![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/74/de529abe6622a0d3ac1fb9ae63ade544.jpg)
4月7日(日)に奈良県大和郡山市で行われた
「第16回町並みと民家を訪ねる会」の報告です。
8名の参加がありました。
関西中国地域ブロック事務局より![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/pen.gif)
春の嵐に吹かれた、櫻の花びらが舞う道を今回は大和郡山に訪ねました。
「稗田の環濠集落」と城下町として栄えた「郡山の町並み」です。
大和郡山は、古くは平城京の九条通りの南にあり、薬草園としての集落、
また「稗田」は古事記の語り部、伝承者として稗田阿礼の出身地として
伝えられています。
中世の後期、筒井順慶の居城として郡山城が造られ、続いて豊臣秀次が
城下町を造り、江戸期には柳沢家などの諸大名が大和の地を
治めたところで、明治に入るまでは政治・商業の町として栄えました。
郡山といえば金魚の街として有名ですが、あちこちに点在する古民家や
町家の風情は豪華なもので、また新しく様相替えした町並みは、
予想以上に美しくなっていました。
稗田環濠は大和に多くあった集落の中で、ほぼ完全な形で残されている
ことが奇跡のようなところです。周りに水をたたえた景観がなんとも
言えない風情をかもしています。水掘りに囲まれた、小さな邑で、
北東側は七曲りよばれる特異な形をしており、T字形や、袋小路に
なっていて防御に適した構造になっています。260m程の御札のような形を
した集落が、現在まで形を残して続いていることの不思議さを感じさせて
くれます。
集落の南側に、古事記の語り部の「稗田阿連」を祀る「賣太(メタ)神社」
があり、ここで、天武朝から続く古事記や阿礼のお話、またこの社での
伝統儀礼などを、丁寧にきかせて戴きました。
城下町として、箱本十三町と呼ばれる町々が古から自治組織を造り、
町や店を守り、商業を中心として栄えたことが、細く狭い路地や
入り組んだ町家の佇まいを見るとよく解ります。
細長い町筋を柳町といい2丁目から4丁目まで、南に下ると南邸・和田徳・
花内屋などの古民家が残っています。そこを東北に上がると、洞泉寺町に
入りますが、元花街のあったところで、豪華な遊郭楼閣やお寺が並んでおり、
これはほかでは見ることができない建家群です。
城下にはたくさんの寺社が目白押しですが、特に日本三大稲荷の
源九郎稲荷は場所柄、芝居芸能が盛んであったことを忍ばせてくれます。
「第16回町並みと民家を訪ねる会」の報告です。
8名の参加がありました。
関西中国地域ブロック事務局より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/pen.gif)
春の嵐に吹かれた、櫻の花びらが舞う道を今回は大和郡山に訪ねました。
「稗田の環濠集落」と城下町として栄えた「郡山の町並み」です。
大和郡山は、古くは平城京の九条通りの南にあり、薬草園としての集落、
また「稗田」は古事記の語り部、伝承者として稗田阿礼の出身地として
伝えられています。
中世の後期、筒井順慶の居城として郡山城が造られ、続いて豊臣秀次が
城下町を造り、江戸期には柳沢家などの諸大名が大和の地を
治めたところで、明治に入るまでは政治・商業の町として栄えました。
郡山といえば金魚の街として有名ですが、あちこちに点在する古民家や
町家の風情は豪華なもので、また新しく様相替えした町並みは、
予想以上に美しくなっていました。
稗田環濠は大和に多くあった集落の中で、ほぼ完全な形で残されている
ことが奇跡のようなところです。周りに水をたたえた景観がなんとも
言えない風情をかもしています。水掘りに囲まれた、小さな邑で、
北東側は七曲りよばれる特異な形をしており、T字形や、袋小路に
なっていて防御に適した構造になっています。260m程の御札のような形を
した集落が、現在まで形を残して続いていることの不思議さを感じさせて
くれます。
集落の南側に、古事記の語り部の「稗田阿連」を祀る「賣太(メタ)神社」
があり、ここで、天武朝から続く古事記や阿礼のお話、またこの社での
伝統儀礼などを、丁寧にきかせて戴きました。
城下町として、箱本十三町と呼ばれる町々が古から自治組織を造り、
町や店を守り、商業を中心として栄えたことが、細く狭い路地や
入り組んだ町家の佇まいを見るとよく解ります。
細長い町筋を柳町といい2丁目から4丁目まで、南に下ると南邸・和田徳・
花内屋などの古民家が残っています。そこを東北に上がると、洞泉寺町に
入りますが、元花街のあったところで、豪華な遊郭楼閣やお寺が並んでおり、
これはほかでは見ることができない建家群です。
城下にはたくさんの寺社が目白押しですが、特に日本三大稲荷の
源九郎稲荷は場所柄、芝居芸能が盛んであったことを忍ばせてくれます。