難しい問題がおもしろくてしかたがない
さて、その勉強の「おもしろさ」に到達したようすを紹介しておきます。まず、iPS細胞発見の山中教授です。
数学は大好きだったので、すごくやりました。「自分に解けない問題はない」とまで思ってましたから。勉強というよりも、今の「数独パズル」のような感じで、難しい問題を解くのが趣味だったんです。小学生の時から、「なんとかの500題(原文ママ)」のような問題集をトイレに置いておいて、トイレの数学の時間を持っていました(笑)。高校の時には「大学への数学」という問題集をやりました。(「大発見」の思考法 山中伸弥・益川敏英著 文春新書 p54)
同じ本で益川教授は、こう述べています。同じく楽しくてしかたがないようすが読みとれます。
ふだんは僕は、頭の中で数式と遊んでいるだけ。難問を考えるのが、楽しくてしかたないの。僕にとっては、物理も数学も天文学も子どものおもちゃみたいなもの。一生をかけて遊んでもらっているという気がします。(「大発見」の思考法 山中伸弥・益川敏英著 文春新書 p107)
学体力が定着するまでー学体力の養成
中学校の生徒の、数学についての作文にこんな感想があります。長くなりますが、「学体力」が身についた子どもの「心の動き」がよくわかります。そのまま引用します。
「数学というものを勉強していて感じること。それは苦痛に耐えた喜び、と言ったら大げさに聞こえるでしょうか。しかし、初めて見た時、めんどうなようでとっつきにくく、いやだなあと思っても、一所懸命くり返しやっていくと、必ず「数学っておもしろいなあ」という楽しさと、「あの難問と思ったものが解けた」という喜びが、必ず心の中でわきあがっていると思います。
また、喜びだけではなく、「くやしい」と思うこともしばしばです。特に計算問題等で、小さなミスのために答えがくるってしまった時は、何ともいえない気持ちです。しかし、それに耐えるということも、同時に学んでいると、私は思います。つまり、数学は、私たちの頭の中といっしょに、心の中もかき回しているのです」
(「子どもの成長と脳のはたらき」 千葉康則・近藤薫樹著 有斐閣新書 p63 傍線は南淵)
勉強(数学)がおもしろくなってきている少年の心理状態が素直に現れています。しかし傍線部を見てもわかるように、勉強がおもしろくなるまでには、まだ「がんばり」や「がまん」が欠かせません。「心の中をかきまわされて」、自分を納得させながらの日々を送っています。
何かが上手になったり、できるようになったりする過程では、日々の努力と積み重ねは欠かせません。数学がいくらできたとはいえ、「トイレに問題集を置いて難問を解いていた」山中教授もそうですね。
つまり、子どもにいちばん伝えなければならないことは、「すぐできる」や「簡単にできる」という「嘘八百」ではありません。斉藤先生がおっしゃっていた、「誰に言われたわけでもなく、なぜこんな退屈な作業を毎日繰り返していたのか」と不思議に思うくらいの努力を重ねること、そしてその努力を真っ当につづければ、やがて大きな実りをもたらしてくれるという、「正道を歩み続けることの『期待』と『夢』」だと思います。
そして、斉藤先生がおっしゃるように、「受験英語と英語の区別を取り払う」だけではなく、「受験勉強と勉強の区別を取り去る方策」を、ぼくたちは考えなければなりませんね。受験を無視するのではなく、「受験など簡単に克服できる」ような。
学体力が培う『生きること』
ファインマンの少年時代、大英百科事典の読み方(理解のしかた)を覚えていますか? 少年の心理状態を考えるために、もう一度見ておきましょう。
ぼくには本がむずかしいと思ったときの秘策があった、たとえばブリタニカの静電気の項目のような、むずかしいと思ったようなところには。どうやったかと言えば、たとえ最初の二つ三つの段落でわからなくなったとしても、ともかく記事を通して全部読むんだ。はっきりしないままでも全部読んで、その次にもう一度読み通すと、少し理解が進んでる、それを最後まで続けていく。そして、わかったことをノートに書き留めていく。やり終えたときは、その項目については一丁上がりだった。後で説明するが、どうしてもわからなかった、いくつかの例外を除いてね。
("No Ordinary Genius" Edited by Christopher Sykes ,W.W.NORTON & COMPANY p33 拙訳)
理解するまで決してあきらめていません。何度もくり返しています。ファーブルが弟に提唱した『勉強法』もこうでした。
「なにかこまることがあっても、けっして他人の力を借りてはいけない。はたのものから助力を受けたのでは、けっして難問は解けないばかりではなく、困難はまた、ちがったかたちでおまえを苦しめるだけだ。大切なことはじっと耐えしのぶこと。そして自分で考えること。さらに、みずからすすんで学びとろうとすること・・・・・・。これほど役に立つことはない。これが理解への遠くて近い道なのだ」
(「ファーブルの生涯」G・V・ルグロ著 平野威馬雄著訳 筑摩書房)
ファインマンやファーブルの方法を、こうして振り返ると、引用の少年の努力の過程がよく理解できます。学体力が養成されていく過程です。少年は「数学」を勉強する過程で、「心の中をかき回され(!)」、「耐える」ということも学んでいます。数学の勉強を通して、一生涯役に立つ学体力の成立に向かって進んでいます。
「がまん」や「努力」を少しずつ継続できなければ、「どんなことも一人前にマスターすることはできないだろう」ということさえ、学んでいます。人生でぶつかる「壁」について、彼は次のように述べています。
「数学を好きな人はともかく、嫌いな人の中には、頭からわからないと決めつけ、問題等を捨てがちです。これは捨てるというよりも逃げていると言うべきでしょう。苦痛に耐える強い心を持てずに逃げているのです。このことは、人間の生きていくうえで、いろんな難問にぶつかった時、いつも逃げていることと同じことだと思います。(中略)」
(「子どもの成長と脳のはたらき」 千葉康則・近藤薫樹著 有斐閣新書 p63)
この少年はおそらく、ご両親から、「むずかしい問題や困難に逃げずに立ち向かわないと、次はもっと大きな障壁になって前に立ちはだかる―実は「団でいつも子どもたちに伝えていることば」です(笑)―等と、「人生の真実」を訓導されていたのでしょう。同じような感想はファーブルの弟への手紙にもありましたね。
子どもの心の中に「人生の真実がきちんと反映される」と、こういうしっかりした心構えが身につくわけです。勉強は勉強だけで終わりません。「学体力」の養成には、「子どもにきちんと向かう」親の姿勢が大きく影響します。
この少年は最後に次のように言っています。
このように、数学とは、私たちの頭の中をいじめるかわりに、私たちに、苦難に耐える強い心、また、それにぶつかっていく勇気、そして物事を一つひとつ深く考えていく力を与えてくれている、たのもしい先輩とでもいうようなものだと私は思います。
(「子どもの成長と脳のはたらき」 千葉康則・近藤薫樹著 有斐閣新書 p63)
もはや数学が単に「勉強」ではなく、彼の中では「生きていく支え」、自らに指針を示してくれるべき「たのもしい先輩」、学ぶことは「生きていくことの一部」という認識、その存在感を示しています。小さな「がまん」から始まった、一生ともにできる学体力の「完成」です。
「おもしろくなる」「欠かせない存在になる」勉強、学体力の定着の道筋は、まず「わからないこと・難しいこと」にひるまず向かい、途中であきらめない、「小さながまん」からです。
次回は、福井博士のほんとうの勉強法について、もう少し詳しくたどりましょう。