ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第64回ふうちゃんのお城ブログ 小学生と江戸城訪問

2023-01-13 10:24:12 | 日本百名城

あけましておめでとうございます。

今年、初の投稿です。

江戸城から始めます。(昨年終わりも江戸城でしたが)

 

江戸城大手門近く

内堀・桔梗掘りからのオススメのアングルです。

左から富士見櫓、桔梗門、巽櫓です。

みな、現存の建物です。

さて、先日、こんな手紙を小学校5年生からもらいました。

「先生のおかげで江戸城の知らなかった知ることができて、とてもうれしかったです。

特におどろいたのは江戸城の天守です。

第二次世界大戦で焼けてしまったのではなく、

明暦の大火でやけおちてしまったのですね。

そして、天守を作り直さなかった理由がとてもいい理由で感動しました。」

 

昨年12月に、知人の小学校の先生の依頼を受けて

小学校5年生とその保護者を江戸城を案内したのです。

 

また、別の子どもの手紙にも

「江戸城のぼくがまったく知らなかったことや

面白いことがありました。

天守が再建されない理由は

たんじゅんにお金がなかっただけだと

思っていましたが、

やさしい理由があったことを

初めて知りました。」

天守台を見ながら

・加賀前田家がこの天守台を再建したこと

・白い石(花崗岩)は瀬戸内海から取り寄せたこと

・保科正之(将軍家光の弟)が天守を建てるより江戸市中の復興を優先させること

を主張して、その意見が通ったこと

・今、見てきた富士見櫓(後述)を代用天守として使用したこと                               

などを説明しました。

子どもの心に保科正之の話が響いたことがわかります。

お城について初心者(子ども)を案内するときは

このような感動的なエピソードが大切だと

この手紙を読んで思いました。

 

当日の主な活動について紹介しましょう。

大手門の前、大手門橋です。

ここからスタートです。

ここがお殿様の出入り口であること

高麗門と渡り櫓門があること

下馬させられた者がいること

など説明します。

そして、高麗門をくぐります。

塀と雁木(階段)と狭間(銃口)が見えます。

 

 

高麗門

 

渡櫓門

塀と二つの門、石垣に囲まれた空間、

桝形(四角い空間)

ができます。

石垣には鏡石(大きな石)がはめ込まれています。

大坂城の畳36畳分の蛸石は有名です。

鏡石を見る者(徳川以外のお殿様)に

権力を見せつけ「逆らえない」とわからせるためにあると一般的には説明されています。

今回、調べた見ますと

鏡は光を反射するところから、

悪霊を撃退すると信じられ

虎口、桝形、通路など敵の進入路に設けるという説明もありました。

 

桝形に入った者は、

櫓の窓、狭間などから攻撃を受けて

命の危機にさらされます。

このことを実感させた後、子どもたちに

「これから、この門を入ってから出口(平川門)を出るまで、

どのくらい命を失われるような場面に出会うでしょう」

と問いかけました。

このような具体的な問いかけが

子どもたちには受け入れられるように感じました。

 

先に進みます。

下乗門跡です。

その先右側には、同心番所が見えます。

尾張、紀伊、水戸の御三家のお殿様以外は

ここで、馬から下りて、本丸の御殿まで

徒歩で行かなければなりません。

お供の人はここでご主人が戻ってくるまで待っていたのです。

待っている者同士が、

いろいろなことをうわさしたり、

評判を立てたりしたことから、

下馬評という言葉ができたということです。

この門をくぐって中に入った人は

同心番所

百人番所

大番所で

厳重なチェックを受けてから中に進みます。

中之門跡です。

立派な切込接の石垣です。

この門の石垣を修理したとき交換した石が置いてあります。

石の大きさを実感できます。

こんな大きなな石をどこからどのように運んできたか

子どもたちも疑問をもったようです。

 

中之門跡に進みます。

中之門の柱の穴があります。

全部で8ヶ所あります。

これを子どもたちに見つけてもらいました。

門の下には江戸時代に作られた石畳

「塼(せん)粘土を焼いて、方形、または長方形の板あるいは練瓦形したもの」

が敷かれています。

 

ここから上り坂になります。

江戸城が平地でないことをここで実感できます。

中雀門跡につきます。

左右の石垣はボロボロになっていて驚かされます。

稲妻状の裂け目、円形の割れ目、人面に変形し、真っ黒に焼けている。

文久3年(1863)本丸御殿が焼けたときの類焼した痕と考えられ

160年経過した今に火災のすさまじさを伝えるものになっている。

 

いよいよ本丸到着。その広さを実感します。

 

富士見櫓をから外から見学します。

前述した代用天守であったこと

将軍がここから品川の海や富士山をみたこと

八方正面の櫓と言われていること(四面に窓が開かれ、いずれも正面でるかのように見える)

青海波と二引両があること

青海波(平和の願い込められた縁起のよい模様)が屋根の妻側にある。

青海波 | 株式会社DO THE SAMURAI

二引両

徳川氏は源氏を名乗り源氏棟梁である将軍になると、

足利将軍が用いていた「二引両」を幕紋とした。

二引両が施された城門をくぐって城内に入ることは

陣門をぐくって陣幕に入ることを意味する。

櫓の窓上に上下の出っ張りは、二引両を表したもので、

江戸城の壁面において統一装飾となっている二重の出っ張りを

内法長押(うちのりなげし)と呼び、

姫路城大天守の最上階、和歌山城天守、徳川大阪城、二条城の城門と櫓にも見られる。

(萩原さちこ 江戸城の全貌P165)

 

富士見多聞見学

本日唯一、江戸時代の建物の内部を見学しました。

 

寛永天守30分の1の模型の見学

天守台が近くに見えますので

この天守があそこにあったと想像することができます。

 

天主台跡見学(前述)

 

梅林坂を経由

 

平川門

ここは不浄の門と言われました。

罪を犯した人や死人を外に出すために使われました。

忠臣蔵の浅野内匠頭はここから出された一人です。

大奥に勤めている人の出入り口でもありました。

渡り櫓門と

2つの高麗門があり

山里門が不浄の門と言われていましたが、

ここからは舟で外部には出られないようです。

発見された図面「享保年間江戸絵図」によると

平川門桝形石垣に階段(雁木)ついていて大手壕を経由して

外に出られるという。

よって、平川門全体を不浄門というのではないかと

西ヶ谷恭介氏は江戸城その全容と歴史P90で述べています。

 

平川門渡櫓門

 

高麗門

 

高麗門・山里門

 

平川門桝形内には石狭間が付いています。

石垣の上端の石に狭間を彫り上部に土塀や櫓を乗せたものです。

土塀に開けた一般の狭間と同じく城内側を広くしして射程距離を広げる設計で

外側から見たときにはほとんど狭間の位置がわからないとい利点があります。

平川橋の上から目を凝らすとそれがわかります。

現存は大阪城大手門、岡山城月見櫓脇にしか見られない貴重な遺構です。

石垣狭間内部(ここから雁木に上って鉄砲を構えます)

 

石垣狭間外部(外からは狭間が大きく見えません)

 

平川橋にはすべての欄干に慶長か寛永の擬宝珠がに付いています。

和田蔵門前橋、西の丸大手門前の各橋にあった擬宝珠を移したものです。

最後にパレスサイドビルの屋上に上り

平川門の桝形全体を見通すことで

このお城巡りを終了します。

およそ、3時間の行程でした。

 

冒頭紹介した手紙の中に

「今日江戸城を見て、いろいろ聞いて、

歴史に興味をもちはじめました。

昔のものなのによく考えらていると思いました。

今のように、最新の技術とかないかわりに頭をよく使い、考えたんだろうと

思いました。

帰りに母と話し、

大河ドラマを見ることにしました。」

と書いてくれた子がいました。

大河ドラマ「どうする家康」が始まりました。

江戸城を今のように作ったのは家康からです。

きっと、ドラマの中に江戸城が登場することでしょう。

岡崎城、浜松城、駿府城と家康が関わった城には

家康の銅像がありますが、

江戸城にはありません。

これは七不思議の一つと言ってもよいかもしれません。

天守を再建するという動きもあるようですが

わたしは反対です。

住民の生活を大事に考えた保科正之に思いをはせ、

今のように天守台を眺めることが、

よいと思えるからです。

(子供たちの手紙をヒントに作者が書いたものを掲載しました)