「脱・使い捨てプラスチックゴミ」を趣味にしてからしばらく経つ。
「え?それって趣味だったの?」という声が聞こえるが、「趣味」ということにすると何かと都合が良いのである。
1、「趣味」には「正義」が付いてこない。
私は「正義の人」になりがちで、また「脱プラ」も「正義」に傾きがちである。
しかし「正義」というのは非常に厄介なものなので(語ると止まらなくなるので詳細は割愛)、最近は特に気をつけて「正義」にならないようにしている。
2、「趣味」としての時間やお金
プラごみを無くそうと思うと、現状では時間とお金がかかる。遠くまで自転車を漕いだり、わざわざ電車で出かけたり。売っているグラム単位の価格も跳ね上がる。それを「食費」と思うと「なんかそこまですることってあるの?」と思うのだが、「趣味」と思えば趣味代の範囲であれば問題ない。もちろん「これは趣味にしては高いな(めんどくさいな)」と思ったらすぐに止めれるという利点もある。
まあそれで、買い物の仕方は随分と変わった。
現在は「プラスチックゴミをいかに減らせるか」という一点で買い物をしていると言っても過言ではない。
コンビニで昼ごはんを買うときには「トレイの付いてないもの」という謎の視点で購入。弁当は買わなくなった。トレイがついてるから。大好きなトルティーヤ(ラップサンドみたいなやつ)も買わなくなった。トレイがついてるから。
おやつも買わなくなったし、ドレッシングも、常備していた春雨のインスタントスープも買わなくなった。
その代わりに、家でクッキーやパウンドケーキを焼いたり、オニオンスープの素と乾燥野菜を常備して自家製インスタントスープの素を開発したりしている。
思っていたよりは手間はかからないが、手間と金額と考えたら「買った方が美味しいし安いしバリエーションが豊富」である。
だが「趣味が脱プラ」なので仕方ない。家族は別に文句は言わない。欲しけりゃ自分で買えばいいし、夢中になっているえこに何を言っても無駄だということはよく知っているからである。
そのほかパンも作るし、ドレッシングも作る。
まるで女子力が上がっているかのようであるが、本当の女子力ではないことは、「何度作ってもウデが上がらない」というところで分かる。なんかいつも「まあ、(手作りということを差し引けば)、美味しいよね」というレベル止まりである。否、初めはレシピに忠実に作っているのに、段々と手抜き的自己流になってくるから、むしろ「下がっている」ような気もする。
これはどうしたものか。
趣味としては「脱プラ」という時点で達成しているから、食べられるレベルであれば良いのである。
だが、やはり「美味しくなければ続かない」ということだって間違いないのだ。
家族の理解も得にくくなる。自家製クッキーが置いてあるのに、横で家族が個包装の「オレオ」を買ってきて食べていたら?・・おそらく私も「一つちょうだい」と言って、もらうだろう。
理想としては「買ったものよりも美味しい!!」であろう。
そりゃそうだ。
だが、それは「パンづくりを趣味に」「お菓子づくりを趣味に」するくらいじゃないと達成できない。
趣味の範囲を(興味もないくせに)無駄に広げても失敗するだろう。
結論としては「ときどき誰かが買ってきたオレオ(個包装)は、「わーい!」と美味しく頂く覚悟をもつ」ということであろうか。
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