ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

南三陸町さんさん商店街:2012年6月の記録

2017-09-15 22:22:33 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

だいぶん片付いてはきたが、まだ解体していない建物が残っていて、

壊れた物の破片や廃車なども分別されて積まれていた。(2016/6/6)



そんな中で、海から少し離れた場所に、仮設の商店街が出来ている。


志津川には「南三陸さんさん商店街」が、歌津には「伊里前復幸商店街」がある。


丁度、昼時に志津川に着いた。

ウニたっぷりの「キラキラ丼」が売り出し中だったけれども、ウニも魚もめかぶも乗った海鮮丼を昼餉にした。

 

確かに、新鮮な魚の真ん中で黄金色のウニがよく映え、きらびやかだ。満足。


食後に、一通り廻って土産を買う。

志津川のマダコ、リアスの秘伝笹かまぼこ、わかめロールケーキと、地場の産物を十分に活かした品が手に入った。


マダコは弾力があり、味が濃い。

貝を食べているタコだけに、貝の旨味がその身に染みているようだ。


山内鮮魚店さんでは、秘伝の汁で塩茹でするという。これが、タコの旨味を活かす、絶妙の塩加減だった。

そのまま切って刺身にするが、3分の一は、ぶつ切りにして甘辛く煮てご飯に混ぜ、タコ飯にしてみた。


香り良く、タコの旨味が十分に染みて旨い。

我が連れ合いが、大層喜んだ。


「さんさん商店街」を廻った後、隣の歌津に向かい、「伊里前復幸商店街」に入った。

歌津の伊里前は、かつての集落の背後に田束山(たつがねさん)がある。


流された町の跡で、田束山への道を標す下の斜面に、たくさんの折鶴が飾られているのを見た。

「感謝」がいっぱいに表れ、復興への思いを強くするような光景だった。



石巻の光(2012年4月の記録)

2017-09-15 21:19:35 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

石ノ森漫画館の向かいに、国内最古の木造教会という、美しい八角形屋根のハリストス教会があった。

明治13年建築で、1978年の宮城県沖地震で損傷したが、その後に中瀬公園に移築されたという。
 (2011年10月6日撮影)
これが、東日本大震災の津波で、窓は割れ、白壁が所々剥がれて正面の扉が失われているが、かろうじて外観は残った。

2度の震災にも、この美しい建築物は、傷みながらも耐えて残っていたのであった。


               ※   ※   ※   ※   ※   ※


さて、震災から1年1ヶ月経った昨日から、このハリストス教会を照明で演出するという活動が、保存を望む人々によって行われていることが、新聞で報じられた。


現在の石巻は、商店街も津波被害で空っぽになった店が多い。

そうした中で仮設の商店街ができ、散り散りになった地元の人が時々顔をあわせたり、他所から来た人を迎え入れたりしている。


石巻駅から東に、旧北上川の河口辺りが見え、その中に、東西の内海橋が架かっている「中瀬」がある。

そして、この中瀬に、石ノ森漫画館とハリストス正教会がある。


昨年、私がこの場所を記事にしたのも、心のうちに2度の震災を乗り越えたこの史跡を、この見事な建築物を、どうか残してほしいと思う気持ちがあったからだ。


同じ思いを持っていた人が、方々にいたことを知って嬉しい。

しかも、小さな私の声と違い、大きく訴える力だ。

この素晴らしい建築物と、この度の活動を多くの人々に知ってほしい。

それはきっと、町の励ましになるだろう。



女川港(2012年2月の様子)

2017-09-15 20:36:45 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

港に近づくにつれ、津波の凄さが伝わってくる。


空き地が増えて、所々に、津波に破壊された建物が残っている。

かつては、たくさんの建物が港を取り囲んでいた。

その女川湾付近には、横倒しになった建物が残っている。 


女川港を右手に見て、左には山のように積んである、かつての町の破片の集まりがあった。



頑丈に建てたものでさえ、津波は破壊する。

堅固な堤防も、津波を制圧するのではなく、人に逃げる時間を与えるものなのだ。

自然の力は、それ程に大きい。


だが、人も自然の織り成すものの一つである。

自然の絶妙の均衡に沿って、工夫して生きることが大事なのだと、つくづく考えさせられる。


津波で、打撃を受けた港町。



それでも、女川の復興への歩みは力強かった。

豊かな海と共にある、ふるさとの物産品を再生産しようと尽力してきたのだ。


女川の魚市場は7月には再開したという。

港には、仮設事務所が置かれていた。


女川町の観光協会も動き、「おながわ再開情報」を発行している。

「おながわ再開情報」には、これまでの復興の歩みと、現状を分りやすく描いた地図も掲載されている。



女川の仮設商店(2012年2月28日の記録)

2017-09-15 17:20:21 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

東道路を使って石巻に入り、石巻の渡波から、万石浦に沿って女川に向かう。
渡波の津波被害も酷かった。
今は平常に戻っている道も、2m程の水が押し寄せたと聞いている。

東へと道なりに進めば、やがて万石浦が見えてくる。

(沢田折立入山辺りから見た万石浦)


石巻湾から、渡波港を通って続く、穏やかな内海だ。静かに輝く波に、養殖の竿が見える。

万石浦を右手に道を進めば、やがて石巻から女川に入る。


丁度、市の境辺りに、以前は女川港の近くにあった「マリンパル女川おさかな市場」がある。

津波で壊れた市場だが、移転して10月に再開した。

個人商店が寄り集まっての再開には、他県の工場の助けもあったという。


さらに、東へと女川湾の方へ向かうと、右手に看板が見え、土留の石垣の角に、青く描かれた案内も見える。

「コンテナ村商店街」であった。

入り口に花が飾られ、中央に薪ストーブがあり、和やかな空気が流れている。 


コンテナ村商店街の人々が、互いに声を掛け合っていて、恐ろしかったあの日からの日々を、隣近所で助け合って乗り越えてきたのだと実感した。


花屋さんや飲み食い処、洋品店と青果店がある。

奥で、陽気に荷解きしたり、品を並べたりするお父さんがいたのが青果店の「相喜フルーツ」さんだった。


真っ赤な粒が、綺麗に並んで箱に収まっているのが目に留まる。

一粒で、巨峰の3粒分はあろうかという大きさの、見事なイチゴだ。


宮城でイチゴといえば、近頃は沿岸南側の亘理と山元や、東松島の矢本などの品が多い。

相喜さんには、石巻産のイチゴがあって、さらに志津川産の物もあった。

女川は石巻の隣で、海沿いの道を北に進むと、町を3つ越えて志津川にたどり着く。


「志津川でイチゴという印象がなかったけれど」と聞くと、相喜さんは

「そう?結構作ってるんだよ」と教えてくれた。


志津川の大久保地区といえば、津波の被害を受けたところだ。それでも、周囲の力を借りて、何とか栽培を再開できたようだ。そういう所が、被災地にはいくつもある。

内外の多くの助けがあり、逆境の中で踏ん張る人々の今がある。


そして今、被災地の品々が仮設店舗に並んでいるのだ。

石巻産のイチゴも、志津川のイチゴも、香り豊かでとても甘い。 

仙台市内でも、被災地の産物が売られている。

それでも、現地を見て、現地の人と接して買うと、いっそう得るものがある。

その土地の風土と空気で、産物の良さもより輝きを増す。

しかも、人々のあったかさに触れ、自分の一日にも輝きがもたらされるのであった。

 

歌津(震災から約8ヶ月・2011年10月の様子)

2017-09-15 17:08:45 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

志津川から、気仙沼方面への道を進み、歌津を回った。

かつて、そこにある及新さんで うに味噌を買い、朝日堂で焼き菓子を買った。


あの時、飾らぬあったかさで迎え、送り出してくれたあの店は、どうなっているのかと、震災直後からずっと気がかりだった。


かつて寄った時は、すでに日が暮れて夜道だった。

夜道であったことと、道の両側に建物が並んでいて気がつかなかったが、ここは結構、海に近かったのだと実感する。

    



曲がりくねった道沿いに、並んでいたはずの店も家も、何も無い。

   



 

 


2002年に現れた珍客の、めんこいアザラシに「うたちゃん」と名付け、さらに汐見橋をも名前を変えて「うたちゃん橋」としたあの橋が、車窓から見えた。



この橋だけが、しっかりと残っている様は、寂しいけれど力強さもある。


         

この伊里前地区は、元禄の頃からの宿場町と言われていた。長い歴史を共にし、この辺りの人々のつながりは深いようだ。


歌津では、昭和30年から町民の生活改善を目指す協議会が発足しており、昭和50年に「すばらしい歌津をつくる協議会」となって活動を展開している。



被災した今も、この協議会によって『一燈』という会報が発行され、新たな町づくりを考えたり、町民が集まって思いを共有できる場をつくったりしている様子が記されていた。

 

素晴らしい、その名の通り素晴らしい。


かつての町はもう無いが、歌津の人々の温かさはそのままだった。

晴れた青空の下に、曲がりくねった道が続く。
その道は、明るさを自ら引き寄せる人々の、明日へと繋がっているように思った。