子どもたちをどう育てるか?
子どもたちにしっかり伝えたいルール。
たとえば、ルール一には
大人の質問に答えるときには、「はい、そうです」とか「いいえ、ちがいます」というように、いつもきちんとした言葉づかいで答えよう。ただうなずくだけではだめだし、乱暴な答え方もいけない。(同書二二ページ)
ルール十二には
リーディングの時間にわたしが読んでいるときには、その部分をちゃんと目で追っていること。指名されて続きを読めといわれたら、どこから読めばいいかがすぐにわかるようでなければならない。(同七六ページ)
社会生活上のルールや授業中のルールなど、今はほとんどないがしろにされていますが、かつては当然だったルールが列記されています。後者など、現在では「なぜ、そうしなければいけないのか」、その理由がすぐにはわからない人も多いのではないでしょうか。
ここからは、「先生の言うことを聞く」というような一面的で「権威主義的(!)」な理解ではなく、そうして「授業に集中しないと(集中力をつけないと)学習内容の理解が十分には進まない、というたいせつな意味をくみ取る」必要があります。学習内容に対する先生方の指導力の裏付けが必要であることはもちろんですが。
こういうルールもあります。
ルール三十七
校外学習や旅行から戻ったときには、わたしとはもちろん(原文ママ)、付き添ってくれた人全員にお礼をいおう。きみたちを連れてゆくために時間を割いてくれた人に感謝し、よい経験ができたよろこびを態度で表すのだ。(同一五五ページ・以下略)
こうしたルール集の翻訳を「外国から手に入れなければならない」という現状。現在の日本の子どもたちのようす。
一方では、陰にすっかり隠れて話題にさえならなくなった現実。明治維新前後の外国人の日記や旅行記の記述、人間性のすばらしさで感嘆と賛辞の的だった日本人がいたこと。本をひもとき、両者を重ね合わせてみると、今昔の差に「呆然」ではないでしょうか。
「古くても良いものはよい」と「頑固に言い張る人たち」がいなくなりつつある今、「異常」という感覚が少しでも巷に漂っているうちに、子どもを指導すべき基準を、改めてきちんと見直す必要がある。それもできるだけ急ぐべきだ。そう思えてなりません。
指導を始める前(二十年以上前になりますが)までは、ぼくも「きちんとした生活習慣」や「基本的なしつけ」が学力や成績と大きく関わるなどとは考えもしませんでした。 子どもたちと家庭環境、そしてその後の成長の姿を比較対照できる立場にならないと、ほとんどわからないからです。
団で指導経験を重ねるにつれ、成績や学力・育っていく人間性と家庭環境には、無視できない大きな相関関係があることが心底わかるようになりました。「人の話をきちんと聴ける」、「話に集中できる」など、基本的な「しつけ」の有無が、如何に学力や学力の伸長に大きな影響を及ぼすか。育った目の届かせ方や気配り・人生に対する真摯な態度・裏表のなさが、学力の伸長を大きく後押しする揺るぎない「学体力」を育てていきます。
ないがしろにされている「ルール」。子どもたちの健やかな成長のために「本当に大切なこと」を受験勉強一辺倒ではなく、もう一度考えてみませんか。やがて、「育った子どものすばらしさ」によって、そのたいせつさがよく理解できるはずです。