
旭川市博物館。旭川市神楽3条。
2022年6月21日(火)。
ニブㇷ(ギリヤーク)。ウィルタ。
サハリンアイヌ(エンチュウ)。オロチョン(エベンキ)。
交易の民アイヌ。
アイヌの活動圏は 11世紀にはサハリン、13世紀には大陸まで拡大し、千島を北上して15世紀にはカムチャッカ半島に達してグローバルな交易ネットワークを築いた。
中国の元の軍隊と戦うアイヌ。
11世紀にサハリンに進出したアイヌは、13世紀にはその数も増え、地元の先住民と交易品をめぐってトラブになり、サハリンに政治的影響を及ぼしていた中国の元朝が差し向けた軍隊と戦争した。
10世紀以降、北海道のアイヌの人びとは、サハリンから南下して北海道の北半分を占めていたオホーツク文化人を排除・同化しながら全道に進出した。
さらに11世紀前半にはサハリン南部、13世紀以降は千島へも進出し、15世紀にはカムチャツカ半島まで活動圏を拡大した。
古代から中世のアイヌについて記した日本側の史料はほとんどないが、中国側の史料である『元史』などには、次々と活動圏を拡大してゆく13世紀から14世紀当時のアイヌの生々しい姿が記録されている。
モンゴル帝国 (元)は、13世紀の半ばころまでには、その勢力をアムール川 (黒竜江)下流域まで伸ばし、河口部近くに東征元帥府を設置した。さらにその政治的影響は、サハリンにまで及んでいた。
そのようななか1264年、元に服属していたサハリン先住民のギレミ(ニブフ)から、クイ(アイヌ)が毎年宗谷海峡を渡つて自分たちの領域を侵すとの訴えがおこった。そこで元は兵 1万人 口船 1千艘を派遣してアイヌを攻撃し、かれらの侵入を排除した。実際には数千人規模のことも多かつたようであるが、それでもこの地域においては大軍であつたといえる。
アイヌはサハリンに侵入するだけでなく、大陸に渡つて村々を襲い、略奪をおこなつて元軍の手を焼かせていたが、1308年には毎年毛皮を貢納することを約束し、元に降伏した。
永寧寺碑文拓本。
アムール川下流に中国の明朝が建てた石碑には、大陸に渡つてくるアイヌの姿が記録され、中世アイヌの活動圏の大きさが分かる。