ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

志津川・残存する物の記憶:9月の記録①

2017-09-23 18:45:14 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

前年10月の訪問から、およそ11ヶ月を経た志津川(南三陸町)は、一見あまり大きな変化は無いが、それでも一つまた一つと変わりつつある。

(2011年10月26日撮影①↓)


(2012年9月6日撮影①↓)


昨年は波にえぐられた町に草もなく、町の破片が高く積みあがっていたのが、今年は緑が茂り、破片もだいぶん少なくなってきている。


(2011年10月②↓)

 

(2012年9月②↓)点灯していないが、新しい信号機が設置されている。


解体を待つ建物もまだ残っているが、今年6月には残っていた志津川病院が、9月には解体されて無くなっていた。


昨年10月の志津川病院は、足元に大きな石が転がっていて、右肩に船が乗りあがっていた。

病院の奥には、サンポート(日用品、食品、食堂を含む商業施設)と、高野会館(冠婚葬祭)も見える。


(2011年10月26日撮影↓)



今年の6月には、乗りあがった船もそのままに病院は残っていたが、大きな石は除かれ、東側から解体が始まっていた。

左端に、シートが掛けられた建物と重機、サンポートの印が見える。


(2012年6月6日撮影↓)


9月には、サンポートも志津川病院も解体されていた。

手前や隣に建物が無くなり、高野会館だけが残っている。


(2012年9月5日撮影↓



津波直後から、町役場の防災対策庁舎は、骨組みだけになって残っていた。

多くの命が犠牲となったことから、地元では解体を望む声が出た一方で、震災遺構として保存したいとの声も出て揺れ動きながら、解体を待っている。


(2011年10月撮影)



防災庁舎では、犠牲になった方が多いが、波をかぶりながら声を掛け合い支え合って、屋上で懸命に手すりにつかまり、生き残った人もいる。


みんなで助かりたかっただろう。

だが、どうにもできないほどの津波が襲ったのだ。生き残った人の心もどれほど痛いか。


当時、記録を撮る仕事を担当していた職員が、津波の状況写真を撮っていた。(南三陸町のホームページで公表されている。)


その記録は、辛い記憶でもある。

それでも、これからを生きる人々とこれからの町のために、津波に襲われながら残存するものは、本当に大切な町の記憶であると思う。


痛みを伴う遺構も、写真も、どれほど大事なことを後世に教えることか。


そこに生きた人々の努力

助かった人々の支えあい

たくさんの喜怒哀楽が日々生み出されていた町があったこと

僅かの間にその町を失ってしまうほどの力を持つ津波のこと


それを私らは、決して忘れてはいけない。


(2012年9月撮影の防災対策庁舎)

 
 

南三陸町から石巻・その9(石巻市渡波):2012年7月の記録

2017-09-23 14:57:42 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

女川を出て、万石浦沿いに石巻へと向かう。

万石浦にも、養殖の浮きがたくさん水面に並んでいる。


万石浦では、津波で多くの養殖稚貝を失ったが、それでも残っていたのが見つかったため、養殖業者で分け合って地場産の養殖も出荷も再開できたという。(水産庁で事例を紹介している)


護岸の整備が急がれるが、応急に大型土嚢が並べられる箇所もある。


万石浦に沿った鉄道(石巻線)は、復旧工事が進められていた。 

現在も復旧に向けて、努力中だ。


道なりに進むと、やがて渡波(わたのは)小学校の校舎が見える。

津波で壊れた1階の窓をふさぐように、子ども達の描いた、明るい花の絵が飾られていた。


この校舎は、来年度の末までに修復工事をして、再来年度には再びこの校舎で授業が再開される予定だ。


渡波では、連れ合いの知人が家を再建した。


元の場所が居住可能とされたので、慣れ親しんだ場所を離れず、同じ場所に家を建てたのである。

同じ地で再出発して、地域の再生を見守りたいのだろう。


7月に、我が家も紅白餅を貰ったが、大福餅で美味しかった。


ちなみに、大福餅は昔、鶉餅(うずらもち)や鶉焼と呼ばれていたが、これを江戸の商人(あきんど)が大きく作って、腹ぶと餅や大ふく餅といって売り出したという。当時は塩味だったそう。


その後、腹太餅や大ふく餅は、また小振りになって砂糖の入った甘い餡になり、それを大福餅と呼ぶようになったという。

(参考:『嬉遊笑覧』喜多村信節(筠庭)著 江戸末期随筆)


文字通り、災害という苦労の後で、再建した家に福がたくさん訪れるようにと願っている。