写真は外苑前駅に一番近い歩道橋からです。今日も1日お疲れ様でした!
浄土教で言うところの阿弥陀様って何処にいるんだろう。その存在する場所について考える事が最近よくある。「必ず救う、我に任せよ」と衆生におっしゃる阿弥陀如来、この世のどの辺にいるのか考えてしまう。
歎異抄9条の中で親鸞は、唯円の「念仏称えても、喜ぶ心がおきません。また、はやく極楽へいきたいという心もありません。どうしてでしょうか」という問いに対し、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」と 唯円の問いに大いに同意している。
多分そうだと思う。対象たる阿弥陀様があまりに大きすぎるのだ。わからなくて当然なのだ。孫悟空が如来に「私の手のひらから飛び出すことができたら君の勝ち」と言われ、筋斗雲に乗り天界の果てだと思われる五本柱の真ん中の柱に文字を書き、小便までして帰ってきた逸話。戻った悟空に「君は手のひらから出てはいない。字を書いたのは私の中指、小便をひっかけたのは親指だ!」といった話に、まさにサムシンググレート、私たちでは想像すらできない世界の中で、ただ生きただ死ぬ私たち。人生を生き抜くことのみで良いんだと思わずにはいられなくなる。
そう、人間なんかにわかるわけがない。太陽系を含む銀河系、その銀河系も宇宙には多数存在するらしい。その多数を一つの単位としてもっと大きな宇宙が広がっている。その集まりがもっと大きな宇宙を構成し、宇宙は拡がる。その集まりの集まりを手のひらの中で見守る存在、そんな感じで存在するのが阿弥陀様なのだから。
宇宙を包括するその上の上から我々を眺め見守る存在、それが阿弥陀様。そう思えば、自分なんて取るに足らないちっぽけな存在、とりあえず死ぬまで生きよう、って自分を許せるような気がする。うん、気がする。
命は本当に大きなものに導かれてる
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