母が毎朝起きると眺めた山々 翌朝の東と南の空は穏やかに晴れ上がった
14日、土曜日は母が西方浄土へ旅立った日、なぜか悲しみの感情は落ち着いていました。
妻の居ない私は帰省、葬儀参列の身支度を全て、落ち着いてゆっくり準備しました。
亡妻にいつも笑われましがが、引越しをするくらいあれこれ車に積み込みます。
親戚への電話で日取りは、葬儀会場の都合で通常より一日遅れ、15日仮通夜、16日通夜、17日葬儀と決まったことを確認しました。親戚縁者に迷惑をかけます。
入院、闘病、臨終、葬儀と遺族はふらふらの過酷な心身状態で葬儀を迎えることになります。
亡くなったその瞬間から葬儀社へ予約、お寺へ通知、遺体搬送、役所へ死亡届など寸暇を割いての行動が求められます。悲しみなどに浸ってはおれません。
葬儀社へは数日前から空き具合を確かめていたようですが、生存中には予約はできないといっていました。
お経の本と、平成19年に亡妻の納骨・須弥壇収骨(しゅみだん・しゅうこつ)を京都・東本願寺で行いました。そのついでに帰敬式(ききょうしき:おかみそり)を受けて、その時頂いた相続講員略肩衣(略式の袈裟)も積み込みました。
途中、御供え物のお菓子を求め、家には車で120kmほど、夕方近く実家に着きました。
母は仏間に型どおり北枕で寝かされていて、本当に穏やかな顔の昼寝の覚めぬ御姿でした。
田舎の葬式はしきたりがきちんと決められていて、両本家の惣領など主だった3、4人の親戚は集まっていて、段取りを予備的に相談しておられました。遠くに住む直系親族でも口を挟む余地はありません。
集落内の「2升持ち親戚」に夕食後集まってもらいます。そこで喪主が葬儀を執り行わせてもらいたいと、正式に下座に着き正座して十数人の2升持ちにお願いをします。
葬儀委員長が先ず決められ、つづいて亭主役(接待係)、香典受付、記帳、在宅中の香典受付、連絡係、写真記録係、留守番役などの役割り分担を決め、おとき(お斎)を通夜、葬儀日、焼却場など、どんな内容で(パックかオードブルか)振舞うか、バスの時間(親族・一般)や坊さんの足、初七日の日取り、時間、お斎の確認など事細かに、下相談の概要に沿って葬儀委員長が喪家の意向を確認しながら決められて行く様は歌舞伎の所作をみるごとくです。
葬式相談は1時間くらいで終わり、振る舞い酒が茶碗で出されます。私は姉の息子と連絡係を拝命し、夜も10時頃でしたが「1升持ち親戚」3軒を訪問し、決まった次第を告げお願いをして歩きました。
今は葬儀会場でやるので簡単になったのです。昔はどんな夜中であっても2升持ち親戚を訪問し、「誰それがお浄土へ参ったので葬式相談に集まって下さい」と、頼んで歩いたのです。
お斎を正式には、非時(ひじ)・時に非ずというと、私の菩提寺の住職さんに教わりましたが、葬式相談も時間を問いません。非時、夜中でもいつでもよいとされています。
今夜の不寝番も決まり最初の一夜は終わりました。
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