中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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ポーランド訪問記(18)アウシュビッツに入る

2011年07月28日 19時57分24秒 | ポーランド;クラコフ訪問記

        ポーランド訪問記(18)アウシュビッツに入る
              (スケッチ旅行)
       2001年6月16日(土)~6月25日

2001年6月20日(水).第5日目.クラコフ3日目(2)

 私達は,中谷さん(今回から本名で表記します)の案内で,入口からアウシュビッツ構内に入る.「働けば自由になる」と書かれたアーチをくぐる.幅7~8メートルの道路が真っ直ぐに200メートルほど続いている.どの道路の左手には煉瓦作りの2階建ての建物が建てられている.入口から入って,すぐ右手には敷地に沿って,三重の柵が延びている.二つの柵の高さは約5メートル.柵の柱の先頭が内側に曲がっていて,シッカリしている.柵の間の距離は約5メートル.内側の柵は容易に飛び越せる高さである.柵の間には砂利が敷き詰められている.正面の通路から,この砂利の空間に入るところに,ドクロマークに×印のマーク「止まれ(HALT)」と書いた看板が建っている.中谷さんからの説明は衝撃的であった.この柵の間の砂利に一歩でも入ると,即,銃殺されたという.
 内側の柵から,10メートルほど離れたところに,平屋の建物が建っている.この建物は食堂として使われたようである.中は見学できないが,結構大きな建物である.また,収容された人たちの一番の仕事は,次々に収容される人たちを収容する建物を造ることだったという. 柵を挟んで,両側にたくさんの建物が建っている.どの建物も,昨日見学した交通博物館の建物に良く似ている.
 建物の中に入る.


 最初に見学したのは収容所の居住区である.広いガランとした部屋である.窓がない.床は板張りである.床には藁が敷いてある.まるで馬小屋の中を見ているような気がする.いきなり捕らえられて,この部屋に収容された人たちは,どんな思いだったのだろうか.
 ユダヤ人は家族単位で集められ,ここに収容され,ガス室でころされ,灰にされ,川や野原に捨てられた.当初はユダヤ人だけが収容対象だったが,やがて,反体制派の政治家,神父,大学教授など約15万人,それにゲルマン人と比較して劣るとされたジプシー,スラブ系の人たちも捕らえられた.これらの人達の数は全体の10%にも及んだといわれる.

 展示品を見る.
 ロートを逆さにしたような大きなガラス製の器が置いてある.その容器の中の灰色の粉のようなものが入っている.これは,ここで焼かれた人骨だという.
 何の記録も残さずに殺された人達もたくさんいる.全ヨーロッパからユダヤ人がここで抹殺されるために集められた.集めてから,ここに移送するまでに約1週間掛かった.その間,彼らはゲットーに留め置かれた.
 集められた人達,10人の内,約8人はすぐに殺害された.残りの2人は収容所内で働かされた.

 ※写真は,ドイツ軍将校が,使える人と,殺害する人を選別しているところ
 
 焼却炉に入れる前に,金歯や女性の髪の毛は切り取った.この髪の毛を使って織物を作っていた.
 展示場には,おびただしい髪の毛が残されている.髪の毛で作った布が展示されている. 収容された人達が履いていた靴が山のように残されている.小さな子供の靴もたくさん残っている.
 ガス室で使ったガスを入れた容器が山のように重ねられている.
 被害者の使っていたブラシ,靴,衣料品などがきちんと整理され,保管されている.
 新しい生活ができると騙され,集められた方々が持っていた旅行用鞄,鍋や「やかん」など.これらの品々を見ていると,心が痛む.

 見学したときのことを思い出すと,これ以上,書き進める気にはならなくなる.
                                     (つづく)

「ポーランド訪問記」の前回の記事
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