知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「豊饒の海 “家船”の暮らし」

2010年02月23日 22時45分43秒 | ふるさと
NHK-BSのシリーズ「こんなすてきなにっぽんが」の一つとして放映された番組を観ました。

~解説より~
 「瀬戸内海に浮かぶ広島県呉市の豊島に“家船(えぶね)”と呼ばれる漁船があります。
 家船には、生活用具一式が積まれ、夫婦で乗り込んで、瀬戸内海各地を魚を追いながら漁を続けます。最近では、日帰り操業に切り替える漁師が増える中、いまも夫婦で泊まり込みの漁を続ける漁師がいます。伝統の一本釣りでタチウオ漁をしながら、寄港先でさまざまな人たちとふれあう、家船の漁師たちの日々を見つめます。」

「エッ? まだ存在したんだ・・・」というのが私の第1印象でした。
実は「家船」と云う名称に聞き覚えがありました。
確か、五木寛之さんの著作に出てきたはず。
本棚を探して引っ張り出してきました。
あったあった、『日本人のこころ』シリーズの「サンカの民と被差別の世界」(講談社、2005年)という本がそれです。

五木寛之さんの世界には昔から惹かれました。
「放浪」「漂泊」のイメージを纏う作家です。
学生時代(四半世紀前)には東欧の連作小説を読み耽り、映画「戒厳令の夜」に感動し、最近は「日本」を独自の視点で探る著作を読むに至っています。
根がアマノジャクなので、ヒット作「大河の一滴」や「百寺巡礼」は読んでいませんが。

五木さんは書いています;
 この『日本人のこころ』シリーズでは、土蜘蛛(ツチグモ)や隼人(ハヤト)や熊襲(クマソ)や蝦夷(エミシ)などと呼ばれた先住民のことを書いた。そこまで踏み込んで隠された歴史のひだを見なければ、”日本人のこころ”を考えたことにならないのではないか、そんな思いが私の中にはある。
 歴史の表舞台に出てこない人々。歴史の細かいヒダに隠れて陽が当たらないままになっている人々。
 そういう人々に惹かれてしまう。

 ・・・この言葉にウンウン頷いてしまう私です。歴史に名を残すことなどに関心なく、黙々と日々の生活を営んできた人々、それが私の祖先です。
 ジブリ映画「千と千尋の神隠し」に『顔なし』と千尋が電車に乗っておばあさんに会いに行く場面がありますよね。電車に乗っている静かな人たちは黒い影として描かれ、表情も読み取れません。あの描き方に感動してしまう私です。

 「サンカ」を山の漂白民と捉えるなら、「家船」は海の漂白民である、と五木さん。
 明治維新、第二次世界大戦後と歴史の節目節目で、政府は家船民を戸籍で拘束し税を徴収しようと働きかけてきました。その度にその文化が削られ、失われてきました。

 今は夫婦だけの船上生活が一般的なようですが、昔は家族全員での船上生活でしたので、当然、子ども達は学校教育に縁がありませんでした。
 文字も読めないし(漁には必要ない?)、学校へ行っても海という自然現象や仕事を覚えることはできません。
 子ども達にとって「船上生活=学校」でもあったのですね。

 でも、そういう時代は過ぎ去りました。
 おそらく今の世代が最後の「家船」継承者になるのでしょう。
 細々と残ってこれたのは、瀬戸内海という狭い漁場が大型船の網を使った漁に適さなかったからだと思われます。

 番組を見ていて感じたのは、競争して他人より豊かになりたいという雰囲気が皆無であること。
 漁場を教え合い、獲物を分け合い、行く先々の港でなじみの家がたくさんあり、皆助け合って生活しています。
 その表情は明るく「仲間と自然に抱かれて生きる喜び」に溢れていました。
 都市生活する現代人が失ってしまったものです。
 「ウツ」なんて無縁なんだろうなあ。

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