ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

ふうちゃんのお城ブログNO81 書籍「城郭ウオッチングのすすめ」12月12日上梓決定

2024-12-21 08:34:58 | 城郭検定

お久しぶりです。6月以来の投稿です。

このブロクをもとにして書籍を作りました。

12月12日に東京図書出版から発売されます。

伊東冨士雄著「城郭ウオッチングのすすめ」です。

日本百名城、続日本100名城をめぐっている方

日本城郭検定に挑戦している方

これから挑戦しようとしている方

にご一読頂ければうれしいです。

写真を多く掲載しているので

写真だけでも楽しめます。

お城巡りの楽しさと城郭検定をリンクさせることができます。

最寄りの書店に注文する。

または、

スマホやパソコンの検索ソフトで

「伊東冨士雄 城郭ウオッチング」と検索して下さい。

アマゾンなどの通販のリンクが表示されますので、そこから注文して下さい。

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80回ふうちゃんのお城ブログ 元気な桃と出会うたび

2024-06-15 18:06:59 | 城郭検定

令和6年4月15日、娘桃は44歳で旅立ちました。

5年前に娘桃とわたしで行った四国の城を辿る旅に妻と出ました。

徳島城の石垣です。

阿波青石と言われる緑色片岩で出来ています。

本丸まで続く一直線の急な階段を息を切らしながら登りました。

5年前、娘桃はこの急な階段を登ることができた。

と思うと感無量でした。

桃は、この3年間、体調不良で、

最後は要介護で、

、デーサービス、訪問看護、訪問医療等福祉関係の方々のお世話になって生活をしていました。

しかし、小脳に出血の小さな痕跡が発見される前までは、

元気に普通な暮らしをしていたことを実感できました。

桃は元気な人だったのです。

この広い本丸で椅子に座って息を整えながら、

元気な桃の姿を思い浮かべる妻とわたしでした。

 

高知城です。

大手門と天守が現存で残っている城は、高知城、丸亀城、弘前城だそうでとても珍しい。

現存の大手門と天守が同時にカメラに収まるのはもっと珍しいそうです。

珍しいことをもう一つ紹介します。

現存の12天守はすでに紹介。

現存の御殿は川越城、掛川城、二条城、そして高知城。

そして、現存の天守と現存の御殿が同じ空間にあるのは高知城だけです。

 

天守の上にいく急な梯子状の階段

天守の最上階まで行くにはこの階段を登らなければなりません。


宇和島城です。

この天守の特徴は、鉄砲や弓矢を撃つために開けた○まるや□しかくの狭間(さま)ないことです。

平和な時代の城です。

戦うためというよりは、見せることを意識しているのでしょう。

天守を真正面から見るためには、急な階段を20分歩かなければなりません。

5年前の娘桃は、元気にここを歩いたのです。

後ろ向きに立ち止まっているのは妻です。

そこから遅れて立ち止まりカメラを構えているわたしがいます。

 

大洲城と松山城です。

5年前に娘桃とわたしで廻った四国の城を

妻とわたしでその足跡を辿る旅も最終日になりました。

大洲城は現存の高欄櫓と台所櫓の間に平成16年に木造天守を復元しました。

松山城は12現存天守で姫路城とともに連結式の天守で、

戦いのための備えがプンプン感じられる城です。

両城ともに天守の上の階に行くには木造の梯子状の階段を登らなければなりません。

桃は元気にここにきたのです。

そのことを実感できました。

 今回の旅は桃の死から間もない頃、妻から言い出しました。

「桃が行った四国の城に行ってみたい。」

即、わたしは4月25日に飛行機とホテルの手配をしました。

 実は5年前の城廻は、当時、日本名城巡りしていたわたしが、

妻と行く予定だったのです。

出発前日になって、妻が発熱し、

急遽桃といくことになったのです。

 5年前のことが、今日のために仕組まれていたとしたら、

何とドラマッチクな話です。

発病後3年、特に、この1年だけが44年の生涯の中で、

特別な期間であったことを実感できた旅でした。

 

また、桃は親が知らない所で、

元気に年相応にイケメン(福士蒼汰、山崎賢人、松本潤等)にも興味をもち、

友達とだべること楽しんでいたことも、

お線香を上げに来てくれた高校時代の友人や

フラワーアレンジメントを一緒に学んでいた友達の話からわかりました。

 

お遍路さんではありませんが、同行親子、元気な桃に出会えた旅でした。

 

 

 

 

 


ふうちゃんのお城ブログ第79回 再々度小田原城総構へ

2024-05-16 15:04:13 | 城郭検定

 

5月5日に再々度小田原城の総構を

講師小田原城郭研究会の山本篤志さんの案内で

巡ることになりました。

小田原駅西口の早雲像ですが、

5月3日の小田原北條5代祭りに兜と陣羽織をつけるそうです。

この銅像小田原市民一人あたり500円の寄付でできたということです。

 

城下張出です。

東西に50m、南北に45mぼど北に張り出す構造をもち、

敵兵に対して横矢掛と呼ばれる側面攻撃が掛けられます。

「北條五大記」が殿主と呼ぶ櫓台とも考えら

小田原城総構の北端の最前線基地と考えられます。(小田原城総構散策Mapより)

 

総構を巡っていると小田原城の天守が見えました。

山ノ神堀切

総構の北側に位置する谷津丘陵が最も狭くなった場所、

南北方向に尾根を断ち切るように掘られた堀切。

幅約30m、高さは約50m、西側の尾根との標高差約5m。

 

稲荷森

かつて一面孟宗竹に覆われていたため、

最も良好に堀が残された場所になりました。

堀の深さは約10mを測ります。

城内に向かっての湾入地形に合わせて

総構の堀が作られている様子が観察できます。

 

小峯御鐘ノ台大堀切東堀

ここは以前にもきたことがあります。

しゃがんで視線を下げて向こうを見ます。

段差があるように見えます。

今回の発見です。

総構の堀は山中城にあるような障子堀になっていたということです。

これがこのツアーでの最大の発見です。

今まで見てきた城下張出や山ノ神、稲荷森の堀も

障子堀ではないかということです。

この写真は東堀の出口付近にある

小田原の蒲鉾会社の社長のお宅だそうですが、

石垣の土台の上に住宅が建っています。

この高さと堀の深さを比べるのに山本講師は

ここに着目したということです。

 

稲荷森の美しさ。

堀が障子堀になっていたということ。

これが今回のツアーでの新たな発見でした。

秀吉はこの総構をみて、京都に御土居を作ったといいます。

小田原攻めに参加した各地の大名もそれぞれの土地に総構を築いたようです。


第78回ふうちゃんのお城ブログー浜松城を訪ねてー

2024-04-01 22:36:38 | 城郭検定

2019年12月25日。

ふうちゃんは今まで見たことのない美しいお城を見ました。

それは、浜松城の天守です。

三方原に向かう路線バスの中からです。

写真はありません。

ふうちゃんの心の中に刻まれたママなのです。

白内障の手術直後に初めて見たお城だったのです。

 

今回、久しぶりに浜松城に行きました。

可愛らしい天守をしっかりカメラに収めました。

 

お城に行く前にはままつフラワーパークで行われている浜名湖花博2024に行きました。

そこで、感動したのがこれです。

遠くから見ると出世大名家康君が見えます。

このような三角形の土地に花を植えていくのです。

近くから見ると

こんな感じにか見えません。

遠くから角度を付けてみると

初めのように家康君に見えます。

花をどのように植えるのかデザイン(設計)しているのです。

 

今の浜松城に行く前、曳馬(引馬)に行きました。

ひくまじょうと読みます。

場所は浜松城の天守から見える本丸の向こうの一番上の丸くなった森です。

磯田道史先生の解説です。

今は東照宮になっています。

家康は引馬は馬を引く負けを連想することから、浜松と改名しました。

 

もう一つ行ったところがあります。

椿姫観音堂です。

大河ドラマの田鶴役 関水渚さんの色紙

磯田先生の解説の冒頭

「飯尾豊前の守の城であったここ引馬城を開かせ」とあります。

豊前の守が暗殺された後、この城を最後まで奥方のお田鶴の方が守りました。

家康を相手に孤軍奮闘戦ったのです。

昨年の大河ドラマでもお田鶴の方の奮闘の様子が放送されていました。

「落城寸前のさなか、

緋縅(ひおどし)の鎧の白柄のなぎなた、

丈なす黒髪に純白の鉢巻きのお田鶴の方、

それを取り巻く鉢巻きにたすき掛け、

なぎなたを手にした18人の侍女が

主君のお田鶴の方を守り壮絶に戦いましたが

命を落としてしまいます。

家康公は、この地にお田鶴の方と侍女18人の亡骸を手厚く葬り、

塚を築き、洞を建てました。

母同士が義理の姉妹にあたる

家康公の正室「築山御前」も

塚の周りに百本あまりの椿を植え、

供養を営みました。

椿は毎年、美しい花を咲かせたことから、

いつかしら椿塚と呼ばれ、

それが椿姫の由来になったと言い伝えられています。」(現地にあったパンフレットより)

「敵ながら天晴れ」家康は認めたのでしょう。

 

そして、浜松城に向かいました。

城郭検定に取り組む中で、

浜松城は、天守台が天守曲輪の中にある珍しい城であることを知りましたが、

それを実感したいというのが

3回目になる今回の浜松城訪問の目的です。

天守曲輪の石垣と天守門(櫓門になっている)

石垣は野面で折れが入っているのがわかります。

天守の上から天守門をみます。

櫓が石垣に載っているのがよく分かります。

 

この角度から見ると浜松城の構造がよく分かります。

手前から本丸の石垣、ネットの向こうの石垣から天守櫓、櫓門になっている天守門、

そして天守がそびえています。

 

堀尾氏時代に創建された天守は17世紀姿を消し

江戸時代には天守がなかったそうです。

しかし、城主が6人老中、2人が大坂城代に登用され出世城と言われています。

この天守は昭和33年の復元です。

このようなことを実際に目で確かめ、訪問の目的を果たすことができました。

 

浜松と言えば。浜松餃子です。

浜松駅ビル1階にある石松という店で10個食べました。

久しぶりの新幹線を利用した城郭ウオッチングでした。

 

追伸

おまけの一枚新幹線からの富士山です。

 


ふうちゃんのお城ブログ更新・本作成についてのお知らせ

2024-02-20 11:47:19 | 城郭検定

江戸城天守台です。

明暦の大火の大火後、天守の再建をめざして

加賀前田藩が請負い、天守台を作りました。

しかし、保科正之の市民生活再建優先の建言を受けて

天守は今日まで再建されていません。

わたしは保科正之の市民生活優先の精神を受けて

今、一部にある江戸城天守再建の動きには賛成できません。

 

子供たちと小田原城を訪問して以来(https://blog.goo.ne.jp/fuhchan2399/e/ab32e6f25ffcf75b2f221ba4832c1bad)

しばらく更新していません。

先日、久しぶりに川越城に行きました。

川越御殿です。現存する4つの御殿の内の一つです。

次の計画を立てるための準備のためです。

乞うご期待です。

また、

現在、今までのブロクをまとめて、本を作ろうとしています。

城郭ウオッチングを通して学んだ事

城郭検定を通して知識を得たことなどを

中心にまとめようとしています。