世界遺産・是川遺跡・是川縄文館。八戸市是川字横山。
2022年10月1日(土)。
八戸市是川(これかわ)の八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館には12時半ごろに着いたので、ミュージアム・ショップにある軽食コーナーで「せんべい汁」(ミニ)200円を食べた。
是川縄文館は、世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一つである国史跡・是川石器時代遺跡のガイダンス施設である。
南から北方向。
是川石器時代遺跡は、八戸市南東部に所在し、新井田(にいだ)川沿岸の南北の沢に挟まれた標高10~15mの段丘上に立地する。サケ・マスが遡上する河川近くで、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていた。
北から南方向。右中央に一王寺遺跡。
是川遺跡は縄文前期・中期の一王寺(いちおうじ)遺跡、縄文中期の堀田(ほった)遺跡、縄文晩期を中心とする中居(なかい)遺跡の3遺跡の総称であるが、集落の中心は、途中の縄文後期には国宝合掌土偶が出土した風張(1)遺跡へ移動していた。
是川縄文館見学後、紹介されている是川遺跡(一王子遺跡)の記念碑付近まで歩いたが、遺跡らしさはなかった。
2026年に縄文時代晩期の中居遺跡を中核として「是川縄文の里」が、縄文学習館・竪穴建物・土壙墓・小川と水場などにより再現整備される予定であるが、現在は立入りはできない。
一王寺遺跡は、長谷部言人による円筒土器の命名の地。山内清男と喜田貞吉による縄文土器の年代の下限をめぐる「ミネルバ論争」のもととなった遺跡でもある。縄文時代前期・中期の土器の他に、貝塚が見つかっており、獣骨や骨角器などが出土している。
堀田遺跡では、縄文時代中期・後期の土器片が採取され、中期末の円形竪穴建物跡、後期の集石遺構があるが、全容は明確でない。弥生時代前期の籾圧痕(もみあっこん)土器が出土し、当地への稲作伝播の時期が分かる。
中居遺跡は、縄文時代晩期の低湿地(沢地形)を主体とする遺跡で、集落は小規模だが居住域、墓域、捨て場、配石や盛土など多様な遺構が見つかっている。
遺跡南側の湿地からは縄文時代晩期前葉(約3千年前)の2本の沢跡が見つかった。沢跡には、縄文人が食べたトチやクルミの殻がたくさん含まれた「捨て場」がみつかり、地下水と冷涼な気候によって、植物質の遺物が腐らずに出土した。クリの殻は見つからなかったが、土に含まれた花粉を分析したところ、クリ花粉がたくさん見つかっていることから、周りにはクリの木を大切にした里山があったようである。
トチのアクを抜くため、沢をせき止めて作られた「水さらし場」が見つかるなど、中居遺跡からは、クリ、クルミ、トチなどの木の実の殻をはじめ、シカやイノシシの獣骨、スズキやマグロなどの魚骨も出土し、当時の環境とともに、狩猟・漁労・採集による生業の様子がわかり、河川流域における生業や高い精神性による祭祀・儀礼の在り方を示す重要な遺跡である。
低湿地の捨て場からは、美しく仕上げられた土器や土偶が多量に見つかった。材木、弓、ヤスなどの木製品や木の器や籠などに赤色漆を塗ったもの、櫛や腕輪・耳飾りなどの装身具、籠や紐、編布(あんぎん)などの生活道具や漆が塗られた弓、容器などの漆製品など普通なら腐ってしまう遺物が大量に出土しており、祭祀・儀礼が活発に行われたものと考えられる。
土坑墓が検出され、赤色顔料がまかれた人骨が出土している。