<20代記者が受け継ぐ戦争 戦後74年> 戦い続けて まひする心
2019年8月11日 東京新聞朝刊
◆中国戦線元陸軍兵士・大河内正敏さん(100) × さいたま支局・森雅貴(25)
「戦場ではともかく、命令に従うしかなかったんだ。いつ自分が殺されるか分からない極限の気持ちだったからね」
百歳を迎えた今も、盆栽を育てるのが趣味という埼玉県川越市の大河内正敏さん。八十年前の中国戦線での体験も鮮明に記憶しており、戦争に関する取材が初めての私に語ってくれた。
大河内さんが生まれてすぐに父親は亡くなり、一家は母と姉の三人暮らし。日中戦争が始まって一年半後の一九三九(昭和十四)年二月、二十歳で召集を受けた。
東京・世田谷で陸軍の砲兵として訓練を受けた後、中国山東省青島に上陸。五カ所を転戦して、蒋介石率いる国民党軍の勢力と戦闘を繰り返した。
残党を滅ぼすため攻めこもうとしたら、十メートルほど先でドカーンという音が響き、手りゅう弾が破裂して、足をけがした。そのときに仲間が三人死んでしまった」「敵兵を撃ち、倒れるのを見たこともある。行かないと上官に怒られるわけだから」
将校候補の見習士官が、捕虜の中国人を処刑する場面も目撃した。捕虜は既に殴られたり蹴られたりしたようで、ぐったりとして抵抗しない。数百人が見守る原っぱで、背後から首に軍刀を斬りつけ、「ギャー」という声が響いた。一度で斬れず、何度も刀を振り下ろした。
大河内さんは五人の捕虜が処刑されるのを見た。「一日か二日は、飯を食べられなかった」と思いだしながら、「今の人は想像もできないだろうけどさ、かわいそうという気持ちは無くなっていって…。自分もいつ命がなくなるか分からないからね」と淡々と話した。
二年間の兵役を終えた四一年六月に帰国。「赤飯を炊いてもらって、自分の家の柔らかい布団で寝たときの感覚は今でも忘れられないよ」。険しい表情が続いていた大河内さんに笑顔が戻った。
太平洋戦争が始まったのは、その半年後。商業学校で簿記を習っていた大河内さんは、約五千人が働いていた埼玉・上福岡の陸軍造兵廠(しょう)福岡工場で会計を担当しており、再召集はされなかった。
ただ、周囲で二度目に召集された人たちは南方戦線に行き、帰ってきた人はいなかったという。終戦前、戦況が悪化していることはうすうす分かっていたが、「反抗したら憲兵に連れて行かれる。疑問を持っても従うしかなかった」という。
広島市で生まれ育った私は小学生のころから、学校で原爆を投下された話を聞いた。涙ながらに「罪のない一般市民が命を落とした」と訴える被爆者もいた。戦争がもたらす悲劇は受け継いできたつもりだったが、戦場で日本軍がしてきた残虐さには衝撃を受けた。
「捕虜を処刑するなんて、本当にあったんですね」。私がそう尋ねると、大河内さんは表情を曇らせた。「いま考えればとんでもない話だね…。戦時中は日本人が殺されたし、日本人も殺してきた。時間がたつにつれ、勝たなきゃいけないと切羽詰まり、心がまひしてくる。それが戦争。二度とあんな体験があってはいけない」
大河内さんの自宅を後にし、「戦争が始まったら、逆らうことはできない」と繰り返し聞いた言葉が心に残った。「家の布団で寝る」という当たり前のことが、「喜び」に感じる時代に戻ってはいけない。二十歳の若者が戦地に投入され、自由を奪われた。「二度とあんな体験はあってはいけない」という百歳の男性の言葉は重かった。
2019年8月11日 東京新聞朝刊
◆中国戦線元陸軍兵士・大河内正敏さん(100) × さいたま支局・森雅貴(25)
「戦場ではともかく、命令に従うしかなかったんだ。いつ自分が殺されるか分からない極限の気持ちだったからね」
百歳を迎えた今も、盆栽を育てるのが趣味という埼玉県川越市の大河内正敏さん。八十年前の中国戦線での体験も鮮明に記憶しており、戦争に関する取材が初めての私に語ってくれた。
大河内さんが生まれてすぐに父親は亡くなり、一家は母と姉の三人暮らし。日中戦争が始まって一年半後の一九三九(昭和十四)年二月、二十歳で召集を受けた。
東京・世田谷で陸軍の砲兵として訓練を受けた後、中国山東省青島に上陸。五カ所を転戦して、蒋介石率いる国民党軍の勢力と戦闘を繰り返した。
残党を滅ぼすため攻めこもうとしたら、十メートルほど先でドカーンという音が響き、手りゅう弾が破裂して、足をけがした。そのときに仲間が三人死んでしまった」「敵兵を撃ち、倒れるのを見たこともある。行かないと上官に怒られるわけだから」
将校候補の見習士官が、捕虜の中国人を処刑する場面も目撃した。捕虜は既に殴られたり蹴られたりしたようで、ぐったりとして抵抗しない。数百人が見守る原っぱで、背後から首に軍刀を斬りつけ、「ギャー」という声が響いた。一度で斬れず、何度も刀を振り下ろした。
大河内さんは五人の捕虜が処刑されるのを見た。「一日か二日は、飯を食べられなかった」と思いだしながら、「今の人は想像もできないだろうけどさ、かわいそうという気持ちは無くなっていって…。自分もいつ命がなくなるか分からないからね」と淡々と話した。
二年間の兵役を終えた四一年六月に帰国。「赤飯を炊いてもらって、自分の家の柔らかい布団で寝たときの感覚は今でも忘れられないよ」。険しい表情が続いていた大河内さんに笑顔が戻った。
太平洋戦争が始まったのは、その半年後。商業学校で簿記を習っていた大河内さんは、約五千人が働いていた埼玉・上福岡の陸軍造兵廠(しょう)福岡工場で会計を担当しており、再召集はされなかった。
ただ、周囲で二度目に召集された人たちは南方戦線に行き、帰ってきた人はいなかったという。終戦前、戦況が悪化していることはうすうす分かっていたが、「反抗したら憲兵に連れて行かれる。疑問を持っても従うしかなかった」という。
広島市で生まれ育った私は小学生のころから、学校で原爆を投下された話を聞いた。涙ながらに「罪のない一般市民が命を落とした」と訴える被爆者もいた。戦争がもたらす悲劇は受け継いできたつもりだったが、戦場で日本軍がしてきた残虐さには衝撃を受けた。
「捕虜を処刑するなんて、本当にあったんですね」。私がそう尋ねると、大河内さんは表情を曇らせた。「いま考えればとんでもない話だね…。戦時中は日本人が殺されたし、日本人も殺してきた。時間がたつにつれ、勝たなきゃいけないと切羽詰まり、心がまひしてくる。それが戦争。二度とあんな体験があってはいけない」
大河内さんの自宅を後にし、「戦争が始まったら、逆らうことはできない」と繰り返し聞いた言葉が心に残った。「家の布団で寝る」という当たり前のことが、「喜び」に感じる時代に戻ってはいけない。二十歳の若者が戦地に投入され、自由を奪われた。「二度とあんな体験はあってはいけない」という百歳の男性の言葉は重かった。