本ブログの関連記事
心脳問題-論点の多様性-(2012/01/15)
心脳問題-心と意識-(2012/01/16)
心脳問題-覚醒と昏睡の間-(2012/01/19)
自由意志7秒前(2017/01/03) 未来記事追加(2018/11/24)
最近の日経サイエンスに「自由意志」に関する記事が2本載りました。
1) 「自由意思が存在する理由」2015年06月
[http://www.nikkei-science.com/201506_086.html]
2) 「自由意思なき世界」2014年10月
[http://www.nikkei-science.com/201410_084.html]
いずれも脳科学の進展に伴う「自由意志(free will)は存在しない。それは幻である」という見方についての記事で、1)は「存在しないとはいえない」との立場からの記事であり、2)は「存在しないという見解が社会に広がると何が起きるか?」という問題設定からの心理実験結果も交えた記事です。両記事とも「自由意志は存在しない。」という見方が脳神経科学者の間で広まっている点では一致していて、その見方は、例えば以下の本で紹介されているようです。
3) デイヴィッド・イーグルマン; 大田直子(訳)『意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)』早川書房 (2012/04/06)
4) トール ノーレットランダーシュ〈Norretranders, Tor>; 柴田裕之(翻訳)『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』紀伊國屋書店(2002/09)
5) ベンジャミン・リベット; 下條信輔(訳)『マインド・タイム 脳と意識の時間』岩波書店(2005/07/28)
自由意志幻想論者はRef-1でwillusionistと命名されていますが、その自由意志幻想論(willusionism ?)の大きな根拠とされているのがRef-5に詳細記事のあるリベットの実験です。これは大まかに言えば、例えば人がコップを手に取ろうとするとき神経系で何が起きているかというと、まず動作のための準備がなされ、自分がコップを取ろうとしているという自覚が生じ、動作のための信号が運動神経に印加される、という順番で現象が生じるとわかった、という実験です。
つまり、「自分が何かをしようと意識するよりも先に脳の活動の方が先に始まっている[Ref-5の裏表紙]」とか「人間には自由意志というものはなくて、無意識が決めた後に意識が承認するだけ[橋本大也氏によるRef-4の紹介]」というのが多くの研究者による解釈らしいです。
さてリベットの実験結果自体は人の行動における無意識の役割の大きさを示していますが、これ自体はよく考えると我々の経験によく一致しています。人とはほとんどの行動を無意識に行っているものだし、それは近年科学的な観察でもますます確認されつつあるようです。
ただ私はここで「自由意志は存在しない」と解釈されると違和感を感じます。いったいその自由意志とは何なのでしょうか。その定義がどうも釈然としません。単に意志とか意識とか言えばいいのにわざわざ自由を付けるのは、なんとなく西洋哲学に現れている思想傾向からくるような研究者のこだわりが感じられるのです。
リベットの実験結果はリベット自身の言葉によれば、「被験者が行為を実行しようとする自分の意志や意図に気づく400msほど前に、自発的なプロセスは無意識に起動する[p145]」「したがって、意識ある自己はプロセスを始動できなかったはず[p158]」「もし自由意志というものがあるとしても、自由意志が自発的な行為を起動しているのではないことを意味します[p158]」というものです。これは「自由意志」と「意識ある自己」(つまり自意識、心の自覚)をほぼ同一視しているわけです。
常識的に(ということは深い考察や反省なしにということでもありますが)考えると「自由意志による行為」とは「他から干渉や強制を受けずに、その個体の判断のみで行った行為」といった意味でしょう。ただしこれはリベットの本では「自発的行為」と呼んで「自由意志による行為」とは区別しています。そして肉体的に外に現れる「自発的行為」の400msほど前に、神経系内での起動プロセスが「特異的電位変化(準備電位、RP)」として観測できたのですが、これは無意識の現象であり、その約200ms後になってから「行為を実行しようとする意識を伴った意志のアウェアネス」が現れます。アウェアネス(awareness)とは気づきと訳されますが、自覚と訳してもよいでしょう。
しかしここで、起動プロセスから肉体的行為に至る約400msに渡る現象を「自由意志による決定プロセス」と考えては、なぜいけないのでしょうか? その神経系内現象は起動後200ms経たないと自覚されませんが、そもそもまだ起きていない現象が自覚できるはずはありません。しかし、「自由意志」という現象が自覚できない時は、それは存在していない、というのも不自然ではないでしょうか? 自分の顔が見えないからと言って、それが存在していない、とは言えないでしょう[*1]。
恐らくリベットの実験結果以前に想定されていた「自由意志による決定プロセス」とは次のようなものなのでしょう。まず、なそうとする行為のイメージのようなものが脳内に想起され、それをなそうとする意志が発生する。次に、運動神経への指令信号が発信されて筋肉にまで伝わり、筋肉の収縮、つまり肉体的行為が起きる。ここで、最初のイメージ想起と意志の発生は意識により自覚されている。まあ、イメージの想起という言葉にすでに、自覚するという意味合いが含まれていますが。
しかし実際のプロセスと比較すれば、上記の想定されていたプロセスの方が時間もコストもかかり、生存上不利なことは明らかでしょう。いちいち脳内シミュレーションをしなくても正確に行なえるのに、わざわざやる必要はありません。そして自覚していなくても、コップを取る行為が「自由意志により決定された」としてもおかしなところはないと考えます。むろん「決定する全プロセスを自覚していること」を「自由意志による決定」の必要条件と定義すれば、リベットの実験での「いつコップを取るか」という決定は「自由意志による決定」の定義から外れます。
さらに被験者は次のような「行為」を(常識的に考えれば)自由意志により決定しています。
・途中で研究者の許可なく退席したりせず椅子にすわり続ける行為
・ある時間内の好きな時にコップに手を伸ばすという予定を立てる行為
・その予定を実行するという行為
他にも諸々考えられるでしょうが、このようにある程度長い時間をかけたであろう決定については、そのプロセスは十分に自覚されていたと考えられます。つまりこのような大まかな計画の決定は、リベットらの定義でも「自由意志による決定」となる可能性は残っています。この論点は実は、Ref-1の記事による自由意志存在論の根拠のひとつです。
一方で「いつコップを取るか」という決定の場合は、決定されたことは決定の後で初めて自覚されていました。例えてみれば、「意識」という社長は「ある時間内の好きな時にコップに手を伸ばす」という大まかな行動プランは決定しましたが、「いつコップを取るか」という決定は「無意識」という部下に任せていて、事後報告で「自覚する」というわけです。射撃手が引き金を引く、テニスのサーブを打つ、ピッチャーが投球を開始する、といった時も同様なことが起きていると想像できます。
バッターが打つ行為はどうでしょうか? このときは事前の大まかな計画は「いいボールが来たら打つ」というものでしょう。そして打撃動作そのものは、リベットの実験結果から推測すれば、投手の動作の視覚的認識が引き金になって無意識に起動すると考えられます。また例えば肉食獣が草原で獲物を探しているときも、「獲物が見つかったら狩りを始める」という「自由意志」で行動しているとしても、獲物の姿という視覚的認識が引き金になって無意識に身を低くしたりすると推測できます。
続く
------------------
*1) 橋本大也氏によるRef-4の紹介によればRef-4では「準備電位が発生した瞬間こそ、何かをしよう(背中を掻こうとかコップを手に取ろうとか)と決意した”今”なのだ。その今から遅れて0.5秒後に、その決意が意識にのぼる。」と述べられている。この意識にのぼる0.5秒前に決意したという行為は自由意志によるものと考えるのが妥当ではないか、というのが私の主張である。
【変更(2018/11/27)】注釈*1の追加。「自由意志幻想論者は~解釈らしいです」のいくつかの表現変更。
心脳問題-論点の多様性-(2012/01/15)
心脳問題-心と意識-(2012/01/16)
心脳問題-覚醒と昏睡の間-(2012/01/19)
自由意志7秒前(2017/01/03) 未来記事追加(2018/11/24)
最近の日経サイエンスに「自由意志」に関する記事が2本載りました。
1) 「自由意思が存在する理由」2015年06月
[http://www.nikkei-science.com/201506_086.html]
2) 「自由意思なき世界」2014年10月
[http://www.nikkei-science.com/201410_084.html]
いずれも脳科学の進展に伴う「自由意志(free will)は存在しない。それは幻である」という見方についての記事で、1)は「存在しないとはいえない」との立場からの記事であり、2)は「存在しないという見解が社会に広がると何が起きるか?」という問題設定からの心理実験結果も交えた記事です。両記事とも「自由意志は存在しない。」という見方が脳神経科学者の間で広まっている点では一致していて、その見方は、例えば以下の本で紹介されているようです。
3) デイヴィッド・イーグルマン; 大田直子(訳)『意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)』早川書房 (2012/04/06)
4) トール ノーレットランダーシュ〈Norretranders, Tor>; 柴田裕之(翻訳)『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』紀伊國屋書店(2002/09)
5) ベンジャミン・リベット; 下條信輔(訳)『マインド・タイム 脳と意識の時間』岩波書店(2005/07/28)
自由意志幻想論者はRef-1でwillusionistと命名されていますが、その自由意志幻想論(willusionism ?)の大きな根拠とされているのがRef-5に詳細記事のあるリベットの実験です。これは大まかに言えば、例えば人がコップを手に取ろうとするとき神経系で何が起きているかというと、まず動作のための準備がなされ、自分がコップを取ろうとしているという自覚が生じ、動作のための信号が運動神経に印加される、という順番で現象が生じるとわかった、という実験です。
つまり、「自分が何かをしようと意識するよりも先に脳の活動の方が先に始まっている[Ref-5の裏表紙]」とか「人間には自由意志というものはなくて、無意識が決めた後に意識が承認するだけ[橋本大也氏によるRef-4の紹介]」というのが多くの研究者による解釈らしいです。
さてリベットの実験結果自体は人の行動における無意識の役割の大きさを示していますが、これ自体はよく考えると我々の経験によく一致しています。人とはほとんどの行動を無意識に行っているものだし、それは近年科学的な観察でもますます確認されつつあるようです。
ただ私はここで「自由意志は存在しない」と解釈されると違和感を感じます。いったいその自由意志とは何なのでしょうか。その定義がどうも釈然としません。単に意志とか意識とか言えばいいのにわざわざ自由を付けるのは、なんとなく西洋哲学に現れている思想傾向からくるような研究者のこだわりが感じられるのです。
リベットの実験結果はリベット自身の言葉によれば、「被験者が行為を実行しようとする自分の意志や意図に気づく400msほど前に、自発的なプロセスは無意識に起動する[p145]」「したがって、意識ある自己はプロセスを始動できなかったはず[p158]」「もし自由意志というものがあるとしても、自由意志が自発的な行為を起動しているのではないことを意味します[p158]」というものです。これは「自由意志」と「意識ある自己」(つまり自意識、心の自覚)をほぼ同一視しているわけです。
常識的に(ということは深い考察や反省なしにということでもありますが)考えると「自由意志による行為」とは「他から干渉や強制を受けずに、その個体の判断のみで行った行為」といった意味でしょう。ただしこれはリベットの本では「自発的行為」と呼んで「自由意志による行為」とは区別しています。そして肉体的に外に現れる「自発的行為」の400msほど前に、神経系内での起動プロセスが「特異的電位変化(準備電位、RP)」として観測できたのですが、これは無意識の現象であり、その約200ms後になってから「行為を実行しようとする意識を伴った意志のアウェアネス」が現れます。アウェアネス(awareness)とは気づきと訳されますが、自覚と訳してもよいでしょう。
しかしここで、起動プロセスから肉体的行為に至る約400msに渡る現象を「自由意志による決定プロセス」と考えては、なぜいけないのでしょうか? その神経系内現象は起動後200ms経たないと自覚されませんが、そもそもまだ起きていない現象が自覚できるはずはありません。しかし、「自由意志」という現象が自覚できない時は、それは存在していない、というのも不自然ではないでしょうか? 自分の顔が見えないからと言って、それが存在していない、とは言えないでしょう[*1]。
恐らくリベットの実験結果以前に想定されていた「自由意志による決定プロセス」とは次のようなものなのでしょう。まず、なそうとする行為のイメージのようなものが脳内に想起され、それをなそうとする意志が発生する。次に、運動神経への指令信号が発信されて筋肉にまで伝わり、筋肉の収縮、つまり肉体的行為が起きる。ここで、最初のイメージ想起と意志の発生は意識により自覚されている。まあ、イメージの想起という言葉にすでに、自覚するという意味合いが含まれていますが。
しかし実際のプロセスと比較すれば、上記の想定されていたプロセスの方が時間もコストもかかり、生存上不利なことは明らかでしょう。いちいち脳内シミュレーションをしなくても正確に行なえるのに、わざわざやる必要はありません。そして自覚していなくても、コップを取る行為が「自由意志により決定された」としてもおかしなところはないと考えます。むろん「決定する全プロセスを自覚していること」を「自由意志による決定」の必要条件と定義すれば、リベットの実験での「いつコップを取るか」という決定は「自由意志による決定」の定義から外れます。
さらに被験者は次のような「行為」を(常識的に考えれば)自由意志により決定しています。
・途中で研究者の許可なく退席したりせず椅子にすわり続ける行為
・ある時間内の好きな時にコップに手を伸ばすという予定を立てる行為
・その予定を実行するという行為
他にも諸々考えられるでしょうが、このようにある程度長い時間をかけたであろう決定については、そのプロセスは十分に自覚されていたと考えられます。つまりこのような大まかな計画の決定は、リベットらの定義でも「自由意志による決定」となる可能性は残っています。この論点は実は、Ref-1の記事による自由意志存在論の根拠のひとつです。
一方で「いつコップを取るか」という決定の場合は、決定されたことは決定の後で初めて自覚されていました。例えてみれば、「意識」という社長は「ある時間内の好きな時にコップに手を伸ばす」という大まかな行動プランは決定しましたが、「いつコップを取るか」という決定は「無意識」という部下に任せていて、事後報告で「自覚する」というわけです。射撃手が引き金を引く、テニスのサーブを打つ、ピッチャーが投球を開始する、といった時も同様なことが起きていると想像できます。
バッターが打つ行為はどうでしょうか? このときは事前の大まかな計画は「いいボールが来たら打つ」というものでしょう。そして打撃動作そのものは、リベットの実験結果から推測すれば、投手の動作の視覚的認識が引き金になって無意識に起動すると考えられます。また例えば肉食獣が草原で獲物を探しているときも、「獲物が見つかったら狩りを始める」という「自由意志」で行動しているとしても、獲物の姿という視覚的認識が引き金になって無意識に身を低くしたりすると推測できます。
続く
------------------
*1) 橋本大也氏によるRef-4の紹介によればRef-4では「準備電位が発生した瞬間こそ、何かをしよう(背中を掻こうとかコップを手に取ろうとか)と決意した”今”なのだ。その今から遅れて0.5秒後に、その決意が意識にのぼる。」と述べられている。この意識にのぼる0.5秒前に決意したという行為は自由意志によるものと考えるのが妥当ではないか、というのが私の主張である。
【変更(2018/11/27)】注釈*1の追加。「自由意志幻想論者は~解釈らしいです」のいくつかの表現変更。
はじめまして。
ウェブニュース媒体 ガジェット通信
編集部の寄稿チームと申します。
弊社では寄稿という形でさまざまな方のブログ記事やウェブサイトから
編集部が気になったものを許諾を得て転載させていただいております。
「自由意志とは何か(1):自分では見えない自分の顔は存在しないのか?」
こちらの記事を大変興味深く拝読し、弊社媒体に寄稿記事として掲載させていただきたくご連絡申し上げました。
お手数かとは存じますが、ガジェット通信編集部までご連絡いただければ幸いに存じます。
何卒ご検討のほどよろしくお願い申し上げます。
------------------------------
東京産業新聞社
ガジェット通信編集部 寄稿チーム
kiko2@razil.jp
http://getnews.jp
お誘いありがとうございます。しばらくコメントをチェックしておらず気付くのが遅れまして失礼いたしました。メールにて御連絡差し上げますのでお待ちください。