実にシンプルなことだ。
夭折した友人は、私が私だから友人をやってくれていたんだ。
私が馬鹿だろうが、利口だろうが関係ない。
まさに私が私だから、私の友達をやってくれていたんだ。
逆に考えれば、俺は、
相手が相手だから好き、
相手が相手だから愛する。
そんな単純な理由で、人と付き合ったことがあっただろうか。
ない。
実に条件付きの愛であった。
それ以前に私は人を愛する能力があったか?
いや、ない。
美醜で相手を差別し、能力で相手を差別し、貧富で相手を差別し、エトセトラ。
相手が相手だから嫌う、相手が相手だから愛する。
そんなことはなかったなあ。
そんなていたらくだから、利害関係に流され、利害でいいように操作されていた。
私も馬鹿ではなかったから、それははっきりとわかった。
所詮相手も人の子だ。
そんな諦観とともに、我がことながら、自分の人間関係を傍観し、内心冷笑していたのである。
閑話休題。
結局人間関係というものは、
相手が相手だから、付き合う、
相手が相手だから、付き合わない。
それにつきるのだ。
相手が相手だから。
そのためには、他者の個別化。それが必要だと痛感した。
相手が相手だから。
これは恋に似ている。
それもいくらたっても冷めない恋。
それが愛なのか?
私にはわからない。
体調不良の母親が作ってくれたラーメンを食べる直前、ふと、夭折した友人が、なぜ私を友達として選んでくれたのか直感して、こんなブログを書いてみたのである。
以上である。