神宮外苑のいちょう並木、今年は色づくのがとっても遅いです!
【2010年11月に書いたブログです】
海外の人は自己主張がつきものなので、ドラマも映画も親子や兄弟のケンカはかなり激しく見えてしまいます。
だから、、、、「あんなことを言いましたがあなたの事が大好きですよ」という意思表示をハグやキスとともにし続けないといけないのかなぁ、なんて思ってしまうのです。
今から13年前に書いたこのブログ、「小2の子と小4の子は一緒に寝ています。いつも抱きついて寝ています。だからといって自立心が養われないかというとそうではないと思います。寝ている時、チョッと不安になった時、手を伸ばせば誰かがいるという安心感。この安心感がしっかり育っていれば、必ず自らの力で羽ばたくだろうと思っていたし、この安心感がしっかり育てっていれば「どこに行っても誰もが私を愛してくれる」といった、根拠の無い自信を持てるようになるだろうと思っていました。ひいてはそれが自分を愛する事にもつながると思うのですがどうでしょう。」といった事を書いていた。
小さいアパートで家族6人、プライベートなんてあって無いような家で育った子ども達だが、どの子もちゃんと自立した。それも人を愛し愛される力をしっかり心に養って。いつも誰かがいる場所で、時には楽しく、時には喧嘩もしつつ、人との距離感を学びつつ成長したように思う。生きる上でとても大切な人との協調、そのために必要な家庭との触れ合い。今は皆んな、仕事に勉強に大忙しの毎日だが、それなりに楽しくやっているみたいなので、それは和を大切にしてきた賜物だとは思っていたい。
ところでこのブログに書かれている「寝かしつけ」について、今も昔もその考えは変わっていない。そういえば一人で寝かせる事については多くの患者が試していた。最低でも生後3カ月くらいからはスウォドリングをはじめ、6カ月までには一人で寝かせるといった人が多かったように思う。その割り切り加減は皆さん日本人離れしていたし、それ以前に子ども部屋を宛がう事ができるほどの大きな家に住んでいた。「泣いても叫んでもそれは寝言、一人で寝たいのに泣く度に抱きかかえられ起こされたら赤ちゃんもたまったものはないでしょ?」と言われた時には、この人は同じ人種なのかと疑ったほどだ。もちろん病的な泣き方は気にしなければいけないから、子ども部屋に音声モニターを置いていると言ってはいたが、なかなかどうして、私には無い考えがとても新鮮だったのを思い出した。
片や日本では多くの人が泣く度に子どもをあやす。マンションの壁が薄く泣き声で迷惑をかけるのも気が引ける。それを虐待だと思われるのも嫌。多分そういった気持ちも添い寝ですぐに抱き抱える文化が継続してきた理由だと思うが、「泣く」は親を呼ぶ行為だから「泣けば抱っこすりゃあいいだけじゃん!」といった考えが根っこにあるから、一人で寝させるといった七面倒臭い考えなんてやろうとも思わないし、知ってはいても意識に上がることすら無いのもその理由のような気がする。
狭い家で4人の子どもを育てた我が家の場合、当然だがいつも誰かにくっつくしかない。そんな「近さ」で育ったので、人の機微を推し量る力がついたのではないかと、勝手に悦にいる自分がいたりする。まあ自分の子育ては果たしてよかったのか納得で来ていないところも多々あり、そう思おうとしている自分がいるのも無きにしも非ずだが、子ども達の他者に対する距離感が羨ましい時が増えるにつれ、よくぞここまでしっかり育ってくれたと彼らの成長を純粋に評価したいと思う。とにかく相手に合わせて臨機応変に対応する力を無意識に発揮できるようにできなければ日本での生活は大変なので、日本ならではのローカルルール、無茶難しい「暗黙の了解」を子どものうちにマスターすることは必要不可欠だ。個の時代が来ているとはいえ、いまだに島国根性が根強く残るこの国での生きやすさ、自己主張できる人が必ずしも生きやすいわけでは無いこの国で、人とのつながりを大切にしている子ども達を見るにつけ、あながち子育ては間違っていないと、声を大にして言いたい自分がここにいる。
【2023年2月のブログです】
コミュニティーにおける自分の立ち位置。まさに村社会的な思想だと思うのだが、これが都会でさえも求められる日本だ。より個の概念が消される田舎暮らしに都会の流儀を持ち込んだとしたら、どうなるかは言わずもがなである。
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