ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

山元町:2011年11月8日と2012年6月27日の記録

2017-10-28 16:26:21 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

震災時の暮らしが落ち着きはじめ、あちこちの様子を確認して歩いて、ようやく宮城の最南端である山元町へ行くことができたのは、震災から8ヶ月ほど過ぎた頃だった。


2011年11月、海側の道は片づけで通れそうにない。

陸前浜街道(国道6号線)から様子を見た。

道路はうねっていたが、津波の被害はこの道から東側で止まっている。


海沿いに連なっていた緑が、すっかり欠けてしまって海が見える。

1階が空洞になるほど壊れている民家が、所々に残っていた。

そうした家々の人々が、「どうか無事でありますように」と祈りながら眺める。


被災地を巡る時は、いつもそうだ。心の中で語る。

失った人々に、どうか苦しかった時に縛られず、楽しかった時を思い出して安らぐように。

生き残った人々に、どうかよりよき再出発ができるように。


ただし、暗い顔ばかりせず、笑顔も見せながら通る。

和楽を忘れないことが、今を生き、明日を生きる力だから。


そんな思いを、汲み取るかのような人々がいる。

山元町役場に寄ると、そこには、いち早く地元に情報を届けようと出来た、仮設のラジオ局があった。

「りんごラジオ」だ。



必要な情報はもちろん、人々が生きることに明るさを見出せるようにという願いを、日々、町の人々へ届けている。


外から手を振った。

向こうも、笑顔で返してくれた。


役場の敷地内には、もうひとつ、写真を拾い集めて修復保存する場も設けられていた。

情報の発信と、市民のこれからを支える場所として、役場が使われていた。

町の人々が、少し落ち着きを取り戻した様子で通り過ぎる。


震災の春から、日々は過ぎ、季節は冬に近づいていた頃。

坂元小学校では子ども達の笑い声も聞こえ、今を明日を、大切にしている輝きを見た。


掲載写真:2011年11月8日撮影

 

亘理鳥の海周辺:2012年1月25日の記録

2017-10-22 18:08:26 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

津波で砕けた建物の一片一片は、堤防のように高く長く積まれ、その分、空き地が広がっている。 

だが、その空き地の所々に、今を生きる人々の一歩が見える。


亘理はイチゴの栽培も盛んだ。イチゴ栽培を再開させるハウスに、黄色い看板が掲げられていた。

「全国の皆さんありがとう 復興中 みやぎ亘理 太田イチゴハウス」という看板だ。

亘理の人々のあったかさが伝わってくる。


仮設の事務所も出来ている。

出来るところから、事業を再開しているのだ。

被災者によって、復興情報センターも作られた。


「わたり温泉 鳥の海」も、被災のため営業を休止しているが、1階にあった「ふれあい市場」は、通りの北側にある近所の「築港通り」に、仮設店舗を設けて営業再開したという。


また、わたり温泉鳥の海は宿泊施設を備えているが、向こう2年間を、災害廃棄物処理の共同企業体の宿舎として貸し出すそうだ。観光用に再開する前に、業者の宿舎として町の復旧に寄与することになる。


津波で町は消えても、今を、明日を生きるために、人々は動き出している。

そこにあった、ふるさとの輝きを、人々は決して忘れない。今も残る、ふるさとの食や唄が、人々の一歩一歩と共にあり、いつも励まし続けるだろう。


亘理名物の新旧はらこ飯:2011年11月の記録

2017-10-22 17:43:07 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

秋、サケが川へと戻り始めると、「はらこ飯」の時季到来だ。

宮城の沿岸南部には、亘理という町がある。

名取市の南隣が岩沼で、その南に阿武隈川があって川を渡ると亘理だ。



「はらこ飯」は、亘理の名物なのである。


亘理名物の「はらこ飯」には、新旧の2種類がある。

郷土料理のはらこ飯は、もちろん旨い飯で、昼餉にも晩酌しながらの夕餉にもいい。

新たな方のはらこ飯は、見た目は同じなのに、全く別の物という面白さだ。


亘理は、津波の被害を受けた。
この新旧のはらこ飯は、どうなっているのか心配しながら、亘理へと向かった。


昔から、阿武隈川を遡上するサケは名物で、藩政時代になると、伊達藩主にも将軍家にも献上されるほどだったという。

かつて、政宗公の命で、仙台藩は阿武隈川河口から名取の閖上まで、南北に木曳堀を作った。

(慶長2~6年、現在の名称は貞山掘。参考:貞山運河辞典)

 



そして、政宗公が現地に出向いた際、荒浜の漁民がサケとはらこを混ぜた飯を献上したそうだ。

これを政宗公は大変気に入り、側近に吹聴したという逸話もある。

これが、「亘理名物はらこ飯」の始まりらしい。


(参考:亘理町企画財政課)


震災による津波で、亘理荒浜の家や店は流された。

例年、秋の楽しみである荒浜のはらこ飯を作る人々は、いったいどうしているかと心配だった。

今年(2011年)は、荒浜の人々の手作りを、味わえないかもしれぬと思っていた。

ところが・・・



荒浜へ行くと、傷んで空き地の多くなった地域の中に「はらこめし」の幟が出ていたのである。



荒浜漁港のある鳥の海のほとりに、道しるべとなる看板が出ていた。
なんと、「武蔵商店」が再開していた。




残念ながら、店頭に「完売」と貼り紙があったため、寄ることが出来なかった。

しかし、帰り道に国道6号線沿いにある「おおくまふれあいセンター」に寄ると、武蔵さんのはらこめしがあったではないか。



喜んで買って食べた。

やはり旨い。

そして、新名物のほうも、おおくまふれあいセンターで買うことが出来た。




以前は、鳥の海の傍にある「渡り温泉鳥の海」の売店にあったが、今は閉鎖中だ。

良かった、これも味わえるのだと、嬉しく思う。


この新しい はらこ飯は、食後やおやつに食べるものである。

それは、亘理の洋菓子店「ジョアンナ」の品。



実は、飯ではなくプリンなのだ。

その名も、「はらっこめしプリン」だ。



見た目は、本当に郷土料理のはらこ飯そっくりである。
だが、甘い香りがする、滑らかでこくのある菓子なのだ。

はらこの部分は、オレンジの果汁が入ったタピオカ。
サケの切り身に見立てた部分は苺ムースで、少ししっかりした食感。
その下はとろけるような食感のプリンだ。

しかも、メープルシロップの入った、穏やかで香りの良いプリンである。

(2010年06月09日公表記事抜粋・再編集)


亘理では、発想豊かな楽しい菓子もあり、郷土の味もしっかり守っていた。
亘理も、一歩前へ出て輝いている。


亘理に引き継がれた祝い唄:2012年1月25日の記録

2017-10-22 17:17:22 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

名取市から南へ行くと、阿武隈川を挟んで北が岩沼市、南は亘理町になる。

鳥の海という湾があって、ぐるりと湾を廻ると、北側にも南側にも湾を望む公園があった。

(↓2010年6月撮影)    



南側の公園は少し小高い所があり、そこから湾を眺めると、実に爽快な景観で、穏やかな青い海に草木の茂る陸も見えていた。

 

 

湾の入り口の北側は、漁港になっていた。

その港の縁に荒浜漁港公園があって、亘理「えんころ節」が聴ける歌碑があった。

3・11の津波で、この景観も変わってしまったが。

 

 

「えんころ節」は、亘理発祥と言われている祝い唄だ。

しみじみとした響きの中に、どこか軽快な高揚感のある唄である。

毎年1月には、亘理町で「えんころ節大会」が開催されていた。


今年はどうだろうと、気になっていたが、先日亘理町へ行った時、大会の開催を知らせる貼り紙を見かけたのだった。

 

 

今年も途絶えなかったことに、亘理の人々の思いが伝わってくる。

古くからの唄も食も、荒浜の町にはあった。

これを引継ぐことは、ふるさと再生の礎かもしれない。


亘理の人々は、大切なふるさとの宝を励みにして、一歩一歩進んでいるのだと思った。


亘理のえんころ:2011年11月の記録

2017-10-22 16:27:07 | 東北被災地の歩み:亘理・山元

津波に消えた町の思い出がある。

町はまた、人々によって作られる、その道を進む中で、思い出も大事にしたい。

かつて、そこにあって輝いていたことを、書き残しておきたい。


2008のことだ。

仙台から南方へと進むと、阿武隈川にぶつかる。

橋を渡って亘理に入り、阿武隈川沿いに荒浜方面へと向かう途中だった。


「あれ、お菓子屋さんの看板があった。」と我輩が騒ぐと、
「また見つけたか。どうする、戻ってみる?」と連れ合いが言う。

少し先から、ちょいと戻ってみると、やはりお店があって、看板には「作間屋支店」と書かれている。

そこには、明るく気さくな女将さんがいた。


この店で、「えんころ餅」を買った。

 

「えんころ餅」は、冷凍保存されているのだが、地場産品を活かしたお団子だと聞き、これは買わずにいられないと思った素敵な品だ。


買うときに、女将さんが苦笑いしながら

「うちでも食べようと、直ぐ食べたくてレンジに入れたことがあるんだけど、爆発しちゃって」と話してくれ、

「我慢して自然解凍しなくちゃね」と笑った。


帰宅して、丁度「えんころ餅」が溶けた頃合いだ。さっそく味わおうと包みを開けると、

「あ!」


小さな熨斗袋が出てきてびっくりした。袋の中には5円が入っていた。


「ご縁がありますように」ということだろう。

中身にたどり着く前に、すでに楽しい気持ちでいっぱいになる。

あったかい心遣いを喜びながら、箱の蓋を開けた。

 


亘理のもち米を使い、まあるく一口大のお団子にしてある。

団子の中に、醤油たれが入っていて、団子の上には、荒浜の海苔が乗せてあった。

 

甘しょっぱいたれに、ほんのりと唐辛子の辛味がある。 

海苔の香りがとても良く合い、亘理の海を思い起こさせる、素敵なお菓子だった。


粋で旨い、亘理荒浜の「えんころ餅」は、客の喜ぶ顔を思い浮かべながら作っているのだろうと、作り手の気持ちが感じられる。

喜びと香りと味と、たくさん思い出に残る一品だった。

 

                

そして、震災後。


この作間屋さんも、津波の被害を受けた。


阿武隈川では、強い力で川を水が遡り、蛇行する川の曲がり角で激しくぶつかり、大きくゆとりを持って作られた土手を越えて、付近の住宅を損壊していったようだ。


河口から少し入った所は、比較的まっすぐな流れに沿った地区で建物が残っているのに対し、丁度曲がり角の所に当たる地域は、損壊が激しかった。
あの大きな土手まで越えるとは、何という凄さだったのかと、津波の酷さを思い知らされた。

    
3月に、連れ合いがあの辺りに片付けの手伝いに行った時、作間屋さんの所は1階は浸水した様だが、建物は残っていたというので、店の方々も無事と思われた。

  

そして先日、亘理へ行き、作間屋さんの様子も見てきた。

損壊した店の奥に、灯りが見えた。

片付けだろうか、何か作業をしているようだった。

 

 

大変だろうと思うが、やはり店の再開を願い、「えんころ餅」の復活も願っている。


その「えんころ」だが、宮城に「えんころ節」という祝い唄がある。

この唄の発祥の地が、亘理だと言われている。


藩政時代から歌い継がれ、近年も、亘理町では「えんころ節大会」が行われてきたのだった。

再び、この祝い唄が響く町にし、亘理の米と共に、荒浜の海苔も味わえるようにと心から願っている。             


 

かつての、荒浜から内に続く湾、鳥の海。

震災前は湾を周遊でき、南側からも、葦原や緑の豊かな景色が眺められた。