二十一世紀の「宗教」。
SDGsに加担する連中は、知らず知らずのうちに、SDGs教に加担している。
そしてその熱心党は、社会規範を逸脱して暴れまくりたい衝動に駆られて、環境問題を口実に暴れ回る環境テロリストだ。
ごく少数の極端な金持ちと、大多数の貧乏人を作り上げろことがまかり通っている世界で、SDGsのお題目がどこで通用しているのか?
ならば給食を余分にもらって帰り、幼い弟妹に食べさせるという、かわいそうな子供たちがいるはずがない。
彼らは学校の給食や子ども食堂で飢えを満たしているかわいそうな子供たちだ。
そんな社会をでっち上げておいて、何が「世界から貧困をなくそう」だ。
それに。
かつての利潤追求のいいわけは、かつては隣人愛の実践だったが、今は、「環境に優しい」だ。
「これは環境に優しい商品だから、少し割高です。」
だなんてうそぶかれ、懐に厳しい商品を売りつけられていることにも気づかず、人にも地球にもいいことをしたつもりになっているこざかしい消費者たちは、商人たちのネギを背負った格好のカモだ。
そう、それ以前の「宗教」の信者が、身分や病で働けない貧乏人に施して、いいことをしたつもりになってるのと、全く同じ。
こんな話は枚挙いとまない。
SDGsや環境問題などは、かつての「宗教」が、身分制度や社会からの疎外から目をそらす道具だったが、今は原子化された個人がかりそめに結合して暴れ回るための口実なのだ。
かつての「宗教」は、最後の審判や天国と地獄などの目に見えないものを飴と鞭とするものだったが、SDGsや環境問題は、地球の破滅と人類の滅亡をネタとした目に見えるものにすり替わっている分、実にたちが悪い。
昔からそうだったように、二十一世紀の「宗教」も、暇なキーサンやな環境ヲタクどもがそろいのはっぴとはちまきで、街を練り歩いたり、あちらこちらで暴れ回るための口実で、所詮は口頭詐欺師や商人たちのおなかを満足させる道具に過ぎないのだ。
ああ、あほらしい。