耳順庵日記

60歳を超えて、生き馬の目を抜く首都圏の生活にカムバックした。
浦安太郎が見た、都会の意外な側面を綴ってみたい。

畳の上で死にたい

2013年07月29日 14時15分57秒 | 都会の人たち
 ボケ防止の秘策は、キョウヨウとキョウイク、だというのを何かで
読んだことがある。

「教養」や「教育」ではない。今日用が有る、今日行く所が有る、
である。

 幸いにして、今のところ「用」にも「行くところ」にも事欠かない。



 若い時にはもう少し効率よく行事をさばいていたような気がするが、
何に付け作業効率が悪くなっているようだ。WORDやパワポの資料
作りにも、はるかに時間がかかるようになった。毎日やってるわけ
ではないので、ペースを掴むまでに時間がかかる。

 暇になったら見ようと、PCに撮り貯めているTVの録画も、見る暇が
無いので2TBのハードディスクが溢れそうになっている。

 どうしても時間が余る時には、歩いて5分の図書館に行って週刊誌を
読むのも有りだし、興味ある分野の本を予約しても良いが、既に読み
たい本がベッドサイドに山積みになっている。




 最近興味を持っているのは、近藤誠氏と中村仁一氏の本である。
医者に殺されない47の心得

今月は、電車に乗ろことが多かったので、読書が進んで、3冊も読む
ことができた。

  

 更に図書館に予約しているのは、次の4冊である。人気があるのか、
数十人の予約待ちがある。

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」 中村仁一
「どうせ死ぬなら「がん」がいい」  中村仁一/近藤誠
「がん治療で殺されない七つの秘訣」  近藤誠
「余命3カ月のウソ」  近藤誠



 これまで漠然と、「人は臨終が近くなると救急車で運ばれて、
病院で死ぬもの」という最近の風潮はおかしいな、と思っていた。
 これらの本を読むと、人間は年を取ると老化が進みあちこち
不具合が出始め、無理に延命策を取らなければ苦しまずに自然
に死ぬことができるものだ、という考え方が繰り返し出てくる。
 寿命が尽きようとしている老人に延命策を講じることは看取る
側のエゴであり、もうじき死ぬ人に苦痛を強いることになる、
と言う。

 医者は治療をすることが仕事であり、義務であり、生活の糧
であるから、具合が悪い患者が目の前に居れば、治療せざるを
得ない。だから患者が若くて治療の意義がある場合は別だが、
天寿を全うしてもう治療など必要としない老人は医者に診せない、
という選択肢は合理性があると思う。




 昔の年寄りは自分の家で、家族に看取られながら自然に死ぬ
のが普通だった。私の祖父も、私が大学生の頃自分の家で死んで、
親族皆んなが見届けた。

 昔は「畳の上で死にたい」と言うと、外で野垂れ死にをしたく
ない、という意味だったと思うが、今や病院ではなくて、自分の
家で死にたい、という意味になってしまったのではないだろうか。



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