きらり!(^^)!

子どもたちの限りない可能性を求めて!

新たな歴史の1ページが

2019-12-21 22:02:35 | 歴史
新国立競技場を2020人が走る アシックスが“聖地”で初のランイベント

12/21(土) 16:30配信・WWD JAPAN.com

アシックスは、11月に完成した新国立競技場で一般客を招いたイベント“アシックス ファースト ラン”を12月21日に開催した。陸上トラックを実際に使用したイベントは完成以来初めて。イベントには抽選で選ばれた2020人のほか、国立競技場を設計した隈研吾やアシックスのブランドアンバサーで女優の土屋太鳳、渡辺直美ら多数のゲストが登場した。競技場内は5層建てで開放感があり、木材を使った屋根やアースカラーの座席など、隈がこだわる自然との一体感や温もりの演出が随所に見られた。収容人数は最大6万人で、東京オリンピック・パラリンピック終了後には8万人に拡張する予定もあり、新たなスポーツの“聖地”として期待がかかる。

イベントではレスリングの吉田沙保里やハンマー投げの室伏広治、女子マラソンの野口みずきや有森裕子、競泳の河合純一ら歴代のメダリストに加え、陸上の桐生祥秀や井谷俊介、射撃の田口亜紀、スケートボーダーの中村貴咲といった現役アスリートが、招待された2020人と1周400メートルのトラックを走る“メモリアルラン”を行った。ランニング中は楽しそうに記念撮影をしたり、興奮した様子でトラックの状態を語り合ったりと、それぞれが貴重な時間を楽しんでいた。

また一部の招待客とアスリートがチームを組み、5チーム対抗の800メートルリレーが行われ、吉田沙保里と井谷俊介を含む緑チームが優勝。第一走者を務めた吉田は勢い余って転倒するハプニングが起こり、「久しぶりに本気で走ったので」と笑った。7人組ユーチューバーのフィッシャーズと200メートル走で対決した桐生は「初めて国立競技場入ることができ、オリンピック本番のイメージがわいた。本番までもうすぐなのでまずは出場権を獲得し、本番ではファイナルに残ってメダルを獲りたい」と気を引き締めた。リレーのスターターを務めた土屋も「競技場はまるで高速道路のようで、走らせてくれる場所という感じがした。これからいろいろな記録が生まれそう」と期待した。

FUJIMICUP今年度も開催します

2019-12-20 21:44:46 | バスケットボール
今回で6回目を迎える「FUJIMICUP」の期日・会場が決まりました。
小中学生のバスケットマンたちの熱きゲーム今から楽しみです

 第6回FUJIMICUP~U13チャレンジマッチ小中交流大会~
 1 目 的    ・バスケットボールを通して児童生徒の健全育成を図る。
         ・4月に中学校に入学する小学生にバスケットボールの楽しさを経験させる。
         ・小中の指導者間の連携を図る場とする。

 2 主 催    川越市立富士見中学校男子バスケットボール部

 3 協 力    川越市立大東西中学校男子バスケットボール部
 
 4 協 賛    バイオレーラ(予定)

 5 期日・会場  令和2年2月11日(祝・火)  会場・大東西中学校

☆参加チーム、日程、組み合わせ等は後日決定します。

インクルーシブ教育について考える~ハートネットTVより~

2019-12-18 21:12:11 | 教育
今晩8:00~Eテレで注目すべき番組が放映されました。「目から鱗が落ちる」と感じさせる内容でした。
関心のある方はぜひ再放送を観ていただきたい

ハートネットTV「インクルーシブ教育 体育も一緒に」

これからの放送
2019年12月25日(水) 午後1時05分 〜 午後1時35分再

障害のある人とない人がともに学ぶ「インクルーシブ教育」。共生社会実現のために重要だが、体育については学校現場で長期の実践例はあまり知られていない。横浜市立仲尾台中学校では、横浜国立大学のサポートを受けてインクルーシブ教育を実践する中、ともに学ぶ体育の取り組みを1年にわたって行った。参加したのは車いすの兄弟とクラスメートたち。戸惑いの中、ともに楽しめる授業をどう作っていったのか、挑戦を追った。

出演者ほか

【ゲスト】筑波大学 体育系 准教授…齊藤まゆみ,【出演】太田雄介,太田啓介,横浜国立大学 教育学部 非常勤講師…高野陽介,【キャスター】中野淳,【語り】河野多紀

いだてん伝説

2019-12-17 21:45:38 | 歴史
金栗四三と二人三脚、導いた世界制覇 平和台を創った男・岡部平太の波瀾万丈な生涯

12/17(火) 17:05配信 ・西日本新聞


岡部平太を監督として挑んだボストンマラソン。田中茂樹が日本人で初めて優勝を果たす


 福岡国体を成功させ、福岡県体育協会の理事長に就任した岡部平太は、次の行動に出た。1950(昭和25)年になり、佐賀市で開催された20キロロードレースを視察した際、再会した金栗四三(かなくりしそう)に対して「日本人が陸上で世界に勝つにはマラソンしかない。練習の機会をつくりましょう」と熱っぽく説いた。

 日本人初のオリンピックマラソン選手だった金栗も賛同。寄付を集めて「オリンピックマラソンに優勝する会」を結成した。コーチは岡部や金栗が務め、3月から合宿に入った。練習会場は、平和台陸上競技場。選手たちは米や毛布を持って集まった。
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 米国留学で生理学を学んだ岡部は、マラソンを「肺と心臓で走る競技」と定義していた。そのため、心肺機能とスピードの両方が鍛えられるインターバル走や、起伏のあるコースを走るクロスカントリーを導入。疲労回復を図るため、選手たちにはカロリーの高い料理も食べさせた。選手のタイムが軒並みアップしたのを確認すると、金栗に進言した。

 「日本人の誇りを取り戻すには、米国の伝統ある大会を制するのが一番です」

 その舞台は、ボストンマラソン。戦後初めて日本人が挑む国際大会となった。51(同26)年春。監督は岡部が務め、広島出身で当時18歳の田中茂樹(88)=宇都宮市=ら4人を派遣した。

 しかし、選手はおびえきっていた。「負けたら捕虜にされる」と思った田中は、眠れなかったという。選手をリラックスさせようと考えた岡部は、フィギュアスケートの観戦を提案。田中だけが参加した。

 「女性が氷の上で滑ったり跳ねたりしていて、驚いた。美しさに見とれて、不安なんか消し飛んでいた」

 レース中も平常心を失わなかった田中は「後半勝負」という岡部の指示を守った。終盤の「心臓破りの丘」でスパート。2人を抜き、ゴールに飛び込んだ。戦後、日本人が初めて国際大会を制した瞬間だった。

 田中を抱きかかえた岡部は大声で泣いた。米国紙の一面を飾った「JAPAN勝利」の文字と、岡部の教えを田中は忘れない。「勝つ根拠を教えてくれた。そんな指導者は初めてだった」

 岡部と金栗は、その後も二人三脚で指導。国際大会で10年間に6度も優勝させ、日本マラソン界の礎を築く。