認めたくなかった。
でも、認めざるを得なくなった。
それは私が私だから私を好きだという人たちを認めることによって、已今当、私が私だから私を嫌いな人たちがいるということを認めるということを。
が、それはそれで当たり前のことだ。
人として生きている限り、当たり前のことなんだ。
そう感じたときに、「あ~、私は人並みの人間なんだなあ。」と、そう納得がいった。
実は私の心理の根底にあるのは、
私が私であるから、私は人々に軽蔑され拒絶される。
そしてその類が、私の大好きな人たちに及ぶという思い込みだ。
私が人に受け入れられず人に小馬鹿にされる人物であるのは(いや、そのこと自体、相当堪えることだが)しょうがないが、それが私の愛する人々にまで及ぶというのは実に苦痛だ。
実は私の心の海の底に沈んで私をさいなむ心理というのはそれだ。
そして私はその理由がほかにあるとは未だに信じられないのだ。
実は私はメンタルの病の診断を受けたときに、ある種の喜びを感じた。
それは私の生きづらさである、人々から軽蔑され拒絶されるのが、
「私が私であるからでなく、私がメンタルをやんでいるから。」
そう医者のお墨付きを受けたということが、何か私が認めがたいことを、認めなくてすむようにしてもらえと、私が感じたからだ。
私が私であるから、人々から無視され小馬鹿にされるという感じ方が、どれだけ苦痛であるか、それを体験したことのない人間にはわかるまい。
例えば、自分がエル・ファシルの逃亡者であるから、帝国民からも、同盟国民からも、軽蔑し拒絶され、迫害されるというのはまだ救いがある。
なぜならその人は、エルファシルの逃亡者でなければ、人から人並みの敬意を受け、受け入れられるからだ。
しかし、私が私であるから人に小馬鹿にされ、受け入れられないという事実に対する救いは、私がこの世から消えない限り、あり得ないことだからである。
実際、ある人の小説では、主人公のエルファシルの逃亡者という烙印が消えたら、彼は人に好かれ、人間関係がスムーズにいっているからだ。
さて、人から軽蔑され拒絶されるという感じ方が病的妄想であるなら、妄想を軽減させる薬を飲めば楽になるからそれでまだ救われる。
が、目覚めた孔雀にしてみれば、私が私であるからこそ、人から小馬鹿にされ、拒絶されるという痛みに対する救いはない。
そんな中で、私が私であるから受け入れて愛してもらえるということは、本当に救いである。
実にうれしいことだ。
私は論文執筆になれてないので、うまく文章化することはできないが、それだけ、「私が私であるから、人に小馬鹿にされ、受け入れられない。」
その感じ方はつらく苦しいものなのだ。
はー、やっと言語化できた。
このことは、メンタルの病云々よりも、ある種の信念を抱いた人の心の叫びであろう。
そんなことを痛感した目覚めた孔雀であった。
結局今夜は眠れなかったな。
ポイ活で稼ごうっと。
そんなわけである。
以上、管内お江戸でいけもと。