おとぎのお家と青い鳥

本ブログでは、主に人間が本来持つべき愛や優しさ、温もり、友情、勇気などをエンターテイメントの世界を通じて訴えていきます。

~あなたの運命を変える~「人生のターニングポイント学習法!!」1

2008-09-04 19:44:38 | 人・愛・夢・運命・教育・家族・社会・希望
音譜今日から、7日に渡って『生きる力 を学ぶための特別企画としまして、人間(ひと)が生きていく上でその人自身の将来の運命を決める、人生の“ターニングポイント”(人生の運命の分岐点)について、さまざまな作品を通じて、それを探し出すためのヒントになる決断部分マスターするための学習方法と、その見極め方(決断時)の参考例を掲載します。もし、あなたがこの人生の“ターニングポイント”の見極め方を本当にマスターすることが出来たとしたら、きっとあなたは自分の将来において、他の人たちに比べ数倍の高い確率で「幸運の運命」を手に入れることが可能になり、周囲の人が羨ましがるような「幸せな人生」が送れる大きな可能性を得ることになるでしょう。


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母が笑った僕が笑った 」

母が笑った。

僕が笑った。

そして、二人が笑った。

笑うたびに、入れ歯をはずした母の口の周りが、梅干のように皺だらけになる。

子供のように無邪気に笑う、母の笑顔に久しぶりに出会った。

母の無邪気に笑う顔を見ているうちに、人生の大半を歩き終えたこの人にとって、僕とこうして昔のように親子に戻って、語リ合っているこのひとときが、どんな高価な宝石よりも一番の宝物かもしれない・・・と思った。

つい先まで、そんな母の気持ちに気付かずに「今度来るときは、どんな土産がいい?」と尋ね「もう、何もいらないから、お前ともっと会えるといいね・・・」と返事を返されて、そこにはハッとして母に向かって言った言葉に、心の中で後悔している僕がいた。

そんな母の気持ちに触れた瞬間、僕は、このまま時間が止まってくれればいいとさえ思った。

それは、年老いて灰色に濁った母の瞳の奥に光る泪に、電話で伝える何百回何千回の慰めや励ましの言葉よりも、一日でいい否わずかな時間でもいい、人生という名の列車から、独りぼっちで下車した母が、家族に戻るこのわずかなひとときを、最高の親孝行と感じていることを教えられたからである。



母のふるさと僕のふるさと」

僕のふるさと。母のふるさと。

村の子供でたったひとりだけ、三輪車を買ってもらえずに、母を恨んで泣いた場所。

唐草模様の風呂敷を、鞄代わりに背負って、裸足で学校へ通った場所。

父が、農作業中に吐血して肺結核で入院したのをきっかけに、我が家から昨日まであった笑い声が、シャボン玉の泡のようにすべて消えてなくなった。

そして今度は、父の闘病生活が長引くにつれ、入院費や借金の肩代わりになって、我が家から家財道具や灯りが消えて、まるで我が家は人が住んでいない空き家のようになった。

母は働いた。

朝から晩まで働いた。

女手ひとつで、家族を守るために働いた。

母の一日は、四人の子供と祖父母の二人を含めた家族の世話から始まり、父の看病、農作業、担ぎようの山菜採り、薪拾いと、息つく間もないほどの、重労働の毎日だった。

そんな母の、家族のために苦労している純朴な気持ちに逆らい、貧乏が嫌で嫌でたまらなくて、まだ中学校の卒業式も終えないうちに家を飛び出した僕。

あれから三十余年。

僕にも家族ができ、母の気持ちが少し判るような年齢になった。

だから・・・きっと素直に言えるのかもしれない。

「長い間、家族の生活を守るために働きどうしで、本当にご苦労様でした・・・」
そして、「母ちゃん、僕を産んでくれてありがとうと・・・」と。

母が泣いた。

僕が泣いた。

お盆休みが終り、明日上京する夜のことだった。

「あと何回、私が生きている間に、セイちゃんの顔が見られるのだろうね?」という母の涙ながらの問いかけに、「一年なんか、アッという間じゃない・・・・」と、最初は笑い飛ばして陽気に振舞っていた僕だった。

だが、母の顔や手にある死にボクロの多さが目に入るや否や、もしかしてもう会えないのでは?と、変な予感が頭をよぎった。

その瞬間、そこにはそんな痛ましい母の姿に、もらい泣きしている母の子供の僕がいた。


僕と息子が実家を発つ朝。

やはり、母のことが気になっていたのだろう。

タクシーの後部座席のガラス越しに、何気なく後ろを振り返ったときだった。

「足が痛いから、もう外まではもう見送りには行かないからね・・・」と言っていた母が、病気の父に代わって家族の生活の面倒を見るために、あまり苦労しすぎて直角に曲がった腰を無理やりまっすぐに伸ばし、ポッンと独り人生の中に置き去りにされてように杖をついて立っていた。

一歩も動かず、立っていた。

いつまでも、いつまでも立っていた。

僕は、その姿を見た瞬間とっさに窓を開け、「母ちゃん、母ちゃん」と涙ながらに、なんども大声で叫んだ。

僕は泣いた。

年甲斐もなく泣いた。

今、自分が息子や運転手と一緒に、タクシーに乗っていることも忘れて、当たりかまわず泣いた。


やがて、母の年老いた姿が朝の眩しい太陽の日差しの中に、吸い込まれるようにして小さくなって、視界から消えていった。



「息子」

ピンポーン。

「あっ!息子だ。」

息子が帰ってきた。

最初に顔を合わせた瞬間には、どんな顔をして、どんな言葉を掛けてやろうか。

頭の中では、色んな想像を思い巡らし、息子を迎える準備をしていたつもりだった。

それがいざ現実になると、つい慌てしまってそう上手くいかないものである。

それもそうかもしれない。


それは、三年ぶりの再開だからだった。

僕が突然リストラされて職を失い、家族が一緒に暮らせなくなってから、もうはや三年の歳月が経っていた。

その間色々なことがあった。父が死んだ。

妻が病気(乳がん)になった。

家族が家族でなくなった。

僕は僕の非力さを恨んだ。

学歴なさを恨んだ。

社会を恨んだ。

それでも恨みたりずに、四十歳が近い年齢だというのに馬鹿げたことだが、貧しい家に生まれたことまで恨んだ。

僕は泣いた。

暗闇の中で泣いた。

独りぼっちで泣いた。

それは、僕の周囲から昨日まであった、家族の温もりがすべて消えたからである。

―ガチャ・・・―

ドアを開けると、息子が立っていた。

十五歳になった息子が立っていた。

三年前には、百五十センチそこそこだった息子が、百七十センチ超える大男になって立っていた。

親子なのに、年月と時間の空白が、やはりお互いの心のどこかに壁を作るのだろうか?

最初は、三十センチもない距離の間にいるのに、二人とも声を掛けられずに、ただ黙って見つめ合っていた。

一分。二分。三分・・・


「ただいま」息子が、笑顔で言ったそのひと言が、これまでの年月と時間を飛び越えて、僕をかつてと同じように父親に戻してくれた。

僕は泣いた。

自分より大きくなった息子を、強く抱きしめて泣いた。

ふと顔を上げたら、息子の目にも涙が光っていた。

―カキーン―

「かんぱ~い」

息子が笑ってる。

僕が笑ってる。

冷凍物の寿司と飲み物(ビールとジュース)で祝う、二千円足らずの歓迎会だった。

だけど、今の未だに仕事が決まっていない僕にとっては、これが精一杯の息子のしてやれる、ご馳走であり歓迎会だった。

「ごめんね・・・」と、心の中で詫びる。

それでも、息子が喜んでくれている。

それでも息子が訪ねて来てくれた。

久しぶりに、僕に家族の温もりを届けてくれた、息子に感謝。親父と呼ぶようになり、一回り大きくなった息子に感激・・・

久しぶりに息子と弾む会話の最中に、「ここに、お母さんとお姉ちゃんがいたら、もっとよかったね・・・」息子の口から何気なく出た言葉が、僕に父親としての責任を、いや人間としての責任を再認識させた。

その瞬間、この“家族”という温もりを手に入れられるのなら、もう過去のプライドなんてどうでもいいと思った。



息子が帰る。

まだ薄暗い、人気がない裏道を帰る。

リュックを背負って、一人で帰る。

母と姉が待つ、家族のもとへ帰る。

父が欠けた、家族のもとへ帰る。

僕は黙って、その後姿を見てる。

声も掛けずに、ただ黙って見てる。

あっ、息子が振り向いた。

笑った。

手を振った。

僕も思わず、息子の釣られるように笑った。

手を振った。

そして、手を振りながら、ふとこの子たちと本当の家族に戻れるのは、いつの日だろうと心に思った・・・・・



「こころ美人」

こころ美人は、容姿も人柄も美しくなるというが、それは間違いかもしれないと思った。

その美語を、覆すような出来事に遭遇したからである。

彼女は、東大阪市に住んでいた。

実家は、代々雑貨問屋を営む、中流家庭だった。

婿養子の父親が、根っからの遊び人だったために、彼女が中学一年生のときに、実家は借金の肩代わりに人手に渡った。

彼女は、三人姉妹弟の長女だったこともあり、母親と一緒に家計を助けるために働いた。

コンビニの店員、食堂の皿洗い、喫茶店のウェイトレス。

金になれば、なんでもいいから働いた。

金になれば、どこでもいいから働いた。

人間(ひと)としてのプライドや、女性としての身なりもすべて捨てて、朝から夜まで働いた。

彼女は、苦労に負けなかった。

苦労をばねにして、働きながら高校大学と進学し卒業した。

そして、その頃にはだいぶん借金も片付き、いちおう家の生活も落ち着きを取り戻していた。

ところが、彼女が社会に出て二年目に、タバコ好きの母親がビュルガー病(バージャー病)という、まったく聞いたことがない病名の難病にかかり、足を切断することになった。

そして、母親は足を切断すると同時に、一人では動けない身体になった。

彼女は、悩んだ。

誰よりも、母親が苦労して来ているのを知っているだけに、心の底から悩んだ。

姉妹弟の中でも人一倍、母親思いだっただけに、夜も眠れないほど悩んだ。

その結果、けっきょく彼女は会社を辞めて、母親の看病をすることを決心した。

その日から、彼女と母親の泣き笑いの、二人三脚の人生が始まった。

それから後ろを振り向くと、あっという間に二十五年という歳月が過ぎ、ある日突然母親が亡くなった。

その瞬間、これまで彼女の肩に伸し掛かっていたすべての重荷が取れ、いつも決められた時間や場所でしか動けなかった、心の箍がポロリと外れた。

そのお陰で、彼女は母親が死ぬのと引き換えに、久しぶりに思う存分に心の開放感を手に入れた。

彼女にとっては、死んだ母親には悪いが、それが何よりも贅沢なことだった。

母親の初七日が終わると、これまでに失っていた自分の自由の時間を取り戻そうと、彼女は飛び回るようにしてあっちこっちを遊び歩いた。

だが、その喜びも長くは続かなかった。

しょせん、彼女が手に入れたのは過ぎた時間は取り戻せない、一過性の心の開放感だったからである。

ふと周りを見渡すと、多くの友人や知人もそうだが、妹弟たちまでが結婚して温かい家庭を持ち、彼女一人だけがその輪の中から外されていた。

その見過ごしていた現実に、自分が直に触れた瞬間、急に彼女はこれまでに感じたことがない孤独感に襲われるようになり、まったく自分の家族の生活観のない惨め暮らぶりを悔み、大きなショックに打ちのめされた。

そして、彼女は泣いた。

心から泣いた。

独りぼっちが寂しくて、大声で泣いた。

家族という温もりのない中に、独り取り残されたことが悔しくて、気が狂ったように泣いた。

その時、彼女はふと思った。

「私の人生って、いったい何だったのだろう・・・」


彼女は、今でも自分の人生の選択が、果たして正解だったのか?不正解だったのか?その答えが出せずに悩んでいる。


※上記の作品の中で、私がつけたそれぞれの人生の“ターニングポイント”は、「緑の文字」の部分です。みなさんも、この作品を読んで自分だったらどの部分を人生の“ターニングポイント”にするか?やってみてください。
ただ、誰が選んだものが正解だという決まった答えはありませんが、その選び方ひとつで、みなさんのこれからの人生の運命が幸せになるのか不幸になるのかに、間違いなく分かれていくことだけは確かなようです。



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