ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第77回 ふうちゃんのお城ブログ 小学生とその保護者を小田原城へ

2023-12-19 21:12:37 | 城郭検定

わたしが小学校の教員をしていた時の教え子が学習塾(幼児教室)を経営しています。

4月に学習塾のアトラクションとして、

お城の話を

小学校の低・中学年にして欲しい

との依頼を受けました。

今年の4月に

現存12天守の話をパワーポイントを使ってしました。

参加者から、実際にお城に見学に行きたいという要望がありました。

小学生の低・中学年が初めてお城を見に行く。

やはり、初心者には、

天守(天守閣)があるお城らしいお城がいい。

東京近郊で天守のあるお城。

どこにあると思いますか。

ありました。

ありました。

小田原城です。

 

ということで、

12月17日(日)小田原城に行きまたした。

 

これはその報告です。

 

参加者は1年生から4年生までの小学生11名と保護者12名、

そして、教え子とわたしです。

小田原駅に現地集合。

小学校の低・中学年が対象ですから、

具体的な物や映像で迫ることが大切です。

お城に行くには小田原駅の東口を出るですが

今回は西口を出ます。

北条早雲(宗瑞)公の銅像があるからです。

小田原北条氏の初代です。

どうしても記憶に留めておきたいたい人です。

遠目から見たのですが、

もう少し像に近づいて

早雲公の近くにどんな動物がいるか。

角に何が付いているか見るように指示します。

牛の角に松明が付いています。

いわゆる「火牛の計」(かぎゅうのけい)を表しています。

早雲公は小田原城を攻めるとき

夜陰に紛れて千頭の牛の角に松明をつけて迫ったと言われています。

同様のことが木曽義仲が倶利伽羅峠で用いたと言われていることから

どちらも、後世の創作ではないかという説が強いそうです。

早雲公の場合、単なる創作ではなく、

押し寄せる津波の影響を牛に仮託したものであるという考え方もあるそうです。

津波被災による混乱に乗じて早雲公が小田原に進出したという解釈だそうですが、

まだ、慎重な検討が必要とのことです。

参照 佐々木健策「戦国期小田原の正体」(吉川弘文館)

 

小田原駅東口に戻りこの天守の遠景に出会わせます。

今日目指すのは天守(天守閣)です。

天守に向い歩きはじめます。

案内図で経路を示します。

この経路赤点に従って進むことを知らせます。

お城の見方の初歩的な話をします。

お城は攻める方と守る方がいること。

今日は攻める方なので、

守る方の工夫(仕掛け)を仕掛けをみつけましょう。

 

では、先に進みます。

お城らしい風景が展開されてきます。

隅櫓(矢倉とも書きます)物置、武器庫です。

お濠(敵をお城に近づけさせないため。鉄砲や弓が届かないように。)

馬出門土橋(めがね橋)、土塀、馬出門

馬出門(高麗門)

外から行くと門が狭くなっています。

なかなか中に入れないで立ち往生します。

塀に空いている△や□の穴を狭間(さま)と言って

鉄砲や弓を撃つための穴です。矢や銃口でねらうことがでます。

立ち往生していると

狭間から銃口や弓矢が仕掛けられて狙い撃ちされます。

中には入ることが出来ても

四方が壁(狭間のある石垣、塀、門)で囲まれた空間(桝形)になっていて

狭間から狙い撃ちされ命の危険にさらされます。

狭い高麗門を潜っても

まっすぐ進むことはできません。

ここの場合だと直角に左折させられます。

そこを横から狙われます。

もう一つの高麗門(内冠木門)を

やっと抜けて

馬屋曲輪に入りました。

将軍家の馬を繋いでいたそうです。(今の駐車場かな)

そこから、次に進む住吉橋と銅門(内仕切門と渡櫓門)をお濠越しに見渡します。

門の中が四角い桝形になっていることがよく分かります。

土塀にはお濠越しに鉄砲で狙う狭間がついているのです。

 

住吉橋と内仕切門

内仕切門は石垣をくりぬいて作った埋門(うずみもん)形式という大変珍しい門です。

中に入り左に曲がると渡櫓門が見えてきます。

大扉などの飾り金具に銅が用いられたことから銅門(あかがねもん)とよばれています。

桝形の中を通って階段が渡櫓門まで続いています。

よく見てください。お城の中の階段は幅が一律ではありません。

歩きにくくし、前進を妨害するためです。

子供たちが門の入口手前の屋根に付いている石落に気付きました。

石落は屋根がくりぬいてあり、上から下に向かって石、熱湯、肥などを落としたり

鉄砲を撃ったりします。

当日、渡り櫓門の二階を特別公開しており、

石落を上から見ることができました。

渡櫓門を抜け、二の丸にでました。

広い空間です。

二の丸御殿があり、政治をしたり、藩主の生活の場として利用されていました。

藩主(お殿様)は天守で生活しているのではなく

御殿で生活しています。

天守で生活していたのは織田信長だけです。

 

常磐木門をくぐると本丸です。

いよいよ本丸です。

天守も真正面に顔をだしました。

これが天守の真正面です。

真正面から天守に入ることは出来ません。

左に見える附櫓の真正面に回り込んで入らなければならないです。

これも攻め込まれないための工夫です。

ここまでは、その都度、説明をしながらきました。

天守では大勢の方が一緒になります。

天守課題を設けて

親子でクイズに取り組んでもらうことにしました。

 

天守課題

1 情報を得るために城内のビデオを見る。

2 北条氏は何代つづいたか確認する。

3 江戸時代の城主は主に何氏と何氏か。

4 虎の印判が押してある書類を確認する。

5 展望台で石垣山を確認する。

6 城内のクイズコーナーに挑戦する。 

 

次のクイズに、親子で相談して考えてください。(実際に配布したプリントにはルビがついています。)

第1問 小田原駅西口に立つ銅像の戦国武将はだれでしょう。

1徳川家康 2織田信長 3豊臣秀吉 4北条早雲

第2問 小田原駅東口を出た所から見える小田原城天守はいつ建てられたものでしょう。

1江戸時代 2明治時代 3昭和時代 4平成時代

第3問 馬出門を入ったらある空間をなんと言いますか。

1虎口 2桝形 3大手 4搦手

第4問 馬出門と内冠木門の形をなんと言いますか。

1冠木門 2櫓門 3薬医門 4高麗門

第5問 住吉橋を渡った所にある内仕切り門のように石垣を割って設けた門を何といいますか。

1埋門 2薬医門 3櫓門 4大手門

第6問 渡櫓門は銅門と言われています。なぜでしょう?

 1大扉などの飾り金具に銅が用いられているから。

 2屋根に銅が用いられているから。

 3窓に銅が用いられているから

 4階段に銅がモ散られているから

第7問 天守は何重何階でしょう。

 1五重四階 2四重四階 3三重四階 4二重二階

  平成の改修で三重五階になったので上記の中に正解はありません。

第8問 小田原城天守は、次のどれとかかわりが深いですか?

 1徳川15代   2足利15代 3北条5代 4豊臣2代

第9問 藩主が民にお触れを出すとき使った動物の頭の印は何でしょう。

 1いぬ 2ねこ 3うし 4とら

第10問 小田原藩が目指した年貢(税金)は何でしょう。

 1五公五民 2六公四民  3七公三民 4四公六民

第11問 豊臣秀吉が小田原城を攻めたときに作ったお城はなんでしょう。

 1石垣山城 2江戸城 3川越城 4小机城

第12問 小田原城天守にお祭りされている神様は?

 1大黒天 2天神 3摩利支天 4弁財天

(宿題)小田原城の見学で学んだことから、お城検定の問題を作ってみましょう。

 

当日、実際に答え合わせをする時間がなくなりました。

このブログで確認していください。

正解は太字です。

 

 

最後に一緒に行く予定だったのは

関東大震災の崩れた石垣の跡です。

お城は地震の被害にいつの時代も遭遇してきました。

この石垣も地震の遺構として敢えて残してあるのです。

また、天守の展示の一番始めにあったのは

この石(石碑)です。

解説にはこう書いてあります。

小田原城再興碑

元禄16年(1703)11月22日夜の大地震により

小田原城は天守をはじめ、ほとんどの建造物が倒壊・消失する

壊滅的被害を受けました。この再興碑は、藩主大久保忠増による

復興の経緯を伝える貴重な資料で、大正12年(1923)の

関東大震災の際、崩落した天守台の石垣の中から発見されたものです。

 

実に貴重な資料です。

地震への復興はお城にとっても永遠の課題と言えるでしょう。

そのことを伝える関東大震災の石垣を子供たちにも

直に感じて欲しかったのです。

またの機会に訪れて頂ければと思います。

 


第76回ふうちゃんのお城ブログ またまた江戸城!ちょっとオタクな江戸城巡り。

2023-10-23 20:13:13 | 城郭検定

大田区退職校長会歴史散歩部会より

「10月20日(金)に

江戸城めぐりを半日で実施したいから

計画作成と当日の案内をして欲しい」

という依頼がありました。

ところが、金曜日は江戸城東御苑は休日なのです。

大手門、平川門、本丸跡、天守台、百人番所、中之門、富士見櫓など

定番の見学場所に

行けないことを意味します。

わたしが行きたいと思って、まだ行っていないところ

それは、

道三濠跡です。

豊臣秀吉の命令で

徳川家康が天正18(1590)年江戸にやってきて、

初めて手掛けたのが道三壕の開削です。

物資を輸送するための水路を作ったのです。

和田蔵門の中には倉庫があったのです。

 

以下インターネットに載っている説明と地図です。

道三堀   天正18年(1590)に徳川家康の命により、

江戸城へ江戸城建設の物資・生活用品を運ぶ船入堀として、

江戸城の和田蔵門橋から平川(日本橋川)の河口の呉服橋門まで開削され、

江戸湊へ続く運河。

平川まで約1km余の長さで、

人工水路として江戸で初めて造られた堀である。

南岸に幕府の侍医、曲直瀬(2代目道三)の屋敷があったことから、

道三堀と呼ばれた。江戸城への輸送路として加養されたが、

明治43年(1909)に埋め立てられた。

道三堀 - Wikipedia

道三堀跡-丸の内から大手町のオフィス街に眠る運河-ひとりで東京歴史めぐり (taichi-tokyo.com)

上記の地図を参照して千代田区の区分図に道三掘を記入してみました。

前置きはこれくらいにして、東京駅丸の内中央口に集合して出発しましょう。

和田蔵濠にかかる和田門橋を渡ると

和田蔵門の石垣、桝形があります。

門の中には一の蔵があったようです。

この和田蔵掘りに道三濠の入口がありました。

そして、現在三井住友銀行東館のあるところに辰ノ口という荷揚げをする岸がありました。

今は下の写真のようなところです。

辰口跡というような案内板が欲しいです。

 

永代通りに沿って進みます。

周囲は高層ビルが立ち並んでいます。

そのビルとビルの間に

全く違った空間がありました。

みずほ銀行のOOTEMORI(大手町の森)です。

当時、道三濠が通っていたであろうあたりにです。

こんな雰囲気です。

なぜ、この森が作られたか以下の説明がありました。

「東京の中心に、もう一度、人が心地よく息づける環境を

そんな願いから生まれた「大手町の森」

めざしたのは、より自然の姿に近く,

この地に相応しい植物が織り成す

大手町本来の植生を調べ選ばれた木々草花を

別の地で3年間に及ぶ検証を経て育み、

大手町に移しました。

人工的に整備された広場や公園ではなく

自然の営みを再現したこの森

都志の生命を潤し、都市の未来を描きます。

千葉県の君津グリーンセンターで

大手の森の一部をあらかじめ実現。

3年かけて樹木を生育、土壌の適正などを検証、

改良を重ねた後

大手町に移植しました。」

 

このような目的で実現した大手町の森ではありますが、

家康が1590年に開削した道灌濠の跡を求め歩いているわたしにとって、

家康が目にしていた自然や環境を

想像するのに足る

資料を提供してくれているように

思えてくるのです。

今回のコースを歩いていて最も感動したのがこの森との出会いでした。

追伸10月24日

もし、わたしが大手町の森を企画するときにいたら、

ここが道三壕の跡地であること意識して

「家康から現在そして未来の森へ」としたと思いますが

いかがでしょう。

企画段階で家康が意識に入ってなかったのではおもわれます。

独断と偏見ですが、お許しください。

 

いよいよ今回のメインである道灌壕にかかる二つの橋の跡を訪ねます。

道灌橋跡です。

野村ビルと新大手町ビルの間のみちにあります。

ここに橋がかかっていたのでしょう。

 

次が銭瓶橋跡です。

本来の場所はビル工事のため訪れることはできません。

常盤橋公園のある道路の反対側の信号近くにあります。

道灌濠と外濠が一緒になった所、中央に銭瓶橋、奧に道三橋が見えます。

当時の風景が想像できます。

ここから、箱根駅伝のゴールである読売新聞本社まで、大手門方向に向かって歩きます。

 

読売新聞本社絆像

将門塚があります。

神田明神のご祭神になっている平将門の御首(るしるし)をお祭りしているところです。

神田明神のご祭神の一つになっている平将門。

関東でむかしから朝敵であるにもあるにもかかわらず人びとから信仰されてきました。

家康は神田明神に会津征伐において上杉景勝との合戦に臨んだときや関ヶ原の合戦に臨んだとき

戦勝祈願を命じた。家康は江戸の人が信仰している神様を受け入れ、

江戸の人びとの心を掴むように務めていたように感じる。

神田明神の神輿や山車などの祭礼行列が江戸城内を練り歩いていたそうです。

津田仙(津田塾大学創始者津田梅子の父親)が

明治8年になって初めて東京市内に街路樹を植えたという案内板。

ニセアカシア(ハリエンジュ)を植えたが、

今はこの街路樹は「エンジュ」。

内堀通りを挟んで大手門の反対側にあります。

大手門の櫓門の屋根が見えています。

大手門の高麗門と櫓門が道路の反対側に見えています。

これから東京駅丸の内中央口に戻って解散しました。

一寸マニアックな江戸城巡りでしたが参加者は

それなりに得るものがあったということでした。

所要時間2時間40分。


第75回 ふうちゃんのお城ブログ またまた江戸城へ

2023-09-19 21:47:33 | 城郭検定

9月9日(重陽の節句)は、わたしの75歳の誕生日でした。

後期高齢者になりました。

これからも、城郭ウオッチング(城廻り)を友に、

過ごしていきたいと思います。

丁度タイミングがよいことに

伊東潤読書会で江戸城に行くオフ会がありました。

一列 左からサイガさん 伊東潤(黒シャツ)先生

三列目 2人目伊東冨士雄(白髪、リユック)

午前中は地域運営学校の会議(現在の公の仕事)があったので

午後からの参加となりました。

講師のサイガさんの案内で新しいことを学びました。

この土塁、どこにあると思いますか。

わたしはこれを見たとき、

先日訪れた前橋城の土塁を思い出しました。

清水門から清水濠の向こうに高石垣が見えますが、

石垣の向こう側にこの土塁があるのです。

土塁を挟んであるのが

機動隊の宿舎(代官町住宅)です。

この住宅を挟んで皇宮警察と第一機動隊があります。

江戸時代は旗本、戦前は近衛師団、今は機動隊。

その時代に応じた土地利用がなされているのです。

今まで何回も清水濠の向こうから石垣を眺めたことはありましたが、

その内側を歩くのは初めてでした。

江戸城は奧が深いです。

 

大手門の桝形の空間においてある鯱矛です。

大手門(櫓門)の屋根に実際に載っていたものです

魚のうろこは頭から尾に向かって入っているのですが

お城の鯱のうろこは尾から頭に向かって入っている。

雨が鯱の中に入り込み、鯱が壊れやすくならないようにするためだそうです。

 

今は首都高速道路の下になっている

雉子橋(竹橋JCTの近く)あたりは

北から多くの兵が江戸城に向かって攻めてくることに備えて

道が狭くなっていたそうです。

一度に通さず足止めをするためです。

北の守りを固める工夫がありました。

 

江戸城のお濠は半蔵門辺りが標高が高く、その高さを利用して

水を低いところに流しています。

土橋や堤防を設けて、一度に水が流れないように

少しずつ流れるように

水量の調整をしながら流しています。

弘前城ではそのしくみを水戸違いと

いっていました。

しかし、江戸城では

その場所に行っても流れている水を見ることがなかなかできません。

今回は桔梗門と田安門で見ることが出来ました。

数日前にかなりの雨量があったからだと思います。

 

蛤壕と土橋、桔梗門、桔梗濠に流れる水

 

千鳥ヶ淵から田安門、土橋を経て牛ヶ淵へ

このように水が壕から壕へ流れている所を見るのは初めてでした。

 

田安門正面櫓門、桝形の空間、右に高麗門、その奧に靖国神社の大鳥居がかすかに見えます。

この田安門は、江戸城の現存する建物の中で一番古い建物です。

 

江戸城巡りの一番の最終点は靖国神社の大村益次郎像でした。

大村益次郎は司馬遼太郎の「花神」の主人公村田蔵六です。

医師であり

蘭学を学び

兵法を極めました。

今日行った富士見櫓の上から

上野の山の戦況を見て指揮していたとも言われています。

今日の講師のサイガさんから、

石見(益田)の戦いでは、戦況を緻密に予測し

それに対する兵を配置し

見事に的中させ

勝利を治めたという話が

この像の前でありました。

学びの多い江戸城でした。

同じ城に行っても必ず発見や新しい学びがあるのです。

だから、次回が楽しみなのです。

参考資料

 

 

 

 


第74回ふうちゃんのお城ブログ 宇都宮城

2023-08-13 15:24:44 | 城郭検定

宇都宮は餃子で有名です。

新幹線を降りて、お城側の駅前の店に入りました。

餃子ライスで腹ごしらえをしました。

焼き餃子の焼き具合は見事でした。

食後タクシーで

宇都宮城址公園に向かいました。

歴史の舞台として宇都宮城が登場することがあるのです。

関東7名城の一つにもなっています。

宇都宮城址公園の入口、おほり橋で下車します。

宇都宮城址公園の掲示板の説明には、このように書いてあります。

「ここは、近世宇都宮城の本丸のあったところです。

宇都宮城址公園は、歴史資料や発掘調査結果に基づいて本丸の一部を復元、

中心地市街の拠点づくり、防災の拠点づくりを3つの柱として整備したもので、

 復元した土塁、堀、櫓、土塀は江戸時代中期の姿を現代によみがえらせたものです。

 宇都宮城のはじまりは、平安時代の後期に築かれた館だと言われています。

中世には宇都宮氏が500年にわたって城主をつとめ、戦乱の世を乗り切っています。

江戸時代には譜代大名の居城として威容を誇りました。

 また、釣り天井伝説の舞台、関東七名城の一つして有名です。

 この城址公園は、宇都宮の新しいシンボルであり、次代を担う子どもたちに

宇都宮の歴史を伝えるとともに、市民や多くの来訪者の憩いの場です。宇都宮市」

赤印現在地は、おほり橋です。

上記の説明にあるように、

復元のお堀があり、土塁、白色漆喰の土塀が連なっています。

埋み門もあります。江戸時代にこんなお城があったのでしょう。

 

 宇都宮城を訪れる前、次のような城郭検定2級の過去問に目を通しています。

『写真の復元土塁と復元櫓は「釣り天井」の伝説』で知られる城のものである。

この城はどれか。」(この写真は問題とは別の写真です)

 

解説にも問題にも出てくる「釣り天井」については、

歴史資料が展示してある清明館に次のような解説がありました。

本多正純が宇都宮城主だった1622年、

2代将軍秀忠が日光社参を行いました。

秀忠は宇都宮城に宿泊する予定でしたが、

日光からの帰り道、

急に予定を変えて宇都宮城を避け、江戸に帰ってしまいます。

(*正純が釣り天井を仕掛け秀忠の暗殺を謀ったという噂が秀忠の耳に入ったからです。

実際に調べてみると釣り天井はありませんでした。)

その後、山形藩最上氏の改易にあたり、正純が幕府の命令で山形城受取に出向いた留守中、

突然宇都宮城を取り上げられてしまいます。

はっきりした理由はわかっていませんが、

家康死後の幕府内における権力闘争より、

旧権力の追い落としがはかられたのではないかと考えられています。

このとき、幕府は出羽由利郡5万石を与えようとしましたが、

正純はこれを固持したため幕府の怒りをかい、

出羽国横手に幽閉されたのちに73歳の生涯を閉じました。

*伊東が解説を加える。

 

 本多正純は家康の四人の重臣本多正信(どうする家康では松山ケンイチ演)の息子です。

 かなりの権力を持っていたため、反感を買うこともあったと思われます。

 小田原城の大久保氏などはその例ではないでしょうか。

 家康、正信の死後、

 父の傘をきて権力をもっていた正純には、反感を買い 

 権力闘争に巻き込まれ敗れたたのでしょう。

 

 宇都宮城が城郭検定取り上げられることはもう一つあります。

戊辰戦争で大鳥圭介と土方歳三らの旧幕府軍が新政府軍に勝利を治めたことです。

しかし、4日後に新政府軍に負けてしまいますが。

 連戦連敗、旧幕府軍の宇都宮城での勝利は、

 例え4日であっても

 価値あることとして

 とりあげられているのでしょう。

 宇都宮城の写真(櫓、土塁、土塀)を初めて見たとき立派なお城だと思い

行ってみたくなりました。土塁の中の本丸の空間が広々としていて見事でした。

 帰りに宇都宮の駅まで歩きましたが、

二荒山神社を中心に発展した町であることがよくわかりました。

 餃子だけでない宇都宮のよさを知りました。

 今回デジカメのファイルの不備であまり写真を掲載できませんでした。

 


第73回ふうちゃんのお城ブログ 高崎城と前橋(厩橋まやばし)城

2023-07-15 19:23:23 | 城郭検定

朝ドラでは植物学者牧野富太郎をモデルとした槙野万太郎の生涯を取り上げています。

玉川大学の研究室でご一緒したH先生が植物観察する様子を思い浮かべると、

植物音痴のわたしにも、

万太郎の植物観察の様子が

実感を伴って伝わってくるように思われるから不思議です。

 

さて、ここからがお城の話です。

城郭検定で「土居(土塁)上の樹木を一本ずつ調査し、その高さと樹種を描いた絵図が残っている城はどこか」

という出題がありました。

答えは高崎城です。

この城郭検定の問題を通して、この絵図のことを知りました。

城びと(日本城郭協会のhp)で調べてみました。

【理文先生のお城がっこう】城歩き編 第34回 城内の樹木の役割1 (shirobito.jp)

加藤理文さんが次のようなことを書いていました。

 

高崎城(群馬県高崎市)では、文化14年(1817)に作成された

「御城御土居通御植物木尺附絵図(おしろおどいどおりおうえものしゃくつきえず)」が現存し

この絵図を見ると、全ての曲輪の縁辺部に樹木が植えられていたことが判明します。

しかも、全ての樹木の木の種類を特定し記録に残しているため、

厳重な管理下に置かれていたことがわかるのです。

樹木は、その大きさも表現されており、大木がほとんど存在しないことも解り、

さらに曲輪内には小木一本すら植えられていなかった様子も見て取れます。

このように城内の樹木は徹底的に管理されていたのです。

当然、樹木だけを管理する仕事があり、

それを任せられた家臣が存在したのです。

 

土造りの城であったため、当初は内部を隠す目的で植えられたと考えられます。

巨木になれば管理も大変になるので、そうならないよう万全の管理体制が敷かれたと

推定されます。

 

朝ドラの槙野万太郎、玉川大学のH先生、城郭検定の絵図が折り混ざり

わたしを高崎城に導いたのです。

高崎駅からタクシーで高崎城水堀の辰巳橋へ

看板に従い現存の乾櫓まで、

「御城御土居通御植物木尺附絵図」や

植物の管理をしていた高崎城の家臣に

思いをはせながら、今の高崎城の土居を歩いてみました。

ただの土塁とそこに植えてある樹木が趣のあるものに見えてきます。

軽井沢の家に多くの樹木があるのですが、

管理に意外と手間と費用がかかります。

木々の1本1本にまで目を光らせて

律儀に天職として木々の管理をしたであろう家臣の心を思い描きながら

この土居を歩くのです。

そして、乾櫓に到着です。

その隣には東門がありました。

帰りは、

同じ土塁の植えを通り、辰巳橋の先までお濠の様子を観察しました。

タクシーに乗るほどの距離でないことを確かめながら高崎へ向かいました。

 

次は前橋城、かつては厩橋(まやばし)と呼ばれました。

群馬県の県庁所在地前橋市にあります。

戦国時代、この城をめぐって多くの戦国武将が行き交いました。

上杉謙信、北条(きたじょう)高広、滝川一益、浅野長政、徳川家康など武将の名が浮かんできます。

関東7名城の一つに数えられています。

遺構として

土塁(群馬県庁北側、前橋公園内等)

石垣「前橋城車橋門跡」(大手町2丁目)

あげれられています。

ここでもタクシーを使いました。

しかし、運転手さんが連れて行ってくれたのは県庁北側の土塁です。

車場橋門跡のことを言っても全く不案内。

ほとんど、ちんぷんかんぷんです。

これは、独自に探すしかないと諦めました。

では、まず、運転手さんが連れて行ってくれた土塁です。

これが碑です。

その解説です。

この碑が土塁の上にのっています。

見事な土塁が続きます。

この日は土塁の草刈りをやっていたので

土手の様子がよく見えました。

 

土塁はよくわかりましたが、

石垣の遺構大手町2丁目の車橋門跡の石垣の遺構です。

大手町2丁目前橋市役所近くの交差点で

「車橋門跡」を昼食に出掛けた市役所の職員と思われる人に

何人か聞いてみました。

これが、誰も知らないのです。

文化財なんてものはこんなもでしょうか。

タクシーの運転手が知らないのは無理もないことかもしれません。

しかし、あったのです。

市の施設です。

どこだと思いますか。

観光案内所ではありません。

前橋市立図書館です。

まず、受付へ。

おそらく司書と思われる方が対応。

2階の調査課へ行ってください。

2階の調査課では

交番にあるような地域の大きな地図もってきて

位置を示してくれる。

「日本経済新聞と美容院の細い道の奥にあります。」

そして、窓際に案内し外を見ながら

「あのビルの向こうです。」

「ここ図書館をでたら

背中を左にして

あの道路へでてください。」

案内は完璧でした。

日本経済新聞と美容院の間に石垣があったのです。

この石垣が現れました。

 

 

探していた遺跡に廻り会えた喜びは何物にも代えがたいものがあります。

地域の図書館の情報センターとして機能を見直すことができます。

城むぐりにはもっと地域の図書館を活用すべきだともいます。

大田区立洗足池図書館には勝海舟コーナーがあります。