若いうちから「やりてババア」という人種には少なからず興味があった。
そして縁もあった。
「やりてジジイ」にも縁があったが、やはり興味の対象は「やりてババア」の方である。第一ジジイの方は「やりてジジイ」とは言わないし。
一見親切そうに見えるが、間違いなく値踏みをしている態度。
口先だけの謝罪はするが決して本心からは反省などしない強い意志。
反発心がムラムラと沸くが、一方で「悔しいがこのおばさんにはかなわないな」と思ってしまう。
以上が私にとっての「やりてババア」像である。
かなりマイナスイメージが多いのは、そういうやりてババアと戦った時に一矢も報いる事ができず敗北した経験があるからである。その時はそれなりに戦ったつもりでも、後で考えたら「あれは何のダメージにもなってなかったな」と思う。キー。くやしい!
それなのに何度でも衝突する私も私なのだが、ついつい衝突してしまう。そして敗北する。
わたしの繰り出す「正しさ」とか「法律」の矛先を、先方はのらりくらりと「だってねえ、それが常識っていうものですよ?」などと言ってうやむやにしてしまうのだ。わたしは法律の話をしてるんだ!常識の話をしてるんじゃない!!とか言っても無駄なのである。何故か無駄になってしまうのである。
もちろん敵にまわしてたばかりでなく、かわいがってもらったことも多数ある。そういう場合非常に頼もしい味方になる。反則技を繰り出すことも厭わないから無理も通る。そして彼女たちは本当に有能なのだ。
だからそういう人を敵にまわした時点で負けは決まっているようなものなのだが、しかし私はそれを認める事が出来ずに戦っては負け、そして「いつか私だってやりてババアになってやるんだから」と思っていた。
そう。思っていたのだ。やりてババアになれるはずだと。
そう思っていたのだ。二十代、三十代のわたしは。
ーーーーー
最近はじっと町田から動かないどころかスタジオと家の往復だけで生きていたのでそんなアレコレも忘れていたが、先日ひさしぶりに私の「やりてババアセンサー」が働いた。ピコピコピーン。
おー久しぶりにこういう人を見たなあ、、、なんて感慨深く思いながらの帰り道、ふと思った。
「四十代に入った私は、果たしてやりてババアになっているのか?」
否。
否。なのである。
その人と勝負して勝てる気なんてまるでしない。
また「正しさ」とか青臭いことをぺらぺら言っちゃってキュウというめに遭わされるに違いない。
わたしは大きく動揺した。
これからどれだけ年をとっていってもやりてババアになれる気がしないじゃないか!
勿論人が皆やりてババアになったほうがいいと思っているわけではないし(むしろヤダ)、自分が本当になりたいと思って「いつかやりてババアになってやる」と思ったのかもよくわからない(負けて悔しかっただけだと思う)。しかし、なんというのだろうか、勝手に「年をとればあのようなのらりくらり技が出来るようになる」と思い込んでいたことにはじめて気がついたのだった。
そうか。
努力の結果なのだ。
年をとれば自然に出来ることなど何一つもないのである。
たゆみない努力と日々の訓練、
そういうものしかないのである。
やりてババアになる訓練をしなければ、やりてババアにはなれないのだ。
書いてみると「大きくなったらウルトラマンになれると思っていたけど、大きくなってもほんの一握りの人しかウルトラマンになれないってことがわかりました」と同じ次元の話じゃないかと更に気付き、はーとため息をつく。
そんな秋の日。
そして縁もあった。
「やりてジジイ」にも縁があったが、やはり興味の対象は「やりてババア」の方である。第一ジジイの方は「やりてジジイ」とは言わないし。
一見親切そうに見えるが、間違いなく値踏みをしている態度。
口先だけの謝罪はするが決して本心からは反省などしない強い意志。
反発心がムラムラと沸くが、一方で「悔しいがこのおばさんにはかなわないな」と思ってしまう。
以上が私にとっての「やりてババア」像である。
かなりマイナスイメージが多いのは、そういうやりてババアと戦った時に一矢も報いる事ができず敗北した経験があるからである。その時はそれなりに戦ったつもりでも、後で考えたら「あれは何のダメージにもなってなかったな」と思う。キー。くやしい!
それなのに何度でも衝突する私も私なのだが、ついつい衝突してしまう。そして敗北する。
わたしの繰り出す「正しさ」とか「法律」の矛先を、先方はのらりくらりと「だってねえ、それが常識っていうものですよ?」などと言ってうやむやにしてしまうのだ。わたしは法律の話をしてるんだ!常識の話をしてるんじゃない!!とか言っても無駄なのである。何故か無駄になってしまうのである。
もちろん敵にまわしてたばかりでなく、かわいがってもらったことも多数ある。そういう場合非常に頼もしい味方になる。反則技を繰り出すことも厭わないから無理も通る。そして彼女たちは本当に有能なのだ。
だからそういう人を敵にまわした時点で負けは決まっているようなものなのだが、しかし私はそれを認める事が出来ずに戦っては負け、そして「いつか私だってやりてババアになってやるんだから」と思っていた。
そう。思っていたのだ。やりてババアになれるはずだと。
そう思っていたのだ。二十代、三十代のわたしは。
ーーーーー
最近はじっと町田から動かないどころかスタジオと家の往復だけで生きていたのでそんなアレコレも忘れていたが、先日ひさしぶりに私の「やりてババアセンサー」が働いた。ピコピコピーン。
おー久しぶりにこういう人を見たなあ、、、なんて感慨深く思いながらの帰り道、ふと思った。
「四十代に入った私は、果たしてやりてババアになっているのか?」
否。
否。なのである。
その人と勝負して勝てる気なんてまるでしない。
また「正しさ」とか青臭いことをぺらぺら言っちゃってキュウというめに遭わされるに違いない。
わたしは大きく動揺した。
これからどれだけ年をとっていってもやりてババアになれる気がしないじゃないか!
勿論人が皆やりてババアになったほうがいいと思っているわけではないし(むしろヤダ)、自分が本当になりたいと思って「いつかやりてババアになってやる」と思ったのかもよくわからない(負けて悔しかっただけだと思う)。しかし、なんというのだろうか、勝手に「年をとればあのようなのらりくらり技が出来るようになる」と思い込んでいたことにはじめて気がついたのだった。
そうか。
努力の結果なのだ。
年をとれば自然に出来ることなど何一つもないのである。
たゆみない努力と日々の訓練、
そういうものしかないのである。
やりてババアになる訓練をしなければ、やりてババアにはなれないのだ。
書いてみると「大きくなったらウルトラマンになれると思っていたけど、大きくなってもほんの一握りの人しかウルトラマンになれないってことがわかりました」と同じ次元の話じゃないかと更に気付き、はーとため息をつく。
そんな秋の日。
どちらもなりたくてなるわけではないでしょうね。しかし必然性はあると見た!
意味もなくやりてババアになったりウルトラマンになったりはしないんですねー。なると思ってたんだけどな~。
やりてばばあって、私会った事あるのかな?
いいようにやられても、気づいてなから戦った事もないのかも?
やりてばばあ、近くにも居るのかな、深まる秋にさがしてみようっと。