったそうです😌本丸跡では、平成2年(1990年)から平成10年(1998年)度までに、5次にわたって発掘調査が行われたそうです😌
その結果、慶安4年(1651年)の火災後に建てられた本丸屋敷と推定される礎石建物等が、検出されたそうです😊
本丸屋敷と推定される礎石建物の遺構は、「鍋倉城本丸屋敷絵図」(安政3年(1856年)以降作成)とピタリと符合し、それによって、屋敷の正確な位置と、間取り、部屋の名前が明らかになっているそうです😌
「本丸館跡」の標柱です😃
かつてこの場所に、城主の屋敷が建っていたのです❗
あちらに、「本丸館 玄関跡」の標柱が建っていました😊
あそこが玄関だったのですね😌
本丸跡には、礎石が今も残っているそうです😊
これなど、まさに、礎石ではないでしょうか😃
本丸跡を出て、西側の搦手門跡方面に行ってみましょう😊
上から見た感じで、あそこが旧搦手門ではないかと思いました😌
築城当初はこちらが大手門だったそうです😊
最後に二の丸を目指します😊
左の坂を登って行くと二の丸みたいです😌
坂の途中に、「二の丸御門跡」の標柱がありました😊
こちらには、御門の礎石が残っていました😌
二の丸です😊
遠野南部家の筆頭家老、新田氏の屋敷があったそうです😌
中世には南館と呼ばれていたそうですよ😊
昭和46年に城下の大慈寺からここに、遠野南部家墓所が移転されたそうです😌
最初に築城した阿曽沼氏、そして遠野南部家に思いを馳せながら、今回のお城めぐりを終わりたいと思います😌
こんちゃんがお送りしました😊