かつて、歌は “3分間のドラマ”と言われていました。この歌と同じようにすべてのストリーを3分間以内に読破でき、読者に対して幸福や感動、笑いなどを与える短編小説があったとしたら・・・
この「日本一短い人間ドラマ文庫シリーズ」が、日本で初めてその作品づくりを現実に実現したものです。ぜひ、すべての作品がわずか3分間以内で読み切ることが出来る、さまざまな人間ドラマを描いた短編小説の数々をお楽しみください。
戦争がくれた贈り物 / 中編
♪アリラン アリラン ここは日本
人の顔をした 鬼ばかり
♪アリラン アリラン ここは工事現場
鞭と罵声の 拷問所
花が結婚したのは、二十五歳のときだった。
早婚が歓迎される時代にしては、遅い結婚だった。
当時は、“国家のため”とか“天皇陛下のため”とかの教えの下に、数多くの国民が赤紙一枚で召集されて命を絶ったり、空襲の爆撃を受けて犠牲になったりしたために、日本の人口は急減状態にあった。
そして、全国の戦死者の数は、数百万人にものぼるといわれている。
そのために国が自ら推奨して、猫も杓子も子供を産めや増やせの時代だった。
別に、花の婚期が遅れたのは、花に何らかの問題があった訳ではない。
強いてその理由を挙げるとしたら、父九衛門が猫可愛がりして、なかなか花を自分の傍から手放そうとしなかったからだった。
おそらく、九衛門は寂しかったのだろう。
それは、花の母子小春が、彼女が十五歳のときに病死したからだった。
それに、花の兄は二人ともミンダナオ島沖の連合軍(米、英、蘭軍など)との戦闘で戦死した上に、おまけに二つ年上の姉の千代は戦争の真最中にも拘らず、大阪からやって来た反物商の男と駆け落ちをして、そのまま大阪で暮らすようになった。
ふと、戦争が終わって気づいてみると、家に残っているのは四人兄姉妹の中では花だけで、後は父の妹二人と兄の嫁の五人だけだった。
花が嫁いだ先は、花の実家と比べると布団も揃っていないような、貧しい小農家だった。
格式の違いから、花を殴るほど九衛門は猛反対した。
それでも、最後は花の熱意に折れ、嫁入り時には馬車に積めないほどの、食料や家財道具などを持たせてくれた。
当時の時代では珍しい、恋愛に近い結婚だった。
相手は、花より六つ年上のとても物静かで、温厚な性格の青年だった。
名前を達蔵といった。
また、達蔵も遅い結婚だった。
ただ、花と達蔵との場合は立場が大きく違っていた。
それは、達蔵が場合には太平洋戦争時に乗っている護送線が、チモール島から米国軍(連合軍)と最後の決戦を行うために沖縄に向かっている途中で、突然フィリッピンのミンダオ島沖で島陰に潜んでいた米国軍の空と海から攻撃を受け、護送戦ごと撃沈されて米国軍の捕虜になり、普通の帰還兵よりも三年以上も遅れて帰郷したからだった。
最初に花と達蔵が出会ったのは、近隣の町や村が一堂に集まって年に一回催す、祭りの夜だった。
達蔵の従兄弟秀雄が、たまたま花と同級生で祭りの夜に声を翔けられ、たまたま紹介されたのが、二人が付き合うようになったきっかけだった。
日本人離れして、目鼻立ちがよく物静かな温厚な性格だったのが、花の勝気な性格にピッタリだったのか、花の一目惚れだった。
二人は、三ヶ月ほど手紙のやり取りをやった後、すぐに深い恋仲になった。
その結果、父の九衛門に嘘をついてまで、達蔵に会いに行くことがしばしばあった。
今のように、映画館や喫茶店といった洒落たものが少ない時代だけに、もっぱらデートは川や海といった、自然の中が多かった。
ただそれだけではなく、二人にはそういった贅沢な場所でデートをする、金がなかったこともその理由のひとつだった。
それでも、二人はどんな場所であろうと、ただ会って一緒にいることが嬉しかった。
夜昼関係なく、二人はお互いの親の目を盗んで連絡を取り合い、時間があればデートをした。
その頃が、花の人生の中で一番に幸せに満ち溢れていて、女性としての楽しさを唯一堪能した時期だったかもしれない。
きっと男性にとってもそうだろうが、女性とっては十代後半から二十代前半といえば、一番多情多感な青春時期である。
それは、戦争という生き地獄の世界にその青春時期をすべて奪われた上に、結婚して五年目に花が心に描いていた理想の生活とはまったく逆に、突然達蔵が農作業中に衣服が真っ赤に血で染まるほど吐血して、肺結核で長期入院生活を送ることになったのを機に、四人の子供たちがおのおの学校を卒業して、一人前の人間として働けるようになるまで、あまりの生活の苦しさに子供を道連れに心中することを考えるほど、苦悩する日々の連続だったからである。
花は、いつものように達蔵を看病に行った、町の中心地にある病院からの帰り道、大粒の涙を流しながら泣いていた。
涙が、自分勝手に湧き水のごとく溢れ出てくるほど、苦悩して泣いていた。
それは、まさに病院から帰ろうとした、その時のことだった。
突然、達蔵を入院当初から面倒見てくれている、看護婦(看護師)の遠藤靖子に医務室に呼ばれ、 病院側の正式な意向として、“これ以上の入院費の未納が続くのなら、病院を出て自宅療養するように切り替えざるを得ない・・・”と、通告されたからだった。
当時、肺結核の治療にはペニシリン(1928年、英国の解剖学者であり細胞学者でもある、A・フレミングが青かびの一種から発見した抗生物質。)が一番効果がるといわれ、達蔵の病気の治療にもそのペニシリンが使われていたが、ただやはり効果のある薬はそのぶんその代金も高く、とても花の家のような小農家の収入では、毎月きちんと支払えるような金額ではなかった。
そのために、花は達蔵の入院費や家族の生活費を稼ぐために、朝から晩まで農作業や担ぎの行商をしたり、自分が嫁入り時に持参して来た着物や装飾品など、すべて、家にある金目の物は売り払ったりして、なんとかかんとか苦しい生活ながらも、それで二年ほどはやりくりをして来た。
しかし、達蔵の入院生活が長引き三年目に入るその頃から、すべての金が底をつき子供たちの学費や給食代はもちろんのこと、達蔵の入院費が半年以上も支払えずにいた。
いつかは、こんなことになるだろうといざ覚悟はしていたもの、達蔵の担当看護婦の遠藤靖子の言葉は、花の日頃からの生活苦で空洞化している心に、一気に岩石を投げ込むように、大きなショックを与えた。
だが、そう言われてもどうすることも出来ないのが、正直なところ現実だった。
それは、もう家に残っているのは少しの生活用品(飯炊き釜や包丁、茶碗など)と、家族が雑魚寝するための何組かの布団くらいで、家中どこを探しても金目のものは何ひとつとして残っていなかったからである。
そして外見とは大違い、家の中に足を一歩踏み入れると、まったく人が住んでいるとは思えないほどガラーンとし、まるでその生活状況は夜逃げか引越しでもしたかのような、何の家族の温もりも感じない吹きさらしの風が吹いている、空き家を思わせるくらいだった。
※この作品の内容は、すべて当時(昭和20~30年代)の時代の言葉の表現を、そのまま引用し執筆させて貰っていますことを、どうぞご了承いただきますよう、よろしくお願いします。
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当関連ブログ
OCNブログ「おとぎのお家」
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アメーバーブログ「おとぎのお家と仲間たち」
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