仏教が女性を不浄視するのは、「もしも女が臭くて汚いなら、性欲が起きなくてよいのに」という願望をみたすためである。仏教の教義には、こうした、実現の願望を願望の実現に摩り替えるトリックがたくさんある。
もう一つの理由は、ガウタマ本人の意思に反して、ガウタマが「仏様」という、来世での幸福を保証するファルス的存在へと祭り上げられ、仏教が父権宗教になってしまったことである。世界宗教は、キリスト教もイスラム教も、すべて男尊女卑の父権宗教であり、仏教だけが女性差別をしているわけではない。
現代宗教と女性(5) 変成男子の謎
おやさと研究所嘱託研究員 金子珠理
浄土真宗の御和讃に「弥陀の大悲ふかければ、仏智の不思議をあらわして、変成男子の願をたて、女人成仏ちかいたり」とある。阿弥陀仏の第35願がそれで、女性が極楽浄土に生まれる前に一度男性に生まれ変わらなければいけないというものである。
これを男女差別だというのは簡単だ。だが道徳的概念の希薄な時代、誰彼構わず発情してしまう人間の雄から女性をどう守るのか。仏教に内在する女性差別は、男性を立てつつ、女性を守るという側面もあったようだ。
欲情を抑えられない男性性とどう向き合うか。ゴリラやチンパンジー等、類人猿はメスが興奮して初めてオスは交尾へと導かれる。しかし人間は弱すぎる個体で生まれてくるため、コミュニティーで子どもを守る必要があった。それでも子どもの死亡率は相当高く、種の保存のために多産を維持しなければならなかった。そのため人間のオスは毎日のように発情し、精子を提供できるまでに進化、かたやメスも毎年のように出産できるよう進化した。いつも発情している男性性、それでいて社会性を求められるのが人間だ。この矛盾をどう捉えるか。社会が充実すれば、性欲は必然的に社会を乱す要因となるのだから。
その葛藤に宗教はどう向き合ってきたのだろう。とりあえず親鸞聖人は、この変成男子を女人成仏と受けとめるとともに、さらにすすんで「男女老少をえらばず」とまで言っている。阿弥陀如来の本願は、男性も女性もまったく差別なく、ひとしく救済されると浄土真宗にしてようやく男女平等が整う地盤ができたと言うのか。御文章にも「在家出家男子女人をえらばざるこころなり」とあるが、もちろん浄土真宗も女性差別への対応は十分とは言えない。だが変性男子について、当時と今との社会情勢を鑑みつつ、その頃に思いを馳せて論じなければ、本意は汲み取れないような気はする。
人間のオスは多産を維持するためにメスの発情を待たずに性行動ができる。
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