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東京都小金井市 江戸東京たてもの園②デ・ラランデ邸 常盤台写真場 三井八郎右衞門邸 旧自証院霊屋

2025年01月21日 09時07分43秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。東京都小金井市。都立小金井公園内。

2025年1月5日(日)。

 

デ・ラランデ邸。

建築年代は、1910年(明治43)ころ。旧所在地は新宿区信濃町。

この住宅は、元は平屋建ての洋館で、明治時代の気象学者・物理学者の北尾次郎が自邸として設計したと伝わる木造瓦葺き寄棟屋根・下見板張りの洋館だった。北尾の逝去後、1910年(明治43年)頃にドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデの住居となったデ・ラランデによって木造3階建てに大規模増築され、北尾次郎居住時の1階部分も大改造されたと見られている。

1914年(大正3年)にデ・ラランデが死去した後、何度か居住者が変わり、1956年(昭和31年)から、カルピス株式会社の創業者三島海雲の住居となった。三島海雲の死後は三島食品工業株式会社の事務所として1999年(平成11年)まで使用された。同年、東京都に寄贈され、江戸東京たてもの園で復元工事が進められ、2013年4月20日に公開された。

建物は大規模増築が行われた頃、室内は残された古写真を基にデ・ラランデ居住時(大正期)を想定した復元がなされた。邸内にはカフェ「武蔵野茶房」が出店している

この建物は1910年頃、デ・ラランデが自宅兼事務所として建てたと考えられてきたが、建物を解体した際の調査によって、当初は平屋建の建物であり、後に2・3階部分が増築されたことが判明した。

ドイツ在住でデ・ラランデの足跡を調査してきた広瀬毅彦は、土地所有者だった北尾次郎の子孫宅で発見した明治時代の写真等から、北尾次郎が1892年(明治25年)に自ら設計して平屋建ての洋館を建てていたことを確認した。また、土地台帳等の調査から、土地は北尾次郎の死後も(昭和期まで)北尾家が所有していたことが判明した。広瀬は、デ・ラランデは借家人だった可能性が強いと推定し、デ・ラランデが増築部分を設計した根拠は見当たらないとした。

江戸東京たてもの園は、当時の「建築画報」(1912年7月)がデ・ラランデの設計作品として紹介していることや、解体した部材(2階部分)に「ゲーラランデー」という墨書があったことなどを根拠に増築部分はデ・ラランデの設計と推定している。

ゲオルグ・デ・ラランデ(Georg de Lalande, 1872年~ 1914年)は、ドイツ出身の建築家で、日本で設計事務所を開き、重文・トーマス邸(風見鶏の館)(1904年築、神戸市)、旧ロシア領事館 (函館市)をはじめとする作品を残した。日本にユーゲント・シュティールと呼ばれる建築様式をもたらしたとされる

1894年シャルロッテンブルク工科大学(後のベルリン工科大学)を卒業し、ブレスラウ(現:ポーランド領ヴロツワフ)、グローガウ(現:ポーランド領グウォグフ)、ウイーン、ベルリンで働いたのち、1901年から2年間上海、天津で仕事をした。ドイツ人建築家リヒャルト・ゼールの招きで1903年に横浜へ渡った同年、ゼールがドイツへ帰国したため、建築設計事務所をそのまま引き継いだ。デ・ラランデは横浜だけでなく東京、京都、大阪、神戸、朝鮮など日本領内の各地を巡り仕事をした。ドイツ世紀末の様式であるユーゲント・シュティールの高田商会などでも知られる。

設計した建物は、オリエンタルホテル(神戸市中央区海岸通、 1907年築)、デ・ラランデ自邸(横浜・根岸、1905年築)、三井銀行大阪支店(大阪市中央区北浜、 1914年築)、朝鮮ホテル旧館(京城・現ソウル、 1916年築)、高田商会 ( 1914年築)、朝鮮総督府 ( デ・ラランデが基本設計。1926年築)。など多数あるが、ほとんど現存しない。

2階寝室。

3階への階段部。

綱島家(農家)。

建築年代は、江戸時代中期。旧所在地は世田谷区岡本三丁目。

多摩川をのぞむ崖線上にあった広間型の間取りを持つ茅葺きの民家である。広間と土間境の長方形断面の大黒柱や、オシイタという古い形式の板などから、建物の歴史が感じられる。-

常盤台写真場(ときわだいしゃしんじょう)。

建築年代は、1937年(昭和12)。旧所在地は板橋区常盤台一丁目。

健康住宅地として開発された郊外住宅地・常盤台に建てられた写真館である。照明設備が発達していない当時、最も安定した照度を得るために、 2階写場の大きな窓には北側から間接光を採ることができるように摺りガラスがはめこまれている。

三井八郎右衞門邸。東京都指定有形文化財(建造物)。

建築年代は主屋が1952年(昭和27)、土蔵が1874年(明治7)。旧所在地は港区西麻布三丁目。

港区西麻布に1952年(昭和27)に建てられた邸宅である。客間と食堂部分は、1897年(明治30)頃京都に建てられ、戦後港区に移築されたものである。また、蔵は1874年(明治7)の建築当初の土蔵として復元された。

2025年3月下旬まで修繕工事中。

旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや)。東京都指定有形文化財。

建築年代は、1652年(慶安5)。旧所在地は、新宿区市ヶ谷富久町。

尾張藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振の方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために建立した霊屋で、幕府大棟梁甲良宗賀による華やかな霊廟建築である。

自証院(1620年代頃 ~1640年)は、三代将軍徳川家光の側室で、千代姫(尾張藩主徳川光友正室)の生母。通称はお振の方。母は祖心尼の娘・おたあ、父は蒲生家家臣岡重政の子岡吉右衛門。また、吉右衛門の母(振の祖母)は石田三成の娘で、振は三成の曾孫にあたる。祖心尼は伊勢国岩手城主・牧村利貞の娘で前田利長の養女となり、義理の叔母春日局の補佐役として徳川家光に仕えた。

岡重政は蒲生秀行の信任が篤く、秀行の死後も藩主忠郷が幼少のため藩政を取り仕切っていた。しかし会津地震後、藩財政・領国の疲弊を顧みず大規模な寺社復興を行う忠郷の母・振姫(秀行の正室、徳川家康の三女で徳川秀忠の妹)と藩政をめぐり対立、振姫が家康に訴えたため駿府に召喚され、切腹処分となった。

重政の死後、息子の吉右衛門は同じ蒲生家臣だった祖心尼の夫・町野幸和に保護され、幸和、祖心尼夫妻の娘おたあと結婚した。2人の間に生まれたのがお振である。やがて祖心尼は、親類にあたる春日局の引き立てで大奥に老女として仕えるようになり、振は春日局の養女として大奥に入り、寛永13年(1636年)、家光の手がついて初めての側室となる。これは、家光が男色を好み女性を近づけないため、跡継ぎが生まれないことを懸念した春日局と祖心尼が、振を男装させて近づけたといわれている。

お振の方は寛永14年(1637年)閏3月5日、家光にとって初めての子である長女・千代姫を産む。その後体調を崩し、3年後の寛永17年(1640年)に死去した。榎町の法常寺に葬られた後、慶安5年(1652年)富久町の自證院に建てられた霊廟に改葬された。

 


東京都小金井市 江戸東京たてもの園①田園調布の家 前川國男邸 小出邸

2025年01月20日 09時14分02秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。入口のビジターセンター。東京都小金井市。都立小金井公園内。

ビジターセンター・旧光華殿(きゅうこうかでん)は、1940年(昭和15)に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために建設された式殿である。

1941年(昭和16)に小金井大緑地(現在の小金井公園)に移築され、光華殿と命名された。 江戸東京たてもの園の開園にあたり、ビジターセンターとして改修された。

2025年1月5日(日)。

 

江戸東京たてもの園は、1993年開園時から一度見学しようと思っていたが後回しになっていたが、新年の飾りつけ風景などがあるこの時季を選択した。東京サブウェイ72時間フリー乗車券を利用して荻窪まで行き、JR中央線に乗り換えて東小金井駅で下車。運賃180円。東小金井駅北口のCoCoバス(小金井市コミュニティバス)乗り場から、北東部循環系統バス6分で「たてもの園入口」下車。運賃身障者半額90円(IC払い)。徒歩10分で江戸東京たてもの園に着いた。

10時過ぎに入園し、13時15分ごろ園を出た。

高橋是清邸は226事件で高橋是清が暗殺された現場が移築されたものである。関東大震災後の復興後に流行した商業建築である藤森照信命名の「看板建築」が多数移築されている。前川國男や堀口捨巳という近代建築を代表する建築家が設計した家屋は貴重である。

江戸東京たてもの園は、失われてゆく江戸・東京の歴史的な建物を移築保存し展示する目的で東京都小金井市の都立小金井公園内に設置された野外博物館。東京都墨田区横網にある東京都江戸東京博物館の分館である。

小金井公園には古代住居や江戸時代の農家を移築・展示する「武蔵野郷土館」があった。1954年の小金井公園開園時に、井の頭恩賜公園にあった「武蔵野博物館」を移転し開館したもので、光華殿(現・江戸東京たてもの園ビジターセンター)、鍵屋、吉野家住宅などは当時からの施設である。1991年(平成3年)に閉館した。

1993年(平成5年)3月、江戸東京博物館の開館に合わせ、武蔵野郷土館を拡充する形で「江戸東京たてもの園」として復元建造物12棟で開園した。高い文化的価値がありながら現地保存が困難となった江戸時代から昭和初期までの30棟の建造物を移築復元し展示している。

園内は3つのゾーンに分けられ、西ゾーンは武蔵野の農家と山の手の住宅、センターゾーンは格式ある歴史的建造物が並び、東ゾーンは下町の町並みが再現されている。

ビジターセンターの新春風景。

まず、西ゾーンW7の「田園調布の家」から見学していった。

田園調布の家(大川邸)。

建築年代は1925年(大正14)。旧所在地は大田区田園調布四丁目。

田園調布は、渋沢栄一が設立した「田園都市株式会社」が開発した郊外住宅地の一つで、1923年19月から分譲が開始された。この住宅は1925年(大正14)に建てられた。下見板張りの外壁とテラスにパーゴラが設けられている。岡田信一郎の事務所にいた三井道男による設計。

居間を中心に食堂・寝室・書斎が配置されており、当時としては珍しく全室が洋間となっている。この住宅は家族の団欒や住みやすさ、あるいは主婦の家事のための空間を重視する大正期の生活改善の理想をよく表している。

この家の特徴は、玄関を入るとすぐに居間があることで、この居間を中心に、書斎、食堂、寝室がある。

寝室から食堂。

食堂。このテーブルは大正14年の創建当時から使われていたもの。

各部屋とも二面採光になっていて、台所も広く明るい。

前川國男邸。東京都指定有形文化財(建造物)。

建築年代は1942年(昭和17)。旧所在地は品川区上大崎三丁目。

日本の近代建築の発展に貢献した建築家前川國男の自邸として建てられた住宅である。

戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工している。 外観は切妻屋根の和風、内部は吹抜けの居間を中心に書斎・寝室を配した シンプルな間取りになっている。

戦時の建築統制下で建築面積は小さく抑えつつも、大屋根の中央に吹き抜けの居間とロフト風の2階を配している。

空間構成などにモダニズムの理念を反映、前川の活動の出発点ともいえる作品になっている。コルビュジエやレーモンドの元で学び、独立後、程なく手がけた自邸には、その後の前川の活動につながる意欲的なデザインが散りばめられている。また、現存するモダニズムの木造住宅としても貴重である。

前川國男は大学卒業直後の昭和3(1928)年に渡仏し、モダニズムの巨匠、ル・コルビュジエのアトリエで約2年間、働いた。帰国後はA.レーモンド建築設計事務所に入所、昭和10年に自身の事務所を設立している。自邸の設計担当は所員の崎谷小三郎で、昭和17年竣工。時は第二次世界大戦のただ中であった。

外観を印象付けるのは、破風板が軒先に近づくほど幅広になる切妻屋根と南面中央の棟持柱風の丸柱である。これらについては崎谷が、伊勢神宮からインスピレーションを受けたと語っている。モダニズム特有のフラットルーフを採用しなかった背景には、坂倉準三が設計した木造・幻配屋根の飯箸邸の影響がうかがえる。

玄関を入り、大扉を抜けると高さ4.5mの吹き抜けが広がる。当時は延床面積を100㎡以下とする制限があったため、「高さ」が得られる建物中央を吹き抜けにして大空間を造った。南面は妻側だが窓に庇を設けず、軒の出を長くすることで雨仕舞をし、日差しを制御。大開口を確保して全面をガラス窓としている。

ロフト状の2階は約8畳相当の広さ。飾り棚の鏡板は持ち上げて外す「けんどん式」で、2階から物を出し入れした。

左奥の台所へ続く入口とサービス用小窓。アーチ型扉を開けていても台所は直に見えない。

小出邸。東京都指定有形文化財(建造物)。

建築年代は、1925年(大正14)。旧所在地は、文京区西片二丁目。

日本におけるモダニズム運動を主導した建築家堀口捨己(1895−1984)が、ヨーロッパ旅行からの帰国直後に設計し、小出収とその妻・琴の隠居所として建設された木造2階建の住宅で、日本的モダニズム建築の萌芽がみられる貴重な作品として評価されている。

当時オランダで流行していたデザインと、日本の伝統的な造形を折衷した造りになっている。

四角錐のような大屋根と水平な軒を持つ屋根の造形や応接間の色彩が目を引く

当時のオランダの造形運動であるデ・ステイルの影響がこの「小出邸」にも見られ、画家モンドリアンのように、抽象的な幾何学形態と空間による芸術表現を実現しようとしたといえる。

堀口捨巳は、建築における芸術的側面や美意識の重要性を問いかけ、生涯にわたりそれを追求した近代日本を代表する建築家の一人である。日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。日本庭園の研究家としても知られ、日本の建築と庭園の関係を「空間構成」としてとらえた。

教授職を務めた明治大学では、同大工学部内に建築学科を創設したことでも知られる。

堀口捨己は、佐野利器によって耐震力学が重視されていた当時の東大建築学科への反動と、ヨーロッパの新しい建築運動への憧憬から、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を1920年(大正9)に結成した。

1923年(大正12)夏、堀口は新たな建築知識を求め欧州へ出発した。翌年の春に帰国した堀口は、オランダで生まれた建築家団体である「アムステルダム派」による建築を高く評価し、オランダ建築に関する書籍を執筆・出版するなど、日本にはじめてオランダの近代建築を紹介した。

帰国後の1924年(大正13)9月、堀口に小出邸の設計依頼が舞い込んだ。そして翌年の1925年(大正14)6月に彼のはじめての住宅作品である「小出邸」が完成した。この住宅はオランダの造形運動の影響を受けつつも、在来の工法で和風との融合が図られている。

小出邸竣工後、堀口は1926年(大正15)に紫烟荘、1927年(昭和2)に双鐘居、その3年後に吉川邸と3件の住宅を完成させている。

玄関ポーチ。

この住宅最大のみどころはこの応接間である。

2階の納戸と1階へ下る階段。

文京区千駄木 文京区立森鷗外記念館


文京区千駄木 文京区立森鷗外記念館

2025年01月19日 09時06分56秒 | 東京都

文京区立森鷗外記念館。文京区千駄木。

2025年1月4日(土)。

本日は秩父宮ラグビー場でのラグビー観戦がメインだが、12時試合開始なので、その前に新宿区立漱石山房記念館、終了後には文京区立森鷗外記念館を見学することにして、試合が終了した14時ごろに外苑前駅から、千代田線「千駄木」駅に向かった。地上を出ると、交差点があり、団子坂を緩く登って5分余りで唐突に記念館の前に着いた。

島根県津和野にある森鷗外の旧宅(生家)と記念館は1980年代初めに見学し、遺書に記された「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という部分の複製を購入したが、記念館の前身である文京区立鷗外記念本郷図書館には食指が動かず見学しなかった。

1980年代に小説「舞姫」「文づかい」をはじめ、岩波文庫で重厚な史伝「渋江抽斉」を読んだ。

文京区立森鷗外記念館は、森鷗外の旧居である観潮楼(かんちょうろう)跡地に建てられた博物館で森鷗外生誕150年を記念し2012年に開館した。

  観潮楼は、森鷗外が1892(明治25)年30歳のときに購入していた地所に新築してから、1922(大正11)年60歳で亡くなるまで、家族とともに30年間住んだ家である。鷗外は、後に夏目漱石が小説『吾輩は猫である』を書いたことで知られる「猫の家」から、明治25年にここに移った。千駄木団子坂(汐見坂)上にあった家の2階からは遠く品川沖の海が見えたと言われ、鷗外により観潮楼と名づけられ、『青年』『雁』『高瀬舟』など数々の名作を著した。

詳細は、「観潮楼始末記」 (森於菟著、縦書き文庫)に記載がある。

観潮楼2階。

観潮楼復元模型。

  観潮楼は、明治40年(1907)からは鷗外がひらいた観潮楼歌会の会場としても使われ、石川啄木、斎藤茂吉、木下杢太郎、佐佐木信綱、与謝野鉄幹、伊藤左千夫なども参会した。 

鷗外は、通勤には大観音通りを行き、白山から電車を利用した。夕食後の散歩は、白山から本郷三丁目まで歩き、根津を通って戻り、休日には小石川植物園などに出かけた。 鷗外の見た明治の文京の姿は、小説「青年」や「雁」などに、うかがうことができる。

観潮楼は、鷗外の没後しばらくは家族が暮らし、その後は借家となった。1937(昭和12)年に借家人の失火により母屋の大部分が焼失した。1945(昭和20)年には戦災により、胸像、銀杏の木、門の敷石、三人冗語の石以外はすべて焼失した。

1949(昭和24年)、当時国立博物館館長だった高橋誠一郎が委員長となり、永井荷風、佐佐木信綱、齋藤茂吉らを中心とした鴎外記念館準備会が発足し、建設費の寄附を募った。翌1950(昭和25)年、鴎外生誕88年を機とし、観潮楼跡は記念公園(児童遊園地)となり、東京都の史跡として指定を受けた。1954(昭和29)年、鷗外の33回忌に胸像と「沙羅の木」の詩碑が設置された。

1962(昭和37)年、鷗外生誕100年の年、「鷗外記念室」を併設した「文京区立鷗外記念本郷図書館」(設計:谷口吉郎)が開館した。このとき、薮下通り側の鴎外記念室入口の門標として、佐佐木信綱の筆による「観潮楼址」碑が設置され、また鴎外記念室入口近くの壁には、佐藤春夫寄贈、高田博厚制作の「森鴎外レリーフ」が取付けられた。

2006年、図書館移転に伴い、記念室は独立して「本郷図書館鷗外記念室」となった。2008年、遺品資料の保存環境改善のため、改築が決まり、鷗外記念室は休室となり、庭園のみの開放となった。

2010年、森鴎外記念館の工事着工。1年半の建設工事を経て2012年6月竣工。2012年11月1日、「文京区立森鷗外記念館」として開館した。

建物は、2階が図書室と講座室、1階が受付、ショップ、カフェ(モリキネ カフェ)、庭園となっており、地下に展示室と映像コーナーがある。

特別展「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」が、開催されていたが、森鷗外との関連はなかった。

その代わり、映像コーナーの3本のビデオが面白く、平野啓一郎の鷗外評価に促され、鷗外の著作を読んでみようという気が湧いた。ビデオには記念館まわりの史跡も紹介されていたので参考に見学した

鴎外が立って撮影した場所の敷石。鴎外の足元の敷石は、現在も記念館玄関にある。

佐佐木信綱書「観潮楼址」門標。薮下通り側入口。

昭和37年の文京区立鴎外記念本郷図書館(当館の前身)の開館に合わせて設置された門標のため、於菟が鷗外と親交の深かった歌人の佐佐木信綱(当時90歳)に揮毫を依頼した。

三人冗語の石。

鷗外が座り、幸田露伴、斎藤緑雨とともに写った写真。

三人冗語同人。 明治30年(1897)4月。観潮楼(鷗外宅、現・森鷗外記念館)の庭で。

左から鷗外、露伴、緑雨。撮影は博文館の大橋乙羽。鷗外の座る石は現存している。

『めさまし草』の「三人冗語」では、樋口一葉「たけくらべ」も激賞された。

観潮楼ゆかりの大イチョウ。

三人冗語の石の脇に聳える大イチョウは、観潮楼の時代からこの地にある。

永井荷風揮毫『沙羅の木』碑文。

『沙羅の木』は、鷗外が明治39年に「文芸界」に発表した詩。朝開花し夕方には落花する、観潮楼の庭に咲く沙羅の木(ナツツバキ)を詠んだ。昭和25年、観潮楼跡地に『沙羅の木』の詩碑建設の計画が立ち上がり、鷗外長男・於菟から小説家・永井荷風に揮毫が依頼された

藪下通りの坂上からは、東京スカイツリーがビルの合間にのぞめる。

 

16時過ぎて暗くなったので宿に帰った。翌5日(日)は小金井市にある江戸東京たてもの園を見学した。

秩父宮ラグビー場  1月4日 ジャパンラグビーリーグワン(リーグワン)観戦


秩父宮ラグビー場  1月4日 ジャパンラグビーリーグワン(リーグワン)観戦

2025年01月18日 09時00分48秒 | 東京都

秩父宮ラグビー場。入口。

2025年1月4日(土)。

本日は秩父宮ラグビー場での観戦がメインだが、12時試合開始なので、その前に新宿区立漱石山房記念館、終了後には文京区立森鷗外記念館を見学することにした。

新宿区立漱石山房記念館を11時前に出て、銀座線外苑前駅に11時45分ごろに着いた。秩父宮ラグビー場の入口に着いたのは11時50分ごろだったので、入場者の大半は席に着いており、入口にはほとんど人がいなかった。

ラグビーの聖地といえば秩父宮ラグビー場なので、観戦したかったが、運よくジャパンラグビーリーグワン(リーグワン)の対戦が4日にあった。

ワールドカップの日本代表戦には関心はあるが、個別のチームには興味はないので、対戦チームはどこでも良かった。

オンラインで自由席を購入した。2500円とシステム利用料220円を合わせて2720円だった。

試合は三菱重工相模原ダイナボアーズ対静岡ブルーレヴズ。

「ダイナボアーズ」は、ダイナミック(DYNAMIC、活動的な)とボアー(BOAR、猪)の造語というが、ボアーズだけでいい。

「ブルーレヴズ」の前チーム名はヤマハ発動機ジュビロ。「青」はアマチュアラグビー部時代からのチームカラーであり、「rev(レヴ)」はモーター(発動機)などの回転数 および その上昇度を示すというが、馴染めない命名だ。

入場ゲートから南側バックスタンドの自由席に入ると、日陰だったので北側の自由席を移動しようとしたときに、12時のキックオフになり、20数秒後には、最初のトライ劇が北側で行われていた。

ダイナボアーズのコンバージョンキック。

北東側の最上列に近い席に座った。国立競技場とは全く違い、臨場感があった。トラックがないので、遠さを感じずにプレーを見ることができる。さすがに聖地という言葉にふさわしい。

ハーフタイムに行われたチアガールチーム「ダイナスターズ」のパフォーマンス。約15人が東側スタンド前に3グループに分かれて踊っていた。

後半早々にダイナボアーズが攻め込んできたので、スタンドから近い陣地での攻防になった。

本日の入場者4824人。

三菱重工相模原ダイナボアーズ34点対静岡ブルーレヴズ40点。

試合終了後の応援御礼。

ダイナスターズのお見送り。

秩父宮ラグビー場メインスタンド側正面階段下。

14時ごろ、外苑前駅から文京区立森鷗外記念館の最寄り駅である千代田線「千駄木駅」へ向かった。

新宿区立漱石山房記念館


新宿区立漱石山房記念館

2025年01月17日 08時58分17秒 | 東京都

新宿区立漱石山房記念館。入口。新宿区早稲田南町。

2025年1月4日(土)。

本日は秩父宮ラグビー場での観戦がメインだが、12時試合開始なので、その前に新宿区立漱石山房記念館、終了後には文京区立森鷗外記念館を見学することにした。両館ともいずれ見学するつもりで、1年前からアクセスなどをHPで見ていたが、面倒そうだったので後回しにしていた。

東京メトロ東西線の早稲田駅1番出口から案内に従って坂を下り、早稲田小学校の横を通ると、一本道なので迷うことなく徒歩約10分で9時40分ごろ記念館に着いた。すでに、玄関前に3人連れが並んでいたが、開館の10時には15人ほどが並んでいたのは不思議だった。

内部は一部を除き基本的には撮影禁止である。

新宿区立漱石山房記念館は、夏目漱石の生誕150周年を記念して東京都新宿区が開設した記念博物館で2017年(平成29年)9月24日に開館した。

漱石が生まれ育ち、その生涯を閉じたまち新宿区には、漱石ゆかりの地が数多くある。漱石が生まれた現在の新宿区喜久井町という町名は、当時このあたりの名主であった漱石の父・直克が、夏目家の家紋「井桁(いげた)に菊」にちなんで名付けたものである。

「漱石山房」とは、夏目漱石が明治40(1907)年9月から、亡くなるまでの9年間生活した牛込区早稲田南町7(現 新宿区早稲田南町7)の借家にあった、それぞれ10畳の書斎と客間を指す。この家からは、『三四郎』『こゝろ』『道草』など数々の名作が生み出された。

漱石は、明治36(1903)年1月、ロンドン留学から帰国した後、漱石山房に住むまで、2度ほど転居している。最初は鏡子夫人の実家の中根家に同居した後、同年3月から駒込千駄木町(現文京区向丘2)の通称「猫の家」に住み、『我輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』など多くの作品を執筆した。森鷗外もかつて住んだ家として知られ、小説「道草」の主人公・健三の家のモデルとされている。この「猫の家」は現在、愛知県の博物館明治村に保存移築されている。

次に、明治39(1906)年12月、駒込西片町(現文京区西片町)に転居した。ここには短期間しか住まなかったが、のちに漱石を慕う魯迅が住み、「伍舎」と名付けている。「趣味の遺伝」の主人公の家で、「三四郎」の広田先生の引っ越し先のモデルとされている。

漱石はここまで自らの書斎を「漾虚碧堂」と名付けていたと思われる。

そして、明治40(1907)年9月29日、夏目漱石は早稲田南町7の借家に賃借人として入居した。「漱石山房」の誕生である。

差配人は町医者の中山正之祐、家の所有者は歌人で病院長の阿部龍夫であった。敷地面積340坪の中央に建つ60坪の平屋建ての和洋折衷建築の部屋数は7室で家賃は35円であった。

この住宅について、松岡譲は「ああ漱石山房」の中で

「この家は、元来、三浦篤次郎というアメリカがえりが、明治三十年頃に建てた家だそうで、当時の文化住宅とでもいうのであろう、一風変った家であった。その後、銀行の支店長が住んでいたのが阿部氏の手に移り」と書いている。

三浦篤次郎という人物については、今まであまり情報がなかったが、当館ボランティアの興津維信氏の調査によって、福島県須賀川出身の自由民権家で、福島県議になりながら2度ほど渡米し、明治29(1896)年には愛国生命の取締役になっていたということが分かった。

夏目漱石は漱石山房で9年間暮らし、大正5(1916)年12月9日に亡くなった。書斎は一時片づけられ、漱石の遺体が安置され、祭壇が設けられた。12月12日の葬儀が終わった後、30日には書斎は元の状態に戻され、机上には、未完となった「明暗」の原稿で「189」と記された原稿用紙の他、万年筆、眼鏡入れ、象牙製のペーパーナイフなどが置かれた。座布団も敷かれ、絵画の額等も元通りに戻された。

一方、客間の方は、霊壇式に写真を飾り、その側には普段は黒い布で蔽ったデスマスクを安置し、常に花を取り換え、いつでも香を焚ける仕組みとなった。

大正9年(1920)、この家と敷地は夏目家が買取り、母屋は増改築されたものの、漱石が使用した書斎、客間、ベランダ式回廊のみ敷地内に曳家をして残し、そのままの状態で保存された

大正12(1923)年9月1日の関東大震災では、ほとんど無傷だったが、危機感をいだいた松岡譲は、建物ごと移築保存して財団法人に管理させようと漱石門下生の主なメンバーに提案した。しかし、なかなか議論はすすまず、昭和6(1931)年11月、夏目家は西大久保に転居し、漱石山房はそのままに管理人を置くことになった。

この後、戦時体制の強化により、漱石山房は軍関係の寮となったこともあったようで、このままでは漱石の書斎は荒らされ、建物も朽ちてしまうと門下生たちは危機感を持ったものの、戦時中のため、当時はこれといった有効な手だてもなく、小宮豊隆らの努力により、辛うじて蔵書だけは東北大学附属図書館への移管という形に落ち着いたが、昭和20(1945)年5月、漱石山房は山の手空襲により焼失してしまった。

戦後その敷地の半分は「漱石公園」、残る半分は区営住宅(元は都営住宅)となった。2011年(平成23年)、この区営住宅の立て替え・移転を機に、区では「漱石公園」の敷地と合わせてかつての「漱石山房」を再現した日本初の本格的な漱石記念館を建設することを決定し、夏目漱石が暮らし、数々の名作を世に送り出した「漱石山房」の書斎、客間、ベランダ式回廊を、記念館内部にできる限り忠実に再現して開館した。

漱石山房再現展示室。

「漱石山房」の一部を再現。書斎・客間・ベランダ式回廊を再現した。この書斎で執筆された随筆『硝子戸の中』の世界、「漱石山房」再現の取り組みなどが紹介されている。

書斎で再現した複製品等は、県立神奈川近代文学館の協力のもと、同館が所蔵する原資料をもとに製作された。

書棚に納められた洋書は、東北大学附属図書館の協力のもと、同館の「漱石文庫」の蔵書の背表紙を撮影し、製作された。

書斎に続く客間では毎週「木曜会」と呼ばれる漱石を慕う若い文学者たちの文学サロンが開かれた。

漱石が藤椅子に腰かけくつろいだベランダ式回廊。

展示室(通常展・特別展)は2階にある。

夏目漱石の『道草』草稿、『明暗』草稿、『ケーベル先生の告別』原稿などが展示されていた。

エントランスホール横には、図書の閲覧ができるブックカフェがあり、欧米人たちなど数人がくつろいでいた。

入口の横には、芭蕉の木が植えられている。

「漱石山房」を象徴する植物といえば、芭蕉(バショウ)が代表的で、前庭に大きな芭蕉があり、周りには一面の木賊(トクサ)が見られる。

中国原産といわれる芭蕉は、高さ2~3mで大きな葉が特徴で、英名では「ジャパニーズ・バナナ」と言うように、バナナの仲間である。

「漱石山房」の植木は、みな漱石の手により入れられたもので、芭蕉もそのひとつで、漱石は日記でしばしば庭の芭蕉について触れている。

このあと、秩父宮ラグビー場へ向かった。

箱根駅伝2日目ゴール地点 大手町 西新井大師