たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

歴史散歩 春日局ゆかりの地 その3

2013年07月20日 | その他

法泉寺のある武芸川町谷口の集落の外れの県道入り口から、さらに1キロほどの深い山の中の行き止まりに汾陽寺(ふんようじ)がありました。
県道を谷口の集落を過ぎ、つづら折れの「阪の峠」を登りきると頂上が「寺尾の千本桜」です。
汾陽寺の入り口を見落として戻るに戻れず峠を越し、千本桜の駐車場まで行ってしまい、そこから戻りました。今度は汾陽寺入り口のバス停標識でようやくたどり着きました。
入り口から数百メートルは舗装道路、途中から1キロほどの坂道が砂利道です。道肌は雨水で荒れていました。
こんな山の中に無住寺でない寺が本当にあるのかと、薄暗い杉木立の中を行き、寺の前100メートルほどの急坂が乗用車では難儀で、退避場に車を止め、そこから徒歩で登りました。お寺へ着くと、やはりご住職の車は4輪駆動の乗用車でした。

この寺は、登り口の由緒看板のとおり、やはり歴史の古いお寺です。
”創建は、土岐氏執権斉藤越前守利永
再興は、斉藤新四郎利国で利永、利国は共に美濃を支配した武将。利国の遠縁に春日局の父、斉藤内蔵助利三(としみつ)あり、この縁で局は当寺にしばしば参詣したと伝えあり。(お局道)”とあります。

斉藤利三は本能寺の変で明智光秀につき、信長を討ったが、秀吉に攻められ光秀は戦死、利三も捕えられ洛中引きまわしの上、六条川原で首を切られた。秀吉は光秀と利三の首と死体をあらためてつなぎあわせ、粟田口で磔にした。
お福も母に連れられ変わり果てた父を見に行ったという説もあると、「歴史秘話ヒストリア」は放映しました。お福(春日局)が4歳のときです。

お福は17歳のとき稲葉正成(まさなり)と結婚。5年後に関ヶ原の戦いが起こる。戦いの翌年、正成は主君の小早川秀明と不和となり浪人、故郷の美濃谷口に引っ込んでしまった。お福も夫に従った。23歳だった。
夫の再仕官の口はなかなか見つからなかった。お福にはすでに3人の男の子が生まれていた。そうした時、将軍家で生まれてくる子供のために乳母を募集していると聞きそれに応じ、家康は経歴を気に入り、お福は夫と離婚して江戸に向った。折り良くお福は4人目の男の子を出産したばかり、お乳は出る、狭い館で妻妾洞穴、夫にも嫌気がさしていて家庭不和、妻主導で離婚した。26歳だった。
(参考資料、「日本史探訪」北条秀司、杉本苑子、「春日局」小和田哲男等)

亡き父の菩提を弔うため、3年間昼なお暗い「お局道」をしばしば参詣したのかと想像しました。それにしてもこの辺ぴな山の禅寺を、よく何百年も守ってこられたと、住職さんに敬意を感じました。
   
汾陽寺由緒           県道入り口集落方面  お局道         本堂前

    
本堂と道場        本堂と道場       山門           お局道

余話へつづく


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