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福島県会津坂下町 福島県最大の古墳・亀ヶ森古墳と鎮守森古墳

2024年07月13日 13時51分29秒 | 福島県

国史跡・亀ヶ森古墳・鎮守森古墳。福島県会津坂下町青津。

2024年5月30日(木)。

会津坂下町埋蔵文化財センターを見学後、北西近くの亀ヶ森古墳・鎮守森古墳へ向かった。集落内の狭い道を抜けると、亀ヶ森古墳が現れ、案内板近くに駐車スペースがあった。

亀ヶ森古墳・鎮守森古墳は、会津盆地中央部の低地、旧宮川(鶴沼川)東岸の段丘縁に築造された2基の大形古墳で、一帯の段丘上では、両古墳のほか周溝墓群として男檀遺跡・宮東遺跡が立地し青津古墳群を構成する。

 

北寄りの亀ヶ森古墳は西向きの前方後円墳(全長127m、後円部の径約72m、高さ約8m、前方部幅約60.2m、高さ約6m)であり、福島県内で最大、宮城県名取市の雷神山古墳(全長168m)につぐ東北地方第二の規模をもつ古墳である。

その南約100mの地にある鎮守森古墳は、西に向けて平行する形で築造された前方後方墳(全長約55.9m、後方部一辺約29m、高さ約5m、後方部幅約18m、高さ約2.5m)である。

亀ヶ森古墳は、後円部上に稲荷神社・観音堂が立地するとともに前方部は墓地に利用された関係で、墳丘には大きな改変が加えられている。

墳丘は、後円部では3段築成。墳丘外表では河原石の葺石および埴輪(壺形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪)が検出されているほか、墳丘周囲には馬蹄形の周濠が巡らされる。墳丘くびれ部では造出も認められる。埋葬施設は明らかでない。出土した赤彩埴輪より、築造時期は古墳時代前期後半の4世紀後半頃と推定され、鎮守森古墳にやや後続するとされる。同時期の集落遺跡としては隣接する雨沼遺跡との関連性が推測される。

墳丘盛土層やその下層には礫敷遺構が検出されており、湧水から墳丘を守るためまたは墳丘を補強するための基礎礫敷と推測される。また後円部中央には小丘が遺存するが、築造当時の旧状か後世の造作かは明らかでない。

亀ヶ森古墳から鎮守森古墳。

鎮守森古墳は、亀ヶ森古墳の南側約100mに位置する。現在は後方部上に八幡神社が立地する。

墳丘主軸を亀ヶ森古墳と平行とし、前方部を西方に向ける。墳丘は、後方部では3段築成。墳丘外表で葺石は認められていない。

墳丘周囲には墳丘と相似形(前方後方形)の周溝を持つ。埋葬施設は明らかでない。出土品として底部穿孔の二重口縁壺がある。出土土器より、築造時期は古墳時代前期後半の4世紀後半頃と推定され、亀ヶ森古墳とはほぼ同時期に位置づけられるが、亀ヶ森古墳にやや先行するとみられる。

鎮守森古墳から西北には雪を抱く飯豊山の山並みが見える。

日本百名山の飯豊山には1990年代末に登頂した。帰路に泊まった飯豊山荘の小屋主の母と息子は興味深かった。帰りのバスが来る前に、一人の客が蕎麦を注文して、母親が作って出した抹茶色の蕎麦が羨ましかった。

そこで、熊野神社長床を見学後、山都町で蕎麦を食べてから、喜多方へ向かうことにした。

福島県 会津坂下町埋蔵文化財センター②縄文土器 陣が峯城跡



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