心の学校・佐藤康行の『真我の実践・サンタ営業の実践』日誌…『ひよこ』から『にわとり』への道

うつに苦しみ社会離脱した人間が真我(=本当の自分)に目覚め、サンタ営業実践の日々と開発者・佐藤康行の言霊を紹介します。

【第354回】『過去は未来からやってくる』の意味がわからんちん(笑)

2019-10-26 19:34:22 | 日記

最近のYS実践ブロガーの中でも、佐藤学長の近くにいる方のブログの中で、頻繁に出てくるキーワードがある。

それは『過去は未来からやってくる。』

この言葉、私の認識の世界の中で、過去、今、未来と時系列で考えてしまうと、一瞬わけがわからなくなる。

最近の、佐藤康行研究所のブログ、そして、佐藤学長の秘書たちのブログを読ませて頂いて、

正直な気持ちとして

この人たちは、一体何を言っているのだろう?????????

??????????????????

と(笑)思ってた。

(Mさん、Tさん、スミマセン。)

だってだって、ブログに書いていることって、過去に縁があった人が、今目の前に現れたという奇跡だという話。

過去が未来から来ていないじゃないか❗

過去が過去から来ているじゃないか❗(笑)

と思っていた。

しかし、昨日今日の、Mさん、Tさん、Nさんのブログを拝見し、少し見えてきた気がしています。

『過去は未来からやってくる。』という言葉の真意。

一つの手がかりは、今朝の、ご3方のブログでした。

過去が急に目の前に現れる。

過去が今に還ってくる。

この突然目の前に現れた過去をどう受けとるかが大事だと佐藤学長が仰っているらしい。

この言葉を見た時、少し、なるほど❗と思った。

今現れている過去は、これからの未来への道しるべなんだ。

これから未来に向かって進む神のメッセージであり、羅針盤なんだと思いました。

そして、そもそも『時間はない』のだ。

過去も今も未来も『無い』のだ。

過去も未来も今という概念も、私たちの認識の世界で、過去も今も未来もあると思い込んでいるだけなのだ。

だから、過去も未来も今も、『無い』から『自由自在に変えられる』のだ。

時空を越えたとき、人は自由自在になるのだ。

『過去は未来からやってくる。』の言葉の意味が少しわかったような気がした。

しかし❗

佐藤学長の言葉にある。

『真理は、わかったと思った瞬間、わかっていない。わからないのが、わかっている。』

私は、わかっていない❗(笑)

のです。(笑)

という私の心のつぶやきでした。

ありがとうございました。


【第353回】満月という前提こそが、真我プロカンの急所である。

2019-10-26 10:28:36 | 日記

✳仕事の合間にブログを書かせて頂いているため、随時加筆修正し、更新していく可能性があります。ご了承下さいませ。✳

おはようございます。

さて、以前、シリーズ化していたブログで中座していた真我プロカンのテーマに戻っていこうと思います。

前回までのポイントは、真我プロカンで愛の翻訳をするにはどうしたらいいか。上手くできないのはなぜかでした。

『愛の翻訳をしようと思うと上手くできない。』というテーマに対して、私たちはどうしたらいいのか。

ここでも『満月という前提に立つ』事が非常に有効だと思うのです。

満月という前提に立つ事で、目の前の相手の見え方が変わってきます。

これは、私が真我プロカンを、私なりに実践させて頂く中での体験ですが、

目の前の方は、満月だという前提に立ち、

その立ち位置で、ひたすら相手の話を聴き続けていくと、

悩みだらけで、不完全に見える相手の姿が、

相手の方が、悩みを持ちながら、問題を抱えたままの状態そのままで、

その方がとても素晴らしい方、愛一杯の方、優しさに溢れる方に見えてくるのです。

そして、その方の問題自体が無くなっていくのです。

いや、問題に見えるその事自体が、吉報に変わっていくのです。

本当です。本当にそうなのです。

なぜなら、問題そのものが『無い』からです。本来は『答え』しか無いのです。

私たちの認識の世界で、その出来事を『問題』だと思いこんでいるだけなのです。

実相の世界は『完全完璧』なのです。

真我カウンセラーが、『満月』という前提に立つと、相手の『神鏡』になれるのです。

相談者は、その神鏡に映る姿を見て、少しずつ自分自身が完璧で愛一杯で素晴らしい存在だと気づいた瞬間に、問題が消え、その渦中の問題自体が、吉報に、愛と感謝と喜びの出来事に自然と変化していくのです。

何も、真我カウンセラーが、『愛の翻訳をしよう』と思う必要が無いのです。

『目の前の方は、満月だ』という前提に立つだけで、良い。

真我カウンセラーが、相談者を『救おう』と思う必要は無い。

『救おう』という発想は、相手を三日月で見て、欠けている部分を足そう、補足して満月にしてやろうという三日月を前提にした発想です。

相手は『満月だ』という前提に立つだけで良いのです。

なぜなら、真我カウンセラーからは、どうみても相手が三日月にしか見えなかったとしても、

その方は、満月だからです。

三日月にしか見えないけど、三日月は無いのです。

満月しか無いのです。

だから、『満月という前提』に立つのです。

相手は完全完璧、神なる人、愛なる人、素晴らしい人、無限の可能性を持っている人なのです。

だから、真我プロカウンセラーは、満月という前提に立つだけで良い。

それ以上もそれ以下でも無い。

ただそれだけです。

それだけが、真我プロカンのコツであり、急所です。

後は、その方の話を、『聴く』に徹するだけ。

まさに佐藤学長の仰る『真我の傾聴』です。

(✳️私は真我の傾聴のセミナーに出た事はないのですが……)

さあ、ここで私なりの真我プロカンのコツをまとめます。

①目の前の方は、『満月だ』という前提に立つ

②目の前の方の話を『聴く』に徹する。(真我の傾聴)

この2つです。

たったこれだけです。

しかし、これだけの事がなかなかできません。

どうしたらこの2つの事ができるようになるのでしょうか。

それを次回に書かせて頂ければと思います。

ありがとうございました。


【第352回】今朝の真我布武さんのブログを読んで感じる事

2019-10-26 09:02:38 | 日記

今日、会社出勤に向かう電車の中で、今朝の真我布武さんのブログを読んでいたら、電車を一駅乗り過ごしてしまいました。 

真我布武さんの今朝のブログのリンクが貼れません。すみません。

真我布武さんとは、真我体道のフォローで1回ペアワークを3年前にやったことのあるだけのご縁なのですが、その時の真我布武さんの役周りが、あまりにもリアルで、私にとって凄い真我の実践の訓練になったので、

とてもよく真我布武さんの事を覚えています。

実は、今、私は4ヶ月前に復職した会社で、比較的順調に来てはおり、近々に昇格する予定です。 

しかし、一方で(笑)、心の中ではやたら腹が立つことが多いのです。

前にも書いた職場の女性は、相も変わらず、私が忙しくしている時間にマイペースで話しかけてくる。

営業会社なのに、全く売り上げを上げる事に関心がなく、朝から世間話ばかりに花を咲かせ、

自分は売り上げを全く上げていないのに、固定給はくれと平気で言い放つ社員立ち。

突然、私の携帯電話にかかってくる、こちらの都合一切無視、失礼満載、私の心に土足で入ってくる究極のドロボー営業の投資用不動産の営業マン。

うどん屋に行けば、行ったで、私の注文を三度も聞き間違え、お詫びもせずに、ヘラヘラ笑っている店員と、面倒くさそうに、注文を作り直す料理人。

書けば書くほど出てくるわ、でてくるわ(笑)

まだまだ腹の立つことは書こうと思えば、際限なく(笑)続きます。

毎日、こんな事だらけです。

私の場合、真我開発講座で真我を体感し、実践していくほど、こういう事が定期的に訪れます。

この時に必ず思い出す佐藤学長の言葉があり、それを思い出しながら、実践でチャレンジ中です。

それを次回以降に書きたいと思います。

キーワードは、伝える、愛、リボン、そして、ゴミ出し言霊です。 

今日は真我布武さんのブログをきっかけに書こうと思った事の備忘録として書かせて頂きました。

ありがとうございました。


【第351回】満月という前提No.7~満月を見ようとするんじゃない。観えてくるんだ~

2019-10-25 15:49:50 | 日記

前回より続きます。

満月の法則を提唱されている佐藤学長と私たちの決定的な違いとは何か。

それは

佐藤学長は『目の前の人は満月だ』という大前提から1ミリもぶれないという事です。

満月という前提に立つとどうなるか。

満月という前提にたった瞬間から、物事の見え方が変わってくるのです、ガラガラと変化していくのです。

三日月の形がガラガラと変わってくるのです。

不完全で不幸としか思えなかった三日月の形が、丸みをおびた月の形に変わってくるのです。

不完全で不幸だとしか思えなかった出来事が、愛と感謝に溢れ、幸せ一杯喜び一杯の出来事に変化していくのです。

しかし、私たちには、神の完全完璧は見えない。実相は見えない。満月は見えない。

全て、私たちの心の中で移る映像が変わっただけで、物事の実体は何も変わっていないのです。

もともと、私たちが五感で捉える世界は『無い』のです。

『無い』からこそ、自由自在に書き換えられるのです。

満月という前提に立つだけで、物事が無限に素晴らしき良き方向に変化して見えてくるのです。

これを佐藤学長は、『極地の認識』と仰った。

学長も実相は見えていない。

ただ、認識の世界の中では、極地におられるのだと私は思います。

以前学長は、こう仰っていました。

『無限なる世界、実相はただ在るだけ。1ミリも変化しない。しかし、有限なる世界、認識の世界は、無限に触れた瞬間、有限の世界は無限に変化する。』と。

満月という前提に立つことで、物事の見え方が無限に変化していくのです。

それも無限に、より良き方向に、愛と感謝と喜びと幸せ、健康発展の方向に、無限に変化していくのです。

この間の『サンタ営業言葉編』のセミナーで

ある受講生が、徹底的な質疑応答の後半で、こうつぶやいていた。

『そうか、満月を見ようとするんじゃないんだ。見えてくるんだ┅┅┅。』

これを聞いて笑っている人もいましたが、

私は、これこそが、満月の法則の急所だと思います。

満月という前提に立つと、三日月の見え方が結果として丸みを帯びてくるのです。

もしくは三日月が、その形のまま美しく見えてくるのです。 

三日月が見えながらも、満月という前提から1ミリもぶれない学長。

三日月の欠けている部分を直視して、欠けている部分を必死で埋めようとして、何とか満月を見ようと必死な私たち。

三日月が見えたままでも、満月という前提に立つのか。

三日月という前提で、足して満月を見ようと必死になるのか。

ここが佐藤学長と私たちの決定的な違いだと思うのです。

ゆえに、学長と私たちは、同じ物事の見え方が違うのです。

学長が見えている世界と、私たちが見ている世界とは違うのです。

『夜空に浮かぶ三日月。しかし、私たちには三日月に見えるだけで、三日月という月は無い。満月なんです。

佐藤学長と私たちの違いは、『満月という前提』から1ミリもぶれていないという事です。

だから、佐藤学長から見える世界は、私たちから見えている世界とは別世界。次元が違う。という事だと私は思うのです。

以上 私の個人的意見でした。

ありがとうございました。

 


【第350回】満月という前提No.6~見ようするんじゃない、観えてくるんだ~

2019-10-24 11:33:35 | 日記

内容としては

【第345回】※加筆修正※満月という前提NO.4~観える世界、神える世界へ~

の続きになります。

(リンクが貼れず、すみません。)

佐藤学長の提唱される『満月の法則』

その急所である『満月という前提』という言葉。

満月の法則を極めていくには、たった1つ、この『前提』という言葉だけで良いと思っています。

『満月という前提に立つ』だけ。たったそれだけで良いと思います。

但し、この立ち位置から1ミリもぶれてはいけない。

そして、『満月を見よう』としては行けない。

なぜなら、私たちには、『満月は絶対に見えない』からです。

私たちは認識の世界で生きているので、実相の世界は見えない、絶対見えないのです。

ここで、

【第348回】満月という前提No.5~お願いだからスタッフの方へ『佐藤学長には見えている』と言わないで下さいという個人要望です。

と関連してきますが、心の学校のスタッフが、『いや、佐藤学長からは見えているんです。』と言ったりしているのは何なのか?という話になってきます。

ここからは、あくまでも私の個人的意見ですが、

佐藤学長にも実相の世界までは見えきれていない。

見える訳がない。

なぜなら、佐藤学長も、同じ人間だから、同じ肉体をもち、五感、六感を持ち、認識の世界の中で生きているから。

佐藤学長でも、実相が見えている訳ではない。満月が見えている訳ではないのです。

私たちも、佐藤学長にも、三日月しか見えていないのです。

しかし、私には三日月にしか見えない、その月は『満月』なのです。

だから、私たちは、佐藤学長も含め『満月という前提』に立つのです。

佐藤学長も、私たちも一緒なのです。

私たちと佐藤学長には、何ら違いはないのです。

しかし、佐藤学長と私たちには決定的な違いがあります。

それは、何か┅┅┅

次回に続きます。

ありがとうございました。