80ばあちゃんの戯言(2)

聞いてほしくて(つづき)

私の人生(3)

2016-08-21 19:24:59 | 最近の出来事
母方の祖母の実家の話ですが、徳川様の江戸開城

の後、旗本たちは禄高に応じて土地をいただい

たそうで、私のご先祖様は静岡県の相良という所

の地主さんとなったわけですが、8人の子沢山、

其の長女が祖母で、其の結婚式は飲めや歌えの宴会

が一週間も続いたというのです。

当時の元お武家様たちは金銭感覚が全くなく、大酒

バカリ喰らっていたのでは、生活が成り立つわけも

なく、どんどん土地を手放していっくことになって

しまった家も多かったといいますが、私のご先祖様

も、其の例に漏れずといったところだったのです。

祖母ははじめ河村という家に嫁いだようですが、

夫は若くして亡くなり、久子というまだ生まれた

ばかりの女の子が残されました。

祖母は自分で何とか育てたかったようですが、あまり

にも若いので、(私が子供の頃には小学校を卒業すると

結婚する人もありましたが、明治大正のころには早婚だった

ので、多分15歳くらい)子供は自分達が育てるから、

こどもは置いて出るように言われ、泣く泣く実家に戻された

のですが、当時のことで、出戻り娘を家に置けないというの

で、横浜に小女をつけて住まわせたようでした。

祖母は村一番の器量よしといわれた人で、色白で

背のすらっとした人でした。

其の姿を見初めた祖父が何とか嫁に来てくれと、しつこく

求婚したそうですが、自分は年上であり、子供も居るから

と断り続けたのだそうですが、熱心さにほだされて、

荒井金三郎に嫁いだそうです。

祖父は生まれ持った商才とキリスト教の牧師さんに習った

英語を駆使して、横浜の関内におみやげ物の店を開き、

結構繁盛させていたようで、毎晩帰宅すると、

洋服のあちこちのポケットからじゃらじゃらお金を出し、

それを祖母が、翌日、人力車で、銀行に運ぶのが日常の

ルーティンだったそうでした。

母の親友から震災前の冨美子さん(母)のお家は、山元町の

山の上にあった豪邸で1000坪もの大きな養鶏場も

経営しておられたのよと聞かされたこともありました。

祖父はご接待などで料亭に行ったときには、必ず折り詰め

を頼んで、もって帰り、家人に食べさせる人で、当時、一家

の主はご馳走を食べ、跡継ぎの長男にもご馳走が出て、

後の家族には、粗末な食事をさせる家もあったそうですが、

祖父はおいしいものは、家族だけでなく女中さん達にも同じ

物を一緒にという優しい人でした。

祖父はなぜか子供達に人気のある人で、小学生の頃、祖父

の家にお泊りに行き、祖父が帰宅する時間に市電の停留所まで

従姉と二人でお迎えに行きますと、両手に一杯荷物を持った

祖父の周りには必ず5,6人の男の子達が祖父を取り囲む

ようにして、歩いてくるのに出会いました。祖父が子供達に

何故そんなに人気があったのかわかりませんでしたが、何か、

お土産でもあげたりしていたのかどうか、いま、なお不思議

でならないのです。
 
              (つづく)