今から155年前の4月11日は江戸城が無血開城された日です。
ウクライナとロシアの戦争をみるにつけ
無血開城がいかに意義あることであったかがわかります。
今、こうしている間にも有能な人材の命が失われているからです。
お花見の名所として知られる大田区南千束の洗足池(東急池上線洗足池下車徒歩0分)には、
江戸無血開城の立役者
勝海舟夫妻の墓があります。
海舟が建てた無血開城のもう一人の立役者西郷隆盛の留魂洞と留魂詩碑もあります。
海舟は西南戦争で被った西郷の不名誉の回復に貢献しています。
そして、洗足池には、大田区立勝海舟記念館あります。
勝海舟の記念館は日本ではここだけだそうです。
なぜ、大田区の洗足池に
勝海舟記念館があるのでしょうか。
それは、
開城の前々日と前日に
江戸無血開城の細部の打ち合わせに、
官軍と池上本門寺で会うために
海舟が命がけで洗足池畔を通ったからです。
官軍の陣所が池上本門寺にありました。
西郷の宿舎は本門寺の96段の坂の手前
理境院にあったといわれています。
記念館には、
海舟が洗足池を通ったことを裏付け次のような掲示があります。
明治24年初秋海舟が記した「洗足軒之記并歌」には
「慶応戊辰(慶応4年)の変の時に、
官軍先鋒の士へ述べることがあるので本門寺に行った。
道中、官軍の兵士等が殺気をふくんで様子を伺っているので、
洗足池のほとりにある草庵に立寄り殺気をさけた」
という内容の回想が記されています。
海舟が官軍の殺気を感じ、命がけで本門寺に向かう途上
洗足池に滞在したことがこの掲示からよみとれます。
これが海舟と洗足池との最初の出会いです。
記念館の年表に
3月13,14日 江戸薩摩藩邸で西郷隆盛と会談
4月9,10日 池上本門寺会談、翌日開城に至る。
と表記されています。
4月9日、10日の会談について 慶応4年戊辰日記では
大久保一翁とともに、江戸城明渡に関する陸海両軍の嘆願書を持参し
参謀である海江田武次、木梨精一郎と話し合った。
とあります。
令和元年(2019)9月7日勝海舟記念館が出来る前、
江戸城開城を決める勝・西郷会談が
池上本門寺にある松濤園で行われたのではないか。
という説がありました。
しかし、この年表は、この説に対して記念館の公式見解を示したものです。
無血開城が決定されたのは、江戸芝にあった薩摩藩江戸屋敷でした。
高輪藩邸に於いて西郷に談判す。
これ我が一生の難事なり。(年表より)
さて、勝・西郷会談の開催地について結論をみましたが、
ここに貴重な資料があります。
池上本門寺の周辺の地域はどのようなものであったかを
地域の池上徳持小学校の先生が
大田区小学校社会科部の部報に報告したものです。
明治維新と地域の人びと
慶応四年(1868年)三月、
江戸城を攻めようと江戸に迫った官軍の本陣を本門寺に置き、
西郷隆盛は石段の左にある理境院を宿舎にしていました。
薩摩や長州の兵は周辺の農家に泊まり、
総攻撃に備えて眠る時も
わらじを解かず刀の手入れを怠らず待機していました。
農民は野菜や鶏などを食料として取り上げられたり、
鉄砲や刀などの武器を隠していないか調べられたり、
名主は官軍に協力するか
幕府に通じていないか
厳しく取り調べられたりしました。
十五歳から六十歳までの男子はすべて
官軍のために働くように命令されました。
官軍が地域の人びとにかなり厳しく協力を迫っていたことがよくわかります。
勝海舟がこのような状況の中で、
無血開城を実現させたことは、
今、考えてもすごいことだと思います。
そして、明治の世になって勝海舟は
池上本門寺に行くときに立ち寄った洗足池を訪れ、
津田仙(津田梅子の父)と共に、良い値で土地を買い、
洗足軒という別荘を建てたのです。
そして、墓所も建てることにしました。
今、大森弟六中学校の敷地となっている所です。
無血開城と洗足池のかかわりについて触れました。
海舟が無血開城のため本門寺を訪れることがなければ
洗足池に海舟夫妻の墓、勝海舟記念館も
今、なかったのです。