前年10月の訪問から、およそ11ヶ月を経た志津川(南三陸町)は、一見あまり大きな変化は無いが、それでも一つまた一つと変わりつつある。
(2011年10月26日撮影①↓)
(2012年9月6日撮影①↓)
昨年は波にえぐられた町に草もなく、町の破片が高く積みあがっていたのが、今年は緑が茂り、破片もだいぶん少なくなってきている。
(2011年10月②↓)
(2012年9月②↓)点灯していないが、新しい信号機が設置されている。
解体を待つ建物もまだ残っているが、今年6月には残っていた志津川病院が、9月には解体されて無くなっていた。
昨年10月の志津川病院は、足元に大きな石が転がっていて、右肩に船が乗りあがっていた。
病院の奥には、サンポート(日用品、食品、食堂を含む商業施設)と、高野会館(冠婚葬祭)も見える。
(2011年10月26日撮影↓)
今年の6月には、乗りあがった船もそのままに病院は残っていたが、大きな石は除かれ、東側から解体が始まっていた。
左端に、シートが掛けられた建物と重機、サンポートの印が見える。
(2012年6月6日撮影↓)
9月には、サンポートも志津川病院も解体されていた。
手前や隣に建物が無くなり、高野会館だけが残っている。
(2012年9月5日撮影↓)
津波直後から、町役場の防災対策庁舎は、骨組みだけになって残っていた。
多くの命が犠牲となったことから、地元では解体を望む声が出た一方で、震災遺構として保存したいとの声も出て揺れ動きながら、解体を待っている。
(2011年10月撮影)
防災庁舎では、犠牲になった方が多いが、波をかぶりながら声を掛け合い支え合って、屋上で懸命に手すりにつかまり、生き残った人もいる。
みんなで助かりたかっただろう。
だが、どうにもできないほどの津波が襲ったのだ。生き残った人の心もどれほど痛いか。
当時、記録を撮る仕事を担当していた職員が、津波の状況写真を撮っていた。(南三陸町のホームページで公表されている。)
その記録は、辛い記憶でもある。
それでも、これからを生きる人々とこれからの町のために、津波に襲われながら残存するものは、本当に大切な町の記憶であると思う。
痛みを伴う遺構も、写真も、どれほど大事なことを後世に教えることか。
そこに生きた人々の努力
助かった人々の支えあい
たくさんの喜怒哀楽が日々生み出されていた町があったこと
僅かの間にその町を失ってしまうほどの力を持つ津波のこと
それを私らは、決して忘れてはいけない。
(2012年9月撮影の防災対策庁舎)