それにしても眠れないのだ

日々の眠れない出来事を虚実織り交ぜて

それにしても「嘘と本当が裏腹じゃなくなる話」なのだ。

2018-08-23 20:35:28 | Weblog
 「最近は女性芸能人の間で本当の体重公開が流行っている」というニュース記事を読んだ。記事の内容をざっくりまとめると、かつては平気で“嘘”と“理想”を掲げていた芸能人も、昨今の風潮からか、テレビやSNSで“本当”と“現実”を見せ、自分は正直であり、かつ理想のために自分はこんなにも頑張っているアピールもするようになった・・・みたいな感じだろうか。この記事を読んだ人達の多くは、それぞれの思う体重や芸能人に対しての思いを語っていたんだけど、筆者が記事で一番心に残ったのは、上記のまとめでは省いたけど、“テレビ的なウソ”という言葉だ。
 記事内では、「テレビ番組の収録で、見てもいないVTRを見たという体で進めるのはどんなものか」と、マツコ・デラックスが苦言を呈したことを例に挙げて、テレビ的なウソは「視聴者に嫌われる要因だ!と、スタッフを叱責した」と書いていたんだけど、それを読んだら、筆者的には『“テレビ的な嘘”って“テレビ的な本当”と、まったく同じじゃなかろうか?うん同じだ!』と、思えてしまったのだ。これは「テレビ」の部分を「芸能人」に変えても成り立つし、他の誰でも何にでも変えても多分成り立つだろう。ポイントは“的”の部分だ。これのおかげで“嘘=本当”が成立しているのだ。
 例えば、「本当にあった怖い話」って本とかテレビ番組とかあるけど、まずこれは、「(私の)本当にあった怖い話」という、日本語にありがちな主語の「私の」が省略されているはずなんだけど、「私の」となると、世の中には本当を装った嘘話が蔓延しているけど、ここで語られる話は本当であり嘘ではないと発信者当人は断言しているも同然だし、読者や視聴者もそう信じているし、そうでないのはあり得ないと思っているし、それを裏切るなんて言語道断なわけだ。でも、これが「(私的に)本当にあった怖い話」となると信憑性は格段に落ちるし、ある状況があったとして、当人がそう思ったんなら他人がどう思おうが関係ないないのだ。ある状況があったとして、「私的に本当にあった」も「私的に本当になかった」と言っても差し支えないし、むしろ受け手は真実に拘泥してはいけないのだ。「人志松本のすべらない話」も「人志松本的にすべらない話」なら、一般人が叩いている“いわゆる問題”は何ら問題にはならないのだ。“嘘=本当”という不思議なことも、“的”の一つで不思議じゃなくなるなんて、実に興味深い!感じだ。
 まそれはそれとして、“嘘”という言葉にはかなり悪い印象がつきまといがちだけど、記事内で“テレビ的なホントウ”ではなく“テレビ的なウソ”という言葉を使ったのは、多分きちんと言葉を選んだ上の事だろうし、発信者のテレビに対する強い意志を感じるなぁ・・・と、そんなこんな事を筆者的に考えてしまったのでした。
 ってな感じで色々頭を使ったのでもう疲れてしまって、今日の夜は眠れない~なんて事にはならなそうだ。
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