「心とは何か?」という問題は昔から哲学者(自然哲学者=科学者含む)の心を捉えてきました。現代では心は脳に宿るという点では広く一致が得られていますから、「物質の塊に過ぎない脳から、どのようにして心が生じるのか?」という問いに置き換えられることが多く「心脳問題」という命名もなされています。しかしこの問題を調べてみると、「心の(最も重要な)特徴とは何か?」「心脳問題の最も重要な、または最も困難な点とは何か?」という点については、人様々でした。悪いことに何が問題かという点で一致がない、ということ自体が認識されずに論じられていることが多いので、読む方は混乱をきたすことが多そうです。
では、その主な論点を列挙してみます。注意しないといけないのは、同じ言葉が異なる問題を指している場合があることです。逆に同じと考えられる問題が違う言葉で表されている場合もあります。
1.意識と無意識の問題=覚醒状態と覚醒していない状態(例えば眠り)がある
2.無意識とは何か?=意識しない行動を司る存在
3.認識とは何か?
4.自意識とは何か?=自分がいると意識できる状態の存在
5.統一性・単一性の問題=自分の心は単一の存在であるということ
6.時間的連続性の問題=過去の自分と現在の自分との同一性
7.自由選択性の問題
8.自由意志とは何か?
1は例えば茂木健一郎により「意識のメンバーシップ問題」と命名されています1)p180。茂木は覚醒状態と昏睡状態の明確な違いの存在を重要視しています。
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・主観的には、「意識」があるか、ないかという二つの状態の間のコントラストは
劇的である。何しろ、「意識」がない時には、「私」は「そこにいない」のだから。
・意識がある状態(覚醒状態)と、ない状態(睡眠状態、あるいは気を失っている状態)
の問に明確なコントラストがあることは、意識の本質を考える上で重要である。
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また日経サイエンス(2008/02)でのコッホとグリーフィールドの討論2)のテーマは主に覚醒状態では脳がどんな状態なのかという問題です。彼らは、「意識の内容」(意識がある時、何がのぼっているのか)と「意識と無意識」(覚醒状態と昏睡状態の脳プロセス)の区別に注意を喚起しています。
思うに1の問題は、意識と無意識というよりは覚醒と昏睡の区別のメンバーシップ問題というべきです。そしてこれは外部から観察するだけでもある程度はわかる問題です。微妙なのは覚醒状態と自意識状態(自分に意識があると自覚している状態や目覚めていると自覚している状態)との違いでしょう。後者となると外部からの観察で知ることは困難です。
2は覚醒問題のような活動と休止の問題ではなく、意識はされていない心(ないし脳)の活動の問題です。これにはフロイトが唱えた無意識も含まれますが、もっと広く熟練したスポーツや演奏を司るもの、また反射を司るものなども含まれるでしょう。
3は何かを認識しているとき脳はどんな状態なのかという問題です。認識しているかどうかは主観的にしかわからないことのようにも見えますが、例えば動物が目の前のものが食物かどうかを認識しているかどうかは客観的にわかるとも言えるでしょう。関連して注意という現象も、外部からの観察でもある程度わかることだと考えられています。
4の自意識は人間には確かに存在するもので、これがなければ「私」というものもたぶん存在しません。そして神経系を持たない単細胞生物やほとんど自働機械とも言える昆虫などに存在するようにも思えません。ではどんな動物なら持っているのか? というようなテーマを中心にすえたのが例えばニコラス・ハンフリー『内なる目』3)です。ラマチャンドランは『脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ』p143で4)「内省能力」を自己の5つの特徴のひとつとしていますが、これはまさに自意識の存在のことです。
5については、例えば茂木健一郎は「意識が統合された単一のものとして存在するという事実を説明できなければならない」1)p188と述べています。またラマチャンドランは、自己の5つの特徴のひとつとして「記憶、信念、思考が多様にもかかわらず、統一されているという観念」を挙げています4)。チャーチランドは『認知哲学―脳科学から心の哲学へ』p280-282で5)意識の特徴のひとつとして「複数の基本的な感覚様相の諸内容を、単一の統一された経験の中に収容する」ということを挙げています。「行為の意志と行為の遅延実験」で有名なベンジャミン・リベットは『マインド・タイム-脳と意識の時間』で6)、「統一された意識を伴う経験」を説明する必要性から「精神場理論」と名づけた一見怪しそうな理論を提唱しています。
一方で澤口俊之は「「意識それ自体」という単一の何かはない。」と述べています7)。実際、人格同一性について疑問を投げかける議論というものもあります8)。
6は5の時間バージョンです。簡単に言えば現在の自分も昨日の自分も遠い昔の自分も同一だという統一感覚のことです。
7はチャーチランドが述べているもので、「意識は感覚入力から独立」つまり「少なくとも短期間なら意識の存在は感覚入力に依存しない」ということや「多義的なデータを別様に解釈する能力を持つ」ということを指しています。つまりは同じ入力(感覚入力)の下でも出力(解釈)は意識(ないし心)が自由に選べるという能力のことを指しています。
8の自由意志は心脳問題の範囲ではチャーチランドの自由選択性と同じ意味かも知れません。ラマチャンドランは自由意志を「自分の行動を掌握しているという感覚」としていますが、この定義だと自意識と重なりそうです。心脳問題の範囲をはずれると、「未来は決定されているのか、それとも自由意志により変更可能なのか」という哲学上のないしは物理学上の問題もあります。
このように意識ないし心の特徴という点についてさえ統一見解はありませんから、問題設定そのものも人様々というのが現状です。
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1) 茂木健一郎『脳とクオリア』日本経済新聞出版社 (1997/04/24)
2) クリストフ・コッホ(Koch,C.);スーザン・グリーフィールド(Griinfield,S.)「意識はどのように生まれるのか」日経サイエンス(2008/02) p76
http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0802/200802_076.html
3) ニコラス・ハンフリー(Humphrey,N.)『内なる目』紀伊國屋書店 (1993/11)
4) 『脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ』角川書店 (2005/07/30)
5) P・M・チャーチランド『認知哲学―脳科学から心の哲学へ』産業図書(1997/09)
6) ベンジャミン・リベット(Libet,B.)『マインド・タイム-脳と意識の時間』岩波書店 (2005/07/28)
7) 澤口俊之「最新脳科学―心と意識のハード・プロブレム」(Gakken mook―最新科学論シリーズ) 学研 (1997/06) p114
8) 例えば奥野満里子「パーフィットの人格および人格同一性の議論について」
では、その主な論点を列挙してみます。注意しないといけないのは、同じ言葉が異なる問題を指している場合があることです。逆に同じと考えられる問題が違う言葉で表されている場合もあります。
1.意識と無意識の問題=覚醒状態と覚醒していない状態(例えば眠り)がある
2.無意識とは何か?=意識しない行動を司る存在
3.認識とは何か?
4.自意識とは何か?=自分がいると意識できる状態の存在
5.統一性・単一性の問題=自分の心は単一の存在であるということ
6.時間的連続性の問題=過去の自分と現在の自分との同一性
7.自由選択性の問題
8.自由意志とは何か?
1は例えば茂木健一郎により「意識のメンバーシップ問題」と命名されています1)p180。茂木は覚醒状態と昏睡状態の明確な違いの存在を重要視しています。
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・主観的には、「意識」があるか、ないかという二つの状態の間のコントラストは
劇的である。何しろ、「意識」がない時には、「私」は「そこにいない」のだから。
・意識がある状態(覚醒状態)と、ない状態(睡眠状態、あるいは気を失っている状態)
の問に明確なコントラストがあることは、意識の本質を考える上で重要である。
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また日経サイエンス(2008/02)でのコッホとグリーフィールドの討論2)のテーマは主に覚醒状態では脳がどんな状態なのかという問題です。彼らは、「意識の内容」(意識がある時、何がのぼっているのか)と「意識と無意識」(覚醒状態と昏睡状態の脳プロセス)の区別に注意を喚起しています。
思うに1の問題は、意識と無意識というよりは覚醒と昏睡の区別のメンバーシップ問題というべきです。そしてこれは外部から観察するだけでもある程度はわかる問題です。微妙なのは覚醒状態と自意識状態(自分に意識があると自覚している状態や目覚めていると自覚している状態)との違いでしょう。後者となると外部からの観察で知ることは困難です。
2は覚醒問題のような活動と休止の問題ではなく、意識はされていない心(ないし脳)の活動の問題です。これにはフロイトが唱えた無意識も含まれますが、もっと広く熟練したスポーツや演奏を司るもの、また反射を司るものなども含まれるでしょう。
3は何かを認識しているとき脳はどんな状態なのかという問題です。認識しているかどうかは主観的にしかわからないことのようにも見えますが、例えば動物が目の前のものが食物かどうかを認識しているかどうかは客観的にわかるとも言えるでしょう。関連して注意という現象も、外部からの観察でもある程度わかることだと考えられています。
4の自意識は人間には確かに存在するもので、これがなければ「私」というものもたぶん存在しません。そして神経系を持たない単細胞生物やほとんど自働機械とも言える昆虫などに存在するようにも思えません。ではどんな動物なら持っているのか? というようなテーマを中心にすえたのが例えばニコラス・ハンフリー『内なる目』3)です。ラマチャンドランは『脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ』p143で4)「内省能力」を自己の5つの特徴のひとつとしていますが、これはまさに自意識の存在のことです。
5については、例えば茂木健一郎は「意識が統合された単一のものとして存在するという事実を説明できなければならない」1)p188と述べています。またラマチャンドランは、自己の5つの特徴のひとつとして「記憶、信念、思考が多様にもかかわらず、統一されているという観念」を挙げています4)。チャーチランドは『認知哲学―脳科学から心の哲学へ』p280-282で5)意識の特徴のひとつとして「複数の基本的な感覚様相の諸内容を、単一の統一された経験の中に収容する」ということを挙げています。「行為の意志と行為の遅延実験」で有名なベンジャミン・リベットは『マインド・タイム-脳と意識の時間』で6)、「統一された意識を伴う経験」を説明する必要性から「精神場理論」と名づけた一見怪しそうな理論を提唱しています。
一方で澤口俊之は「「意識それ自体」という単一の何かはない。」と述べています7)。実際、人格同一性について疑問を投げかける議論というものもあります8)。
6は5の時間バージョンです。簡単に言えば現在の自分も昨日の自分も遠い昔の自分も同一だという統一感覚のことです。
7はチャーチランドが述べているもので、「意識は感覚入力から独立」つまり「少なくとも短期間なら意識の存在は感覚入力に依存しない」ということや「多義的なデータを別様に解釈する能力を持つ」ということを指しています。つまりは同じ入力(感覚入力)の下でも出力(解釈)は意識(ないし心)が自由に選べるという能力のことを指しています。
8の自由意志は心脳問題の範囲ではチャーチランドの自由選択性と同じ意味かも知れません。ラマチャンドランは自由意志を「自分の行動を掌握しているという感覚」としていますが、この定義だと自意識と重なりそうです。心脳問題の範囲をはずれると、「未来は決定されているのか、それとも自由意志により変更可能なのか」という哲学上のないしは物理学上の問題もあります。
このように意識ないし心の特徴という点についてさえ統一見解はありませんから、問題設定そのものも人様々というのが現状です。
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1) 茂木健一郎『脳とクオリア』日本経済新聞出版社 (1997/04/24)
2) クリストフ・コッホ(Koch,C.);スーザン・グリーフィールド(Griinfield,S.)「意識はどのように生まれるのか」日経サイエンス(2008/02) p76
http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0802/200802_076.html
3) ニコラス・ハンフリー(Humphrey,N.)『内なる目』紀伊國屋書店 (1993/11)
4) 『脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ』角川書店 (2005/07/30)
5) P・M・チャーチランド『認知哲学―脳科学から心の哲学へ』産業図書(1997/09)
6) ベンジャミン・リベット(Libet,B.)『マインド・タイム-脳と意識の時間』岩波書店 (2005/07/28)
7) 澤口俊之「最新脳科学―心と意識のハード・プロブレム」(Gakken mook―最新科学論シリーズ) 学研 (1997/06) p114
8) 例えば奥野満里子「パーフィットの人格および人格同一性の議論について」
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