『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

嘘をつくな 狡をするな 楽をするな(2)

2012年09月28日 | 学ぶ

  

 


 今と同じく時代の大きな変わり目であった明治時代に、リーダーシップをとった人たちがとった行動・・・「世の中をよくしたい」という心からの願い・理想・夢。何よりもそれらを優先した人たちがたくさんいました。他でもない、今ぼくたちが生きている此所、日本でのできごとです。
 写真は国際連盟の事務次長として名をはせ、信頼を集めた新渡戸稲造の著書「武士道」の日本語訳(岩波文庫)です。本を開いたことがないにもかかわらず、日本では題名だけで嫌悪感をもつ人もいましたが、外国ではルーズベルト大統領やエジソンをはじめ、多くの人たちに愛読され賞賛されました。世界に誇れる日本人の生き方の基準を示してくれるこの本を、ちゃんと読んだことがある人はどれだけいるでしょう。
 「柔道・剣道は戦争や戦闘のためのスポーツである」と今誰も思わないように、「武士道」は時代の鎧は着ていても、決して戦争賛美の本ではありません。

  

 色眼鏡を取って著書ときちんと向き合い、忘れ去られてしまったたいせつなことどもを、もう一度見直すべきではないでしょうか。
 負の遺産は決して忘れてはなりませんが、必要以上に引きずり、あるいはいつまでも政策の道
具に使うのは、他国はともかく、日本人の美意識にはそぐいません。

  勇気というものは正義に基づいて行使されなければ徳に数えられるに値しない。
  論語の中で孔子は否定命題を使った彼流の言い方で勇気について定義している。「義を見てせ
 ざるは勇なきなり」と。この警句を肯定的な表現で言いかえてみると「勇気とは正義を実践す ることである」ということになる。
  あらゆる危険に立ち向かい、命の危険を賭し、自らを窮地に追い込むような仕業が勇敢そ のものであるとみなされることがよくある。シェイクスピアに「勇気の私生児」と切り捨てられた  このような軽率な行動が、「戦う者たち」の間でも、値しない賞賛まで浴びている。だがそん なところに武士道はない。死ぬには値しない理由で死ぬことは「犬死」と蔑まれるのである。
(「武士道」新渡戸稲造著 拙訳・写真は岩波文庫版)

 

 こういう価値観がもう少し広まり、世に浸透していれば、陰湿さを増してきたいじめの問題も、ひょっとして子どもたちの間だけで解決するきっかけが生まれていたかもしれません。「生き方」・「人が人である心」には古さも新しさもありません。
 「義を見てせざるは勇なきなり」に秘められている「強さと優しさ」は一昔前の日本人には身近な存在でした。維新前後の外国人たちの紀行文を読めば、田舎の一般の人たちの中にもそういう人たちがたくさん出てきます。人口が当時に比べ、倍以上になった今、世界に誇れる人も倍に増えたでしょうか。
 「狡をするな」。この一言を肝に銘じ、実践する人たちが増えていけば、混迷している社会状況がどれだけ好転していくか。また逆に減ることによって、どれだけ悲惨な状況になっていくのか。子どもたちに伝えるべきは「狡をするな」です。

 

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嘘をつくな 狡をするな 楽をするな(1)

2012年09月22日 | 学ぶ

 

 


団の三訓ー嘘をつくな 狡をするな 楽をするな
 団には子どもたちを指導するための三つの指針があります。「嘘をつくな」「狡をするな」「楽をするな」。団の三訓です。守るべきたいせつな約束です。その意味と理由を三回に分けてご紹介します。
 その後は「米作りに願うもの」で、団が「米作り」を始めた理由、子どもたちにとって「米作り」はどういう意味をもっているのか等をお話しします。子どもたちが確かな学力を培い素晴らしく育ってくれる秘密です。

 標語の一「嘘をつくな」。
 「嘘も方便」という、考えてみれば便利なことわざがあります。
 しかし、このことわざには、どこか「うさんくささ」や「陰」がつきまとう感じがするのですが、いかがでしょうか。
 「必要悪」も時には認めなければならないことはわかりますが、嘘をつくのは「たいてい隠しごと、あるいは責任逃れのため」です。「必要悪」に頼らず処理する方が誠実で、よりスマートではないですか? 
 子どもにとっても大人になっても、いちばんいい表情は「こぼれる笑顔」であり、いちばんうれしい言葉は「ありがとう」だと信じています。子どもたちには、できるだけたくさんそんな機会に出会って大きくなって欲しいものです。

 

 「嘘をついてしまった」という心の揺れは、笑顔を明るい方向に導いていくことは決してありません。子どもたちの笑顔を台無しにします。
 嘘は嘘を呼びます。「嘘は泥棒の始まり」ということわざはまだ生きています。嘘がばれないように、さらに大きな嘘をつかなければならなくなることはありませんか? 嘘をつけばやさしい人ほど気持ちが荒みます。
 多くの人は良心的で、嘘をつけば気になり、何かにつけて全力でのパフォーマンスがむずかしく
なります。力を出し切ることはできません。そして全力を尽くさなければならない「ハレの日」に限って、そのしわ寄せが来るような気がしてなりません。
 いずれにしろ、年を重ねるとともに、心の中には少しずつ澱がたまっていきます。嘘や哀しさで笑顔に影が差すことが多くなります。
 子どもたちには、いつまでも飛びきりの笑顔でいて欲しいものです。そしてワシントンのリンゴの話は今でもぜひ読み聞かせたい逸話です。

 標語の二「狡をするな」。
 「狡」というのは、本来あるべき努力や成果に対して、手抜きをし、表面だけ取り繕うしわざです。結果的に人や社会に対する裏切りであり、強固な信頼関係は生まれません。誠心誠意努力しあうことで「絆」が生まれ、人間関係が正しく成立します。信頼できる人たちと協力し合い、目標に向かって協調できる構造が社会の礎になります。
 未曾有の大地震で困窮の極みにある被災地に「火事場泥棒」が跋扈しました。
 「隙あらば人の金も自分の金に」という意向や企みが蔓延し、数年おきに、体裁を取り繕った「狡」の事件が大きく報道されます。
 「金を儲けちゃ悪いんですか」などという台詞が「子をもつ親である、身なりも地位もそれなりの社会人」の口から臆面もなく飛び出したころ、そんな社会になってしまったことに違和感をもち、憤りを感じた人はどれだけいたでしょうか。

 


 「金を儲けても悪くはないですが、あなたの心に金よりたいせつなものがあるはずだという気持ちはどれだけ残っていますか」。このニュースが流れたとき、そうコメントできたインタビュアーやニュースキャスターは登場したでしょうか。
 「こういう感覚で子どもを育てたら、あるいはこういうニュースがどんどん流れるようになったら、将来どうなるんだ」と思った人は、どれだけいたでしょうか。「こんなヤツもおんねんなあ」じゃなかったか。「世の中には自分に関係のないこと」はありません。「自分ひとりで」そう思ってるだけだと思います。
 「狡いこと」をして反省のかけらもない、反省さえ知らないと思われる人たちが増えていることと、信じられない犯罪の多発は決して無縁ではありません。「自分さえ良ければ」、そういう人たちがどんどん増えているような気がするのですが、いかがでしょうか。そして、もっとも恐ろしいのは、ぼくたちがいつの間にか、少しずつそういう社会に慣れてしまっていることです。

 

 

 

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つくらせズ 肥後守は凶器か道具か

2012年09月15日 | 学ぶ

 

 ナイフや刃物の取り扱いも子どもたちを育てるに当たって考えなければいけない、大きなテーマです。
 かつては小学校のクラスの男の子はほとんど全員が切り出しや肥後守をもっていました。

 鉛筆を削るのはもちろん、枝を切る、皮をはぐ、木を尖らす、どんな遊び道具をつくる際にも重宝しました。竹とんぼや弓矢、釣り竿、水でっぽうや杉でっぽうづくりの大切な道具でした。女の子の筆箱にさえ、小さな刃がついた鉛筆削りが入ってました。

 

 切り傷や擦り傷、当時はほとんど毎日です。当たり前でした。みんな気になりません。きれいな切り傷であれば二十分位ぎゅっと押さえておくと、傷跡はくっつき血も止まりました。時には化膿することもありましたが、身体はそういうとき、見事な回復力を発揮してくれました。

 放課後や休日、男の子たちは肥後の守を使って、雨の日は近所の軒下で、晴れた日はあぜ道の陽だまりで、竹とんぼや水鉄砲をつくります。作業は簡単ではありませんし、刃物の扱いが常に危険と隣り合わせなことは、今も昔も変わりません。ナイフを使うには細心の注意はらい、集中し続ける力が必要になってきます。

稲刈りの鎌でもナイフでも、刃物は使ってはじめて力加減・威力・便利さや怖さが分かります。使ってみてはじめて、ふざけて使ったら危険だということも分かるのです。注意力や集中力も実際に使ってみないと身につきません。

 

刃物を扱っていれば怪我をすることもあります。今のお父さん、おかあさんなら大騒ぎするかもしれません。しかし、怪我をしたぼくたちは、指先の痛みとともに、小さな傷とは比較にならないくらい大切なことも学びました。相手に対する痛みです。

 心配する母親の気持ちを想い、自分と同じ血が流れる仲間の姿が見えました。自らが感じる痛みと相手に対する思いやりは決して切り離すことはできません。
 ゲームでコントローラーを通じて画面の相手をKOしても、「抹殺」しても、相手の「痛み」は分からず快感しかありません。こんな危険な育ち方はありません。

 ナイフ事件で大騒ぎする人たちは、倒しても傷つけても殺しても「快感」しかないゲームに夢中になることの恐ろしさを、どうしてもっと強くアピールしないのでしょうか。ここでも「危険であることの誤解」がはじまっています。

 ニュースなどで見る事件が悲惨な結果になるのは、多くの場合、「ナイフ」や「包丁」を「道具」として実際に使った経験がない、身に及ぶ危険や怖さを知らないで育った場合ではないでしょうか。 使った経験がなければ、危険度や与えるダメージの大きさを想像することができません。自らの身に及ばない危険は危険ではありません。自らの身に及ばない危険ばかりで育っていれば本当の危険はわかりません。

 開塾以来、子どもたちにナイフを渡しつづけ、また毎年の稲刈りでもよく切れる鎌を使いますが、過ちはもちろん、怪我もほとんどありません。その成長ぶりを見ていると、経験を重ねれば、今の子どもたちも僕たちのころと変わらないことがよくわかります。
 ナイフは道具であり、使い方やルールは使ってこそ会得できます。小さな怪我が大きな過ちを未然に防ぎます。使ってみなければ使えるようにならないし、怖さや危なさもわかりません。

 ヒトが創造的になっていったのは、道具を使い、「つくる」という経験を重ねていったからではないでしょうか。僕たちと道具を切り離すことはできません。道具はいつまでも現れ続けます。そしてナイフに限らず、使う人の心を育てない限り、道具はいつでも凶器に変わります。
 セルフコントロールできる人・信頼できる子どもたちを育てられない環境・育てていこうとしない社会ほど、未来のない、そして恐ろしい社会はありません。
 何よりもたいせつなことは、危険な道具を危険と認識し、使い方や使い道をわきまえている子どもたちを育てる環境を整えることではないでしょうか。

 

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触れさせズ 危険を知らない危険・危険が防ぐ危険

2012年09月08日 | 学ぶ


 渓流教室で子どもたちが遊ぶ川は赤目渓谷の少し下流、「滝川」です。十数年前から滝川には渓流遊びを覚えるのに最適の場所がありました。自然の流れを生かしたつくりで、魚釣りも楽しめ、水の流れをうまく利用したコンクリートの滑り台もしつらえてあります(写真)。

 自然の流れをそのまま利用しているので、所々に角張った岩が顔を出し、岩にはすべりやすい水苔も生えています。それが逆に、昔懐かしい川遊びを覚えるには絶好のシチュエーションでした。片側の山際はバンガローやテントサイトもあるキャンプ場になっていて、毎年、親子連れや、先生・学生・PTAらしき付き添いに連れられた子どもたちが集まってきます。

 集まってくる子どもたちは、見慣れない景観と遠出の高揚感で嬌声をあげながら、岩場を勢いよく駆け出します。滑り台に突進し、先に滑りおりた子が上がる前に頭からつっこんでいきます。振る舞いを見ていると、「『海水浴場の砂浜』も『渓流の岩場』もまったく区別ができない」ことがよくわかります。「遊び方を知らない」のです。

 付き添っている人たちも岩場を走っても注意せず、滑り台でのようすを見ても、「にこにこ」笑っているばかりです。子どもと同じく渓流遊びや腕白遊びをしたことがほとんどないのでしょう。「楽しく遊んでいる」という認識しかないようで、「危険度の判断」がまったくできていません。近い経験でもあれば、「背筋が寒くなる」はずです。

 渓流の岩場で走ったり、コンクリートの滑り台で頭からつっこむという行為は、ひとつまちがえば、まちがいなく命に関わります。
 水苔のついた岩場でバランスをくずせば、うまく受け身はとれません。水が流れているコンクリートの滑り台で勢いがつけば、けがを避けることは不可能です。どちらも脳挫傷という事態になっても、少しも不思議ではありません。命に関わります。

 十年以上も子どもたちの歓喜の声がこだましていた滑り台は、傾斜角度が緩やかになり、さらに、数年前には無粋な鉄のネットで覆われ、使用禁止の立て札が立てられました。

 


 防護の経緯から考えて、何度か事故が続いたのでしょう。近年僕たちが気になっていた光景から振りかえれば原因を想像するに難くありません。

 渓流は入場料を取る市民プールではありません。付き添いの人たちは、「渓流はすこぶる危険度の高いところであり、遊んでいるのが経験のない子どもたちであること」がわかっていなければなりません。

 監視して注意しなければいけないのはだれなのか。怪我をして当たり前の遊び方をして、怪我をしたから、つくった方が悪い、というのであれば、自己責任の放棄もいいところで、体のよい「言いがかり」です。
 さらに責任の所在の追求に窮したお役所感覚が、楽しく自然体験できる遊び場を次から次へとつぶしていったら、子どもたちが外遊びの面白さを体験することはできなくなるし、自分の身を守る感覚や運動神経を養う機会はなくなるばかりです。

 事故はなぜおきたのか、だれの責任で起きたのか。ここにもクリアしなくてはならない、現在の子育ての大きな問題点が見えてきます。
 団の場合も、少人数なのに、毎年必ずといってよいほど、家庭や学校内の行動で、骨折する子や骨にひびが入るような怪我をする子が出るようになりました。塾の子だけ特別骨折が多いとは考えられませんから、怪我を避けるように動けなくなっているのでしょう。身体は大きくなりましたが、身体の強さがなくなっていることもあるかもしれません。

 

 田舎の小さな小学校でしたが、ぼくたちのころは、一学年に五十人くらいいました。それでも、卒業するまでの六年間に、骨折のような怪我をした子は、全学年合わせても数えるほどだったと思います。

 夏になれば、岩場でも子どもたちだけで遊ぶのが当たり前、それでも擦り傷以上の怪我をした子は見たことがありません。小さな村で、みんな顔見知り、内科の医師が一人しかいないような所ですから、怪我をすれば村中に広まり、「だれがどういう怪我をしたのか」までわかります。

 野外での遊びは絶えず危険と隣り合わせです。だから弾ける面白さが満喫でき、心躍る、得難い体験ができます。腕白遊びは、おもしろければおもしろいほど、注意をしなければ取り返しのつかない結果を招く遊びでもあります。

 

 子どもたちは成長の過程でさまざまな危険度を身体で覚え、次第にセルフコントロールできるようになります。小さいころから川遊びをしていれば、「乗っても滑らない岩」も、見れば分かりますし、バランスを崩したときの動きも体が覚えていきます。また、危険を察知すれば、その危険を避ける動きも覚えていきます。

 ところが、今は、そういう経験をしたことがない人たちが親になります。小さいころに自然の川や渓流で遊んだ経験がないので遊び方や遊びのTPOの判断ができません。子どもたちにきちんと伝えることができません。
 また、かつては一緒に遊んだ近所のガキ大将の振る舞いや言動を見ていれば、小さい子たちも、見よう見まねでいろんなことを覚えたのですが、今はそういうわけにはいきません。
 状況判断が親子ともできない中で、楽しく遊べるはずの滑り台で事故が起き、あろうことか、そうした状況を防げるようになるしくみまでシャットアウトしてしまうのです。

 

 ここに、今の子どもたちの置かれている状況がはっきり現れています。「過保護にされてはいますが、実は守られてもいないし、保護もされていない」のです。むやみな過保護は決して保護にはなりません。

 怪我をするから使わせない、危ないからもたせない、何をするかわからないから規制する。その発想から生まれるのは、自ら律することができない、自らの危険を自らで回避できない子どもたちです。

 僕たちが怪我をしなかったのは、体験によって身につけた身体の動きと育ったメタ認知があったからです。たいせつな状況判断や危険度の認識・注意力も、体験を重ねることで身についていきました。自らを守れる智恵の育成です。活発な行動をくりかえすことで、事前に危険を悟り怪我をさけるべくメタ認知が発達し、どうすれば危険をさけられるかということがきちんとわかっていたのです。

 

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見せズ --- 他人事になった死で「なくすもの」

2012年09月01日 | 学ぶ


 「怖がるので、身内の葬儀には連れて行かないし、死に顔も見せたことがありません」。

数年前、三者懇談に来られた男子団員のお母さんのことばです。

 日ごろの言動から、五年生になった彼には、そろそろ人間や人生にも心を向けてほしい時期でした。次の懇談も迫っていたので、ぼくの返事を伝えられないまま話は終わりました。
 伝えておきたかったのは、「喪葬は悲しい出来事ですが、子どもたちが生命のかけがえのなさ・人生のたいせつさを考える大きなきっかけになります」ということでした。

 

 かつて貧しかった日本の家庭では、家で病人を囲い、家族全員が病気の成り行きを見守り、心を痛め、ひとりが家族に占めている重さが、子どもたちにもわかりました。症状に一喜一憂し、子どもたちは病む苦しみを間近で見て優しさを身につけていきました。
 命が終わったとき、切り裂かれるようなつらさや悲しさとともに、「人は死ぬものだ」ということに気づきました。「命あることの意味」と「命のたいせつさ」が身にしみました。
 喪葬は、お世話になった人を敬意をもって見送る儀式であるとともに、先立つ人たちが後に続く人たちに、人生のかけがえのなさと大切にしなければならないものをわかりやすく教えてくれる儀式でもあります。

 若くて身体が丈夫で健康であれば、自らの死について真剣に考えることはほとんどありません。というより、できるだけ避けようとするのが人の常です。また、環境や家族構成の変化などで、死について考えざるをえなくなるきっかけが少なくなりました。身のまわりの人たち、見覚えのある人たちが亡くなっていく姿に子どもたちが出逢う機会は、今そんなに多くありません。

 

 医学や医療技術・薬の発達や進歩で「生と死」を医師や病院にゆだねたことで、「死」は次第にぼくたちの元から離れていきました。いつの間にか死ぬことを忘れ、「他人事のように表現される死を他人事のように聞き流す」ようになりました。

 薬のコマーシャル・数々の健康番組、そのほとんどが、こういう生活をしていると「死にやすくなりますよ!」というものであったり、こういう症状があれば、すぐ「薬」や「名医」の元へという「とりあつかい」です。あたかも「死は避けられる」かのような印象を与える演出で、死を正面から考える機会は生まれません。
 ドラマやドキュメンタリーで出てくる死は身近な死ではありません。画面で見ている意識を凌駕し、死を手元に引き寄せる想像力はだれもが持ちえているわけではありません。現実に目の前で起きた出来事のように、全身で感じるわけではありません。身に迫らない危険は自らの危険ではありません。
 そういう環境に慣らされてしまった僕たちは死に対する「環覚」が大きく変わり、意識は「死なないほう」ばかりに向かっています。しかし、だれもが厳然として迎えなければならないものであることは、昔も今もいささかも変わりありません。

 「人生の先輩」として、この厳粛な事実は、子どもたちにきちんと伝えなければならないことではないでしょうか。怖がるからと、必要以上に「死」を意識から外すと、「生きていること」を大切にすることはできません。「死ぬこと」を忘れてしまうと、ぼくたちは「生きていること」も忘れてしまいがちです。無為な時間が増え、「生きているはずの時間」が意味をもたないまま闇に消えていきます。
 先述の引用のように「生きているからこそできること」、「生きているうちにしなければならないたいせつなこと」を忘れるからです。一度限りの人生をたいせつにはできません。そこに英知は生まれません。

 

 人生のたいせつさがわからなければ、人生をより大切にしようという考えは浮かびません。「すぐには結果のでない勉強」をするために、机に向かう気になどならないでしょう。
 人生をよりたいせつにするためには、どんな意味においても「学ぶことが欠かせない」という考えまで到底たどりつけないからです。ぼくたちは、意味のないこと・たいせつだと思えないことを、いつまでも一生懸命する気にはなりません。「見せず」は、こうして英知を遠ざけます。
 中学生以上になったOB教室の諸君たちには、意識して死のことに触れます。そして怖がることはないと付け加えます。自分ひとりしか経験しないなら、「むちゃこわい」けど、結局みんな経験することだから、と。

 

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