01/15の記事でも述べましたが、日経サイエンス(2008/02)でのコッホとグリーフィールドの討論のテーマで彼らは、「意識の内容」(意識がある時、何がのぼっているのか)と「意識と無意識」(覚醒状態と昏睡状態の脳プロセス)の区別に注意を喚起しています。2人の対立点は「意識が脳のどこにあるのか?」という点です。コッホは「脳の一部分に意識を司る場所があり、そこが活動すれば覚醒状態となり、そこが完全休止すれば昏睡となる」と考え、グリーフィールドは「意識は脳全体が司り、覚醒状態と昏睡状態の違いは脳全体の活動量の違いである」と考えています。いずれにせよこの覚醒状態と昏睡状態との違いが何かという問題は、原理的には観測可能であり、対象が心や脳だからといって本質的に難しいという問題ではなさそうに思えます。
しかし、やはり01/15の記事で述べましたが、茂木健一郎は覚醒状態と昏睡状態の明確な違いの存在を重要視し、メンバーシップ問題と名づけてひとつの重要課題と位置づけているようです。しかし私は彼の言うように「(両状態の間に)明確なコントラストがあることは、意識の本質を考える上で重要」とは思いません。というか、覚醒状態と昏睡状態との間には夢うつつとか白日夢とか呼ばれる中間状態がいくらでもあるではありませんか。両状態の間に明確なコントラストがあるなどというのは、基本的な事実の観察が不十分なのではないでしょうか。まあ茂木氏の著書や発言など読んだり聞いたりすると、人生を猛烈に生きていて朝はいつもすっと目覚めて活動状態に入り、夜は床に着くなりストンと睡眠に落ちるという生活をしていそうです。とするともしかして覚醒状態と昏睡状態と中間状態などというものは体験していないのかも知れません(^_^)。いやまさかねえ。
コッホのように脳の一部の意識細胞群とでもいうべきものとするにせよ、グリーフィールドのように脳全体とするにせよ、覚醒状態と昏睡状態との違いはいずれかの脳細胞群の活動量の違いによるとは言えるでしょう。とすれば、覚醒状態と昏睡状態との違いは量的なものであり、中間状態があるのはむしろ当然と言えます。
しかし、やはり01/15の記事で述べましたが、茂木健一郎は覚醒状態と昏睡状態の明確な違いの存在を重要視し、メンバーシップ問題と名づけてひとつの重要課題と位置づけているようです。しかし私は彼の言うように「(両状態の間に)明確なコントラストがあることは、意識の本質を考える上で重要」とは思いません。というか、覚醒状態と昏睡状態との間には夢うつつとか白日夢とか呼ばれる中間状態がいくらでもあるではありませんか。両状態の間に明確なコントラストがあるなどというのは、基本的な事実の観察が不十分なのではないでしょうか。まあ茂木氏の著書や発言など読んだり聞いたりすると、人生を猛烈に生きていて朝はいつもすっと目覚めて活動状態に入り、夜は床に着くなりストンと睡眠に落ちるという生活をしていそうです。とするともしかして覚醒状態と昏睡状態と中間状態などというものは体験していないのかも知れません(^_^)。いやまさかねえ。
コッホのように脳の一部の意識細胞群とでもいうべきものとするにせよ、グリーフィールドのように脳全体とするにせよ、覚醒状態と昏睡状態との違いはいずれかの脳細胞群の活動量の違いによるとは言えるでしょう。とすれば、覚醒状態と昏睡状態との違いは量的なものであり、中間状態があるのはむしろ当然と言えます。
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