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平取町立二風谷アイヌ文化博物館⑤食生活 住生活

2024年06月09日 13時25分53秒 | 北海道

平取町立二風谷アイヌ文化博物館。平取町二風谷。

2022年6月9日(木)。

食生活

 アイヌの人々の調理法は、「煮る」「焼く」「炊く」であり、季節によっては「生」で食べます。日常の食事には、オハウ・ルル(汁もの)、サヨ(粥)、ラタシケプ(煮物)、チマチェプ(焼魚)などがあります。オハウ・ルルは、山菜や鳥獣肉、魚肉を一緒に煮て、魚脂・獣油、海水などで味付けをしたもので、汁気が多い食べ物です。具の材料によっていろいろな種類・名称があります。

サヨは副食的な料理で、穀物を水気を多くして煮たものです。

ラタシケプは山菜や蔬菜、豆類を汁気がなくなるまで煮込み、魚脂・獣油、海水などで味付けをしたもので、鳥獣肉、魚肉は入れません。

これらの料理に加えて、時々にサケやマス、イトウなどの焼き魚が添えられました。

生で食べるものには、新鮮なサケやシカ肉がありました。

特別な食事として、イオマンテなどの大きな儀礼のときには普段の料理に加えて、特別な料理がつくられました。雑穀類を焚いたチサッスイェプ、雑穀類を焚いて、焦がしたスウケプ、シト(団子)などで、これらの料理は、人間だけでなく祖先や神々もともに食べ、ともに楽しむものでした。

イタ(盆)。重要有形民俗文化財。

二風谷イタは、沙流川流域に古くから伝わる木製の浅く平たい形状の盆である。モレウノカ(うずまき・形を模したもの)などのアイヌ文様、ラムラムノカ(ウロコ・形を模したもの)とよばれるウロコ彫りが特徴である。

住生活。

 アイヌの人々は、河川の流域で食料や飲み水が得やすく、災害に遭いにくい場所を選んで家を建て、集落を形成しました。家はアイヌ語で「チセ」、集落は「コタン」といいます。コタンは数軒から十数軒のチセで成り立っていました。

チセの大きさは様々ですが、小さいもので約33㎡(10坪程度)、大きなもので100㎡(30坪程度)でした。チセは掘立式で、釘は使用せず、柱などはブドウヅルやコクワのツル、シナ縄などで縛りつけました。屋根や壁を葺く材料には地域差が見られ、その土地で手に入りやすい素材が使われました。

カヤやヨシは北海道のほぼ全域で使われましたが、道央部の上川地方ではササ、道東部では木の皮も使われました。材質や住み方にもよりますが、20~30年は住むことができたといわれています。一軒のチセには一家族が住み、結婚すると独立して別の家を建てます。

チセの内部は長方形の一間で、入り口寄りに炉があり、この炉を中心にして主人夫婦、子供たち、客の座る場所に厳格に決められていました。炉で燃えている火は、アペフチカムイ─火の姥神と呼ばれ、人間の日々の生活を見守る重要な神といわれ、儀礼を行うときや狩猟に出かけるときなど、まず最初にこの神に祈りました。また、屋内には、チセコロカムイ─家を守護する神が祀られ、アペフチカムイとともに、家族の日々の生活を見守っています。

 

炉の先の壁に1ヵ所、その右側の壁1ないし2ヵ所に窓が設けられていますが、前者の窓はロルンプヤラ(ロルンプライ、カムイプヤラともいいます)とよばれ、神々が出入りする窓として、普段使われることはありません。

床は枯れ草を敷き詰め、その上にカヤやヨシで編んだ敷物を敷き、さらにガマやスゲで編んだござを敷きました。

チセの周りには、プ(食料庫)、アシンル(便所)、クマ(物干し)などの生活に必要な建物や、クマを飼育するへぺレセッ(檻)、イオマンテなどの儀礼を行うヌササン(祭壇)が建てられていました。ヌササンにはイナウ(木幣)が立てられ、特に神聖な場所とされました。

 

 チセを建てる前と後にそれぞれ儀礼が行われます。チセを建てる場所が決まると、チセの中で炉になる位置に火を焚き、神々に対して建築の安全と加護を祈ります。その後約7日間のうちにチセの建て主が不吉な夢を見なければ、その場所が正式に決定されます。不吉な夢を見た場合は場所を変更したり、土地を清めたりしました。

 

 集落の人々総出でチセの新築にとりかかり、完成すると「チセノミ」という新築祝いを行います。チセノミは新しいチセでの生活の安全を祈る儀式で、集落の人々や親族を招いて行われます。

 チセノミでは、まず長老が炉に初めて火を入れます。そして「チセコロカムイ」という、家を守護する神をつくり、安置します。参会者全員が神々への祈りを終えると、家主が天井に向けてよもぎでつくった矢を放ちます。家の中の悪霊を払い清めるためです。チセノミが終わると、チセはようやく人が住める場所になります。

 

コタンは、その初源は血縁集団ですが、徐々に地縁集団ともなり、江戸時代の場所請負制下では強制的に集合させられた集団─強制コタンの発生を見ますが、明治以降、本州からの大量の開拓民の移入により、それまでのコタンのすべてが和人との混住となり、コタンは崩壊しました。

平取町立二風谷アイヌ文化博物館④装う タマサイ(首飾り)ニンカリ(耳飾り)



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