松前城には2回行ったことがあります。
1回は函館空港からレンタカーで
もう1回は木古内から路線バスで。
今回は、函館からレンタカーを運転していきました。
今回も木古内からの路線バスを考えたのですが、
ロスタイムが多いのと
戊辰戦争の舞台を思い描きたいということで
急遽レンタカーにしました。
戊辰戦争の舞台となったコースを通って運転したくなりました。
それそれの場所でいちいち下車したわけではありませんが、
箱館、七重浜、有川、富川、矢不来、茂辺地、当別、泉沢、木古内、知内、福島、松前と
戦地と言われるところやその近くを通っていきました。
木古内、知内、福島ではタイムを取りました。
余談になりますが、前回、戊辰戦争を意識しなかったときは、
新幹線停車駅(当時まだ駅の工事中)としての木古内
観光地として北島三郎出身地としての知内
横綱千代の山、千代の富士の出身地、
新幹線の北海道の入口としての福島
を意識して下車していました。
しかし、この全てが戊辰戦争の有名な戦場だったのです。
歴史的な知識が加わると旅、運転しながら考えることも違ってきます。
そして、松前城に着きました。
駐車場からの天守です。
この天守は昭和36年に
2千2百万円の町民等の寄付、
五百万円道費助成、
百万円函館市期成会
に町費を加え、
総工費七千六百三二万円鉄筋コンクリートで復元したものです。
この天守を見ると
前にも本ブログに書いたことがありますが、
前天守のことを思うと残念でたまりません。
前天守は
戦争を乗り越え、乗り越えしてきました。
戊辰戦争のとき天守の石垣に打ち込まれた砲弾の跡
第4回ふうちゃんのお城ブログ 戦火をいくつもくぐり抜けてきたのに(松前城天守) - ふうちゃんのお城ブログ (goo.ne.jp)
昭和16年にも国宝に指定されていました。
太平洋戦争終了後の昭和24年6月に
隣の役場の火事に巻き込まれ焼失してしまったのです。
戦後のこの時期に町民らから2千2百万円という寄付が集まったということは
松前城に寄せる町民の思いの深さを感じます。
シンプルでいいお城です。
本丸御門(現存)と天守(復元)です。
これは、現存する本丸表御殿の玄関です。
「明治8年、北海道開拓使の命令により福山城(松前城)は、取り壊されたが、
天守と本丸御門、表御殿は残った。
表御殿は松城小学校として、充用され、
明治33年新校舎が完成した後も
この玄関だけは小学校正面玄関として、
昭和57年まで利用されてきた。」(掲示板の説明より)
今回の松前城訪問で分かったことです。
土方歳三たちは、初め海側から松前城を攻撃しました。
だから、天守台に砲弾の跡が残っているのです。
しかし、海側に向けた7基の砲台はじめ厳しい守りのため
攻撃は難航しました。
五番台場跡
しかし、土方は陸側の守りが弱いことを見つけ、陸側から攻め攻略に成功しました。
これらの攻撃の中で天守、本丸表御門、表御門はよく残ったものです。
今回は戊辰戦争を頭に描きながらの松前城への旅でした。
だから、国宝に値したのでしょう。
(2021.11.26訪問)