『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

学体力とは何か?⑤

2014年09月27日 | 学ぶ

難しい問題がおもしろくてしかたがない
 さて、その勉強の「おもしろさ」に到達したようすを紹介しておきます。まず、iPS細胞発見の山中教授です。

 数学は大好きだったので、すごくやりました。「自分に解けない問題はない」とまで思ってましたから。勉強というよりも、今の「数独パズル」のような感じで、難しい問題を解くのが趣味だったんです。小学生の時から、「なんとかの500題(原文ママ)」のような問題集をトイレに置いておいて、トイレの数学の時間を持っていました(笑)。高校の時には「大学への数学」という問題集をやりました。(「大発見」の思考法 山中伸弥・益川敏英著 文春新書 p54)

 同じ本で益川教授は、こう述べています。同じく楽しくてしかたがないようすが読みとれます。

 ふだんは僕は、頭の中で数式と遊んでいるだけ。難問を考えるのが、楽しくてしかたないの。僕にとっては、物理も数学も天文学も子どものおもちゃみたいなもの。一生をかけて遊んでもらっているという気がします。(「大発見」の思考法 山中伸弥・益川敏英著 文春新書 p107)
 
学体力が定着するまでー学体力の養成
 中学校の生徒の、数学についての作文にこんな感想があります。長くなりますが、「学体力」が身についた子どもの「心の動き」がよくわかります。そのまま引用します。

 「数学というものを勉強していて感じること。それは苦痛に耐えた喜び、と言ったら大げさに聞こえるでしょうか。しかし、初めて見た時、めんどうなようでとっつきにくく、いやだなあと思っても、一所懸命くり返しやっていくと、必ず「数学っておもしろいなあ」という楽しさと、「あの難問と思ったものが解けた」という喜びが、必ず心の中でわきあがっていると思います。
 また、喜びだけではなく、「くやしい」と思うこともしばしばです。特に計算問題等で、小さなミスのために答えがくるってしまった時は、何ともいえない気持ちです。しかし、それに耐えるということも、同時に学んでいると、私は思います。つまり、数学は、私たちの頭の中といっしょに、心の中もかき回しているのです
 (「子どもの成長と脳のはたらき」 千葉康則・近藤薫樹著 有斐閣新書 p63 傍線は南淵)

 勉強(数学)がおもしろくなってきている少年の心理状態が素直に現れています。しかし傍線部を見てもわかるように、勉強がおもしろくなるまでには、まだ「がんばり」や「がまん」が欠かせません。「心の中をかきまわされて」、自分を納得させながらの日々を送っています
 何かが上手になったり、できるようになったりする過程では、日々の努力と積み重ねは欠かせません。数学がいくらできたとはいえ、「トイレに問題集を置いて難問を解いていた」山中教授もそうですね。
 つまり、子どもにいちばん伝えなければならないことは、「すぐできる」や「簡単にできる」という「嘘八百」ではありません。斉藤先生がおっしゃっていた、「誰に言われたわけでもなく、なぜこんな退屈な作業を毎日繰り返していたのか」と不思議に思うくらいの努力を重ねること、そしてその努力を真っ当につづければ、やがて大きな実りをもたらしてくれるという、「正道を歩み続けることの『期待』と『夢』」だと思います。

 そして、斉藤先生がおっしゃるように、「受験英語と英語の区別を取り払う」だけではなく、「受験勉強と勉強の区別を取り去る方策」を、ぼくたちは考えなければなりませんね。受験を無視するのではなく、「受験など簡単に克服できる」ような。

学体力が培う『生きること』
 ファインマンの少年時代、大英百科事典の読み方(理解のしかた)を覚えていますか? 少年の心理状態を考えるために、もう一度見ておきましょう。

 ぼくには本がむずかしいと思ったときの秘策があった、たとえばブリタニカの静電気の項目のような、むずかしいと思ったようなところには。どうやったかと言えば、たとえ最初の二つ三つの段落でわからなくなったとしても、ともかく記事を通して全部読むんだ。はっきりしないままでも全部読んで、その次にもう一度読み通すと、少し理解が進んでる、それを最後まで続けていく。そして、わかったことをノートに書き留めていく。やり終えたときは、その項目については一丁上がりだった。後で説明するが、どうしてもわからなかった、いくつかの例外を除いてね。
("No Ordinary Genius" Edited by Christopher Sykes ,W.W.NORTON & COMPANY p33 拙訳)

 理解するまで決してあきらめていません。何度もくり返しています。ファーブルが弟に提唱した『勉強法』もこうでした。

 「なにかこまることがあっても、けっして他人の力を借りてはいけない。はたのものから助力を受けたのでは、けっして難問は解けないばかりではなく、困難はまた、ちがったかたちでおまえを苦しめるだけだ。大切なことはじっと耐えしのぶこと。そして自分で考えること。さらに、みずからすすんで学びとろうとすること・・・・・・。これほど役に立つことはない。これが理解への遠くて近い道なのだ」
                (「ファーブルの生涯」G・V・ルグロ著 平野威馬雄著訳 筑摩書房)

 ファインマンやファーブルの方法を、こうして振り返ると、引用の少年の努力の過程がよく理解できます。学体力が養成されていく過程です。少年は「数学」を勉強する過程で、「心の中をかき回され(!)」、「耐える」ということも学んでいます。数学の勉強を通して、一生涯役に立つ学体力の成立に向かって進んでいます
 「がまん」や「努力」を少しずつ継続できなければ、「どんなことも一人前にマスターすることはできないだろう」ということさえ、学んでいます。人生でぶつかる「壁」について、彼は次のように述べています。

 「数学を好きな人はともかく、嫌いな人の中には、頭からわからないと決めつけ、問題等を捨てがちです。これは捨てるというよりも逃げていると言うべきでしょう。苦痛に耐える強い心を持てずに逃げているのですこのことは、人間の生きていくうえで、いろんな難問にぶつかった時、いつも逃げていることと同じことだと思います。(中略)」
      (「子どもの成長と脳のはたらき」 千葉康則・近藤薫樹著 有斐閣新書 p63)

 この少年はおそらく、ご両親から、「むずかしい問題や困難に逃げずに立ち向かわないと、次はもっと大きな障壁になって前に立ちはだかる―実は「団でいつも子どもたちに伝えていることば」です(笑)―等と、「人生の真実」を訓導されていたのでしょう。同じような感想はファーブルの弟への手紙にもありましたね。

 子どもの心の中に「人生の真実がきちんと反映される」と、こういうしっかりした心構えが身につくわけです。勉強は勉強だけで終わりません。「学体力」の養成には、「子どもにきちんと向かう」親の姿勢が大きく影響します。
 この少年は最後に次のように言っています。

 このように、数学とは、私たちの頭の中をいじめるかわりに、私たちに、苦難に耐える強い心、また、それにぶつかっていく勇気、そして物事を一つひとつ深く考えていく力を与えてくれている、たのもしい先輩とでもいうようなものだと私は思います。
       (「子どもの成長と脳のはたらき」 千葉康則・近藤薫樹著 有斐閣新書 p63)

 もはや数学が単に「勉強」ではなく、彼の中では「生きていく支え」、自らに指針を示してくれるべき「たのもしい先輩」、学ぶことは「生きていくことの一部」という認識、その存在感を示しています。小さな「がまん」から始まった、一生ともにできる学体力の「完成」です

 「おもしろくなる」「欠かせない存在になる」勉強、学体力の定着の道筋は、まず「わからないこと・難しいこと」にひるまず向かい、途中であきらめない、「小さながまん」からです
 次回は、福井博士のほんとうの勉強法について、もう少し詳しくたどりましょう。

 


学体力とはなにか? ④

2014年09月20日 | 学ぶ

学習の王道のたいせつさー斉藤兆史先生の英語学習法から
 先週、1981年ノーベル化学賞受賞の福井謙一博士の勉強方法を紹介しました。
 「浅く広く」という「衒学的勉強(福井博士曰く)」ではなく、「量は少なくとも徹底的に読みこなす」という方法の推奨でした。「慣れるまでは、相当のがまんや辛抱」、つまり、「学体力」が要求される方法です。

 ところが、「子どもたちの勉強」に限らず時世は、何につけても「やさしく・手軽に、等」というコピーが踊り、それに踊らされている現状です。福井博士の方法は「多くの子どもたち・親御さんたちの望む学習法とは対極にある」とも言えます。そうした現実を周囲が意識し、子どもたちに意識させるのが、現在もっとも必要な「学習指導(!)」かもしれません。
 少し陰ってきたものの、「安かろう」「悪かろう」という粗製濫造の商品で飛ぶ鳥を落とす勢いの国があります。大昔(!)には、我が国もそんな時期があったようですが、世界的な評価を得る商品を作るためには、まずそれらの克服が前提だったように、長持ちするもの・価値のあるもので、簡単に・手軽に手に入れられるものはほとんどありません。学習や勉強はその筆頭です。

 「何もないところから、子どもたちは、70~80年の長い一生をともにする学力や知恵を身につけなければならない」わけですから、そんなに簡単にいくわけはありません。学習や勉強の結果を手に入れるにも、短くても数ヶ月以上の持続、ふつうは数年以上の努力や我慢が必要になるのは当然です。ぼくたちは、その当たり前のことを、ふだんは意識できないほど、「手軽」という有り様に毒されているのです。
 「手軽さ」を求める需要に呼応して、シャボン玉のような「夢」を売る学習書・学習法が相変わらず花盛りです。しかし少数ですが、中には学習者のことをほんとうに考えてくれている、骨太で良心的な「すこぶる」つきの良書があります

 その一つが、英語の学習用ですが、それに終わらず、学習の王道・正当な学習・その理由もきちんと学べる斉藤兆史教授の著書です。下記引用の下線部の表現に、英語学習者の先々を思いながら、おそらく(?!)苦虫をかみつぶしたような表情で、その上なお、切歯扼腕しておられるだろう斉藤先生の姿が目に浮かぶようです。日々の子どもたちへの自らの指導の経験に照らし合わせると、なぜかほほえましく心強く、英語を学びなおしたいと思っていたぼくは、少しずつ細々と自学を進めています。

 ・・・英語学習の容易なることを謳っているような語学書や英語教材は、本塾の塾生たちにはまったく縁のないものと心得てほしい。とくに「簡単」、「楽々」、「ペラペラ」、「スラスラ」、「スイスイ」(あるいはそれに類する擬態語)、「~週間(~カ月)で身につく」といった文字が表題に見えるような「ハウ・ツー本」の類は、すべて敬遠して間違いない・・・最近では、日本における読書文化の変質や日本人の文字離れにともない、出版社も節操のない語学書の出し方をするようになったからである。    (「英語達人塾」 極めるための独習法指南 斉藤兆史著 中公新書)

 斉藤先生は、「用意するもの」からはじまり、初心者にも理解できるように、英語の学習法を懇切ていねいに説明してくれます。その様子を「これが正しい!英語学習法(ちくまプリマー新書)」の章立てで紹介します。

 第1章予習編―本格的な勉強を始める前に
 英語学習に対する考え方、特に基礎の徹底、学習の正道、「受験英語」という「括り」の無意味さ(勉強には、本来受験勉強と勉強の区別などないはずです)など、真剣に英語を勉強したい若い人には最高のお膳立てからはじまります。蛇足ですが、真摯に実行すれば、つまらない英文学科への進学者など麓にもたどり着けない、はるかな高みに到達できるでしょう。

 第2章授業編―自分に何が足りないかを確認
 基本文法の徹底理解や語彙力の確認など、自らの力の現状把握からのスタートです。己の力を知ること。何をするにも必須の道のりです。それがわからなければ、今後の(学習の)方向さえ見えてきません

 第3章自習編―ここからは努力。音読のたいせつさ・ひたすら書き写すことのたいせつさなど、「基本の反復」、つまり何ごとをマスターするにも、まず心がけなくてはならない「王道」を進むことの提唱です。事細かに、その方法を解説されています。
 
第4章復習編さらなる発展学習のために

 章立てのタイトルだけ見ても、英語学習にとどまらず、学習の王道の提唱であることがわかると思います。こういう「かたい」表現をすると「尻込みする」人がたくさんでてくるかも知れませんが、それを乗り越えることこそ、将来のある子どもたちがいちばん身につけておかねばならないことです
 納得して(納得させて)先へ進むこと・一歩を踏み出すこと。小さな怠惰心の克服がスタートです。後述のように、「手軽」や「簡便」ということばは、ぼくたちの身体のしくみや成長のスタイルとは相容れません。真面目に考えようとすれば、いつかは乗り越えなければならない「壁」です。
 「ほんとうに何かを手に入れたい、入れさせたい」のであれば、ぼくたちがそういう意識から脱却し、その「現実をきちんと日々、わかるようになるまで子どもたちに伝えてあげるべき」だと考えます。

学力や能力の発達はどう行われるか?
 斉藤先生の中学・高校時代の回想です。

 暇さえあれば英語の本を読み、辞書を引き、知らない単語の語義を単語帳に書きつけていたような気がします。いまになって昔の単語帳を開いてみても、誰に言われたわけでもなく、なぜこんな退屈な作業を毎日繰り返していたのかと不思議に思うくらいです
          (「これが正しい!英語学習法」斉藤兆史著 ちくまプリマー新書)

 今は東京大学の大学院の英語の先生ですが、やはり子どものころは、「ほとんど意味がわからないまま(!)、退屈な作業を毎日繰り返していた」のです。「学体力」を身につけさせたい、学力を伸ばしたいと願うのであれば、こうした現実をていねいに子どもたちに伝えてあげましょう。
 プロ野球選手やサッカー選手が決してインスタントや「手軽」な方法では誕生しないように、ぼくたちの能力(つまり学力も)の発達にも、「手軽さ」はほとんど意味がありません。ぼくたちは、この厳訓をきちんと受け入れるべきだと思います。

 

たとえ『簡便』が、みんなの「希望」であり「夢」であっても、実際のぼくたちの身体のしくみや成長のしくみは、未だ「アナログ(!)」のままです。「あらゆる身体のシステム」を振り返っても、「廃用萎縮の筋書き通り」の毎日です。使わなければおとろえ、退化します。つまり、「地道にトレーニングを重ね、少しずつ負荷を増やしていくことで能力を維持する、あるいは発達させる」という原則を離れることはできません
 子どもの身体や能力(もちろん学力をふくめて)も、その原則を外れれば、たいした成果は期待できません。「それなり」は「それだけ」で終わります。

 「自然の摂理」に反した「方法や手段」が、「自然の摂理」とともに生きながらえてきた、ぼくたちの身体、「生存するためのしくみ」とマッチするはずはありません。その原則を再確認し、子どもたちと自らを納得させましょう。発達や伸長という過程ではもちろん、維持するためにも努力と我慢は欠かせません。
 しかし一方で、その「苦行(!)」はいつまでも続くわけではありません。ある段階をクリアすると、「苦行」だと感じていたものが、「おもしろさ」や「喜び」に変わっていくこともよくある話です。「努力」が「いつもの習慣」になるまでが辛抱です。その習慣の継続によって、「シャボン玉」ではなく、「磨くほどに輝きを増していくかけがえのない宝石」を子どもたちは手にすることができるでしょう。

 


学体力とはなにか? ③

2014年09月13日 | 学ぶ

 (今週の写真はOB諸君たちのなつかしい「想い出のアルバム」です)
しつけのたいせつさー聴く姿勢と学体力
 もちろん学習は、「おもしろい」という意識が先に立って「脇目もふらず」という姿勢で進められるようになることが理想です。しかし、最初からそんなにうまくいくことは、まずありません。指導者の力量や子どもの精神状態・学力レベル等という問題が常に混在しており、たいていスムーズにはいきません。

 学習内容と環境相互の関係に注意を払い、周囲に対する「環覚」を育て、できるだけ学習内容にも興味をもてるような指導を重ねても、「遊びたい盛り」あるいは「まだ学習することの意味やおもしろさがわからない間」はむずかしいことを考えつづけたり、わかりにくい本を読み続けたりする力を定着させるのはかんたんではありません。年単位の指導になるのがふつうです

 そういう初歩的な段階で、「望むべく方向に向かう姿勢が可能になるかどうか」の「決めて」になるのは、まず家庭でのそれまでの「しつけの有無」です
 「人の話をすわってきちんと聴くことができる」「相手のいうことをわかろうとする姿勢ができている」など、日常生活での、かつては当然だった「指導」です。
 「しつけ等は勉強とは何の関係もない」と考える保護者の方も多いでしょうが、学力もふくめた、子どものバランスの良い成長を考える際には、こうした対人関係や社会的なエチケットやルールの指導を抜きにして考えることはできません。

 たとえば、「時間を守る」という意識は「テストに対する時間配分」の根幹です。また、学校での学習にかかわらず「新しく何かを学ぶ」ときには、「まず人の話をきちんと聞く」という態度は必須です。さらに、先述の「むずかしいことを考える」・「わからない本を投げ出さずに読んでみる」という「少しのがまん」の「もと」も「しつけ」です。
 「しつけ」は今ではほとんど話題にもなりませんし、多くの子どもたちの様子を見ている限り、子育てで、以前ほど「重視」もされていないようです。しかし、しつけをしなければならない「究極の理由」は、それが「先述のように、結局子どもたち自身のためになること」であり、また「できるだけ他の人に迷惑をかけない」という「社会生活の原則」に則している一員になるためです。ぼくたちはもう一度、この基本を思い起こす必要があるようです。

子どもより先に「あきらめない」
 「がまん」。「難問に対して考えようとする姿勢も見せず、努力もせず」という子、すぐあきらめる子どもたち。その大きな原因は見るところ、小さいころの「ちょっとしたがんばり」や「少しずつのがまん」を教えなかったこと。そういう状態がふつうになってしまったこと。それに尽きるような気がします。
 小学生も高学年になるにつれ、がまんを身につけさせることは次第にむずかしくなります。なかなか身につきません。

 つまり、小さいころに、「多くの人には思いの他の」学習や成績に限らぬ「諸悪の根源」があるわけです。小さいころの「子育てスタイル」や「しつけ」こそたいせつです
 さらに、表面だけを見て「学習に向いていないとか、勉強がダメだ」とかの理由をつけて「放置される(!)」場合、人任せにする場合、周囲があきらめてしまう場合が、今は多々あるようです。周囲が「がまん」できない、あきらめてしまう状態です。
 「わかるまで努力を重ね」学問のおもしろさを手に入れる子に育てるには、当然のことですが、周囲や保護者の「努力」がなくては叶いませんね。子どもに「がまん」をさせるには、目的が達成できるまで、周囲のおとなが「がまん」しなければなりません。

 「芽」を出すには、「種蒔き」や「水やり」を欠かすことはできません。周囲が根気よくつづけなければなりません。そこで必要になることは、「子どもの可能性の大きさを信じること」「『二人の夢』を育てていくこと」。先週の冒頭の対談はそれを教えてくれています。
 そういう環境が整わないと(努力をしないと)、「勉強(!)」にも本来ならもっと関われる(!)子が、年齢を重ねるとともに「どんどん勉強からはなれていくこと」になりかねません。もともと「能力が原因ではない」が故に、可能性が花開かないとすれば誰のせいなのか。哀しく残念なことですね
 さて、「学体力」が備わった偉人たちの勉強の仕方はファーブルの弟へのアドバイスの手紙で紹介しました。また、ファインマンが自らも実践し、妹にアドバイスしたむずかしい本を読む(理解する)方法も紹介しました。(「学体力とは何か」①②ほか)
 今週はノーベル化学賞受賞の福井博士の「勉強の仕方」を紹介します。

福井博士の勉強法ー徹底的に読むこと(読めること)のたいせつさ
 福井博士の著書からです。

 広く学ぶことは大切である。そのために刻苦勉励することも、もちろん大切である。が、それは多数の文献を読み、多量の知識を不統一に吸収することとイクォールではない」。したがって、「私は多数の文献を読んで知識を集めるという、いわば衒学的勉強を捨て、数少ない文献を徹底的に読みこなす勉強態度を自分に課していた。         (「学問の創造」 福井謙一著 佼成出版・p107~109)

 字義通りに「多数の知識や文献の勉強の否定であるという解釈』はもちろんまちがいで、「優先順位の誤解」を解くもの、「取りかかった書物の理解の徹底」を説いたものです。たくさんのものを広く浅く読むより、「徹底的に読みこなすことを重視する方法」です
 一方で、知識を広く浅く、受験対策として身につける現在の子どもたちの様子が彷彿としてきます。受験知識を試験対策用に要領よく教えられるばかりで、「ひとりで考える」という姿勢がなかなか身につかない、育たない。そうした指導の反省や教訓も、この一節から、ぼくたちはくみ取るべきではないでしょうか。

 ノーベル賞学者の勉強方法と受験学習を比較すれば顰蹙を買いそうですが、理解と能力の関わりという意味から考えます。
 福井博士の方法から、先週の「鉄板」といわれる数学の参考書を五周・十周するという、数学能力に長けた東大エリートたちの方法の理解の深さと問題解決能力の定着も、さもありなん。類推できます。「徹底した理解」が能力(学力)にもたらすおおきな影響です
 いずれにしろ深い理解を求めるための、これらの学習態度には「学体力の養成」が欠かせませんね。学習指導では、少しずつ「がまん」をさせることを、「学ぶおもしろさを伝えること」とともに、きちんと意識しなければなりません。

 ファーブルが弟に提唱した「なぞをひとりでくり返し考え、解くこと」(「学体力とは何か①」参照)、またファインマンの「わからなくなるところまで読む。そして最初からもう一度読み通すと、少しずつ理解が進み、一丁上がりになる」も、表現は変わっても、結局は同じことを言っています。 簡単にあきらめずに、答えや理解を追究する姿勢です。つまり、「学体力」の定着です。それによって学習も(もちろん将来も)「大きく花開く」ということですね

「徹底的に読む」とはどうすることか
 福井博士の勉強法は、中学・高校生以上なら実行できる方法です。まず、推奨されているのは、「手を動かす」ということです。

 「図書室で閲覧させてもらった(そうした・南淵括弧)書物を読む時、私は関心を覚えた箇所があると必ず紙に写すことにしていた。外国の教科書で写したい箇所が厖大にある場合には、さすがに骨が折れるので、そのときは要点を書きとめることにした。これは複写機械の発達した今日からみると、いかにも手間のかかる方法だといわねばならないが、決して無駄ではなかったと思う。手を動かして学んだということが、血となり肉となったからである」。           
                        (「学問の創造」福井謙一著 佼成出版p114~115・傍線・文責南淵)

 「手を動かして学ぶ」ことは、脳のはたらきに照らし合わせてみて、「記憶する」のに役だったのは当然ですが、それ以上に、「要点を整理すること」が「血となり肉となった」つまり「理解を定着させることに役だった」、「深い理解を可能にした」のです

 次は湯川秀樹博士の考えです。

 「人間は、やっぱり、平生から記憶をきちんと整理して、オルガナイズする、いろいろな知識を―自然とおぼえた知識でも、自分が努力して獲得した知識でも―自分なりにうまく組織化しておかなければなりません。整理のしかたには高度なものから非常に簡単なものまで、いろいろありましょうが、整理することと、理解することとは密接に関連しているように思われます。教育にはそういう、すぐに記憶を再生する能力が身につくようにする効果もある。そこで、そういう記憶と理解とかをもとにして、創造性を発現できるようにしたい」    (「創造的人間」湯川秀樹著 筑摩書房 p149・傍線・文責南淵)

福井博士の「要点を書き留める方法」は、つまるところ、湯川博士では「記憶をきちんと整理して、オルガナイズすることになっているだけ」であることが、よくわかるのではないでしょうか。
 以前、私立中高一貫校や進学校でよく行われている「書き込み問題集」に「答えを書き入れ、提出させ、結局一回で使い捨て(!)にすること」の「愚」を話題にしました。
 「記憶すること」に対する「頭のはたらき」から考えてみれば、「体裁だけの宿題や学習」にしかならない、軽佻浮薄な方法であること」つまり、ほとんど「役に立たないであろうこと」は、これによっても明らかです。

 当初は時間がかかっても「読む・まとめる」をトレーニングする、ノートに自ら書き留めていく過程で「考えること」と『記憶や学力』の定着が行われること。それが「学力を高める」最善の方法であることが二人の偉人の回想からよくわかります。
 来週は「学体力」の成立過程、その後福井博士の「勉強方法」、福井博士がおっしゃっている「血となり肉となる、本の読み方」を紹介します。


学体力とはなにか? ②

2014年09月06日 | 学ぶ

 最近読んだ本です。改めて子ども指導への思いを強くするきっかけになった一節です。

 平澤 結局、基本的には人間みな天才になり得る可能性があるんですよ。しかし、それにはやっぱり、先生とか親とかね。そういう機会がなければね。

 森 ごもっとも。
         (「現代の覚者たち」対談 森信三/平澤興 致知出版社よりp234)

 子どもは可能性にあふれています。その可能性をより大きくし、「夢を探す」ためには学力は欠かせません。そして「学力」を養うには『学体力』がかかせません
 

また、望む・望まないにかかわらず、意識しようとしまいと、「生きていくことは学ぶこと」です。学校の勉強・「生活の資を得る」ためはもちろん、公民としての権利や義務・・・趣味・日々の生活の息抜きやリクリエーションまで、すべて「学ぶこと」と切り離すことはできません。
 学ぼうとしない、学べない。そういう状況は、ひとりの人間として望ましい状態とは決して言えません。「学ぶ力」「学ぼうとする力」「学びつづけられる力」、つまり「学体力」は、子どもたちにぜひとも手に入れてほしい力です。
 湯川秀樹博士の著書の一節です。

 私は研究者として、今日まで研究を続けてきておりますが、研究を続けてゆくということ、これは同時に学習することでもあるわけであります。研究といえば、いかにも大きなことのように思われますが、私が自分で独創的なことを年がら年中やっているかというと、もちろん、そんなことはないのです。どんな天才的な学者でもそんなことはしておりませんやっぱり人の書いた論文を読んだり、本を読んだり、それを理解しようとする。また、計算をしたり、実験をする、といいましても、それもなるほど研究生活の一部ではありますけれど、それらはすべてが独創ではありません。つまり学習と研究とは、それほどちがったことではなく、しかも一生ずっと続いてゆくものなのです
                                          (「創造的人間」湯川秀樹著 筑摩書房 p160・下線は南淵)

 学ぶことは「一生続いてゆく」のです。湯川博士はこのあと、科学者以外の人についても、次のように述べています。

 それでは、研究生活に入らないで、社会に出てしまった人の場合はどうなのでしょうか? 私は、この場合も、研究者の場合と、まったく同じことだと思うのです。四角ばって研究とか、学習とかいわないだけのことで、学校に行かなくても、書斎にこもらなくても、また、研究室にいなくても、やはり人間は、学習しつづけている。形はいろいろありましょうが、どこまでも学習をつづけているのが、人間のほんとうの姿だと思うのです。
                                                    (「創造的人間」湯川秀樹著 筑摩書房 p162)

 「人間のほんとうの姿」、つまり、ぼくたちが真摯に生きようとすれば、人生を大切にしようと思えば「学ぶこと」を切り離すことはできないということです。わかりやすいように、「学体力」は科学や勉強を例にして考えてきましたが、もちろんそれらに限らず、「学ぶことすべてに関連する力」を意味していることはいうまでもありません

 さて前回のファーブルの例やファインマンにつづいて、これから日本のノーベル賞学者を例に、身についた「学体力」について紹介しますが、今週は身近なところで、「学体力と勉強方法」について考えてみます。

量から質への転化ー学体力が培う東大数学合格力
 学体力と勉強の関係。教育や自己啓発について、多数の著作がある齋藤孝さんの著書からです。少し長いですが、学体力が可能にする難関大学受験のための「数学」克服法、『量から質への転化(!)』です。受験生の参考になるようなエピソードを紹介します。

 東大の理Ⅲや京大や慶大の医学部合格、「天才的に(!)」数学のできるトップクラスの受験生たちはどういう勉強法だったのか。「偉人たちのブレイクスルー勉強術」(斎藤孝著・文藝春秋p239~241)に、斉藤さんが、彼らにその勉強方法を尋ねたときの答えがあります。

「どうやってできるようになったの?(数学の難問の克服です・南淵・注)」と聞いたときに、口々にこんなことを言いました。
「ただ、問題集を五周、十周するだけですよ
そうそう、十周すればたいていできるようになりますよ
 彼らはこれぞ"鉄板"といわれているような問題集を、五回、十回と繰り返し解く。そのことを、「何周する」という言い方をするのです。みんな信じられないぐらい繰り返して鍛錬している。勉強には、理解するプロセスと習熟するプロセスの両方が必要です。
                                                            (引用は上記書・下線は南淵)

 そして、例題をわかっても、それは習熟したこと(理解が整って自分のものになった・南淵・注)にはならない、「わかるとできるは大違いなのです」と述べます。これは、団でも京大や神戸大などの受験生にアドバイスして効果を出している方法です。当然と言えば、当然のことなのですが「習熟が可能にする飛躍」です。

 学習に限らず、ぼくたちのあらゆる能力は習熟度・錬磨によって信じられない飛躍を遂げます。芸能やスポーツに限らず、振り返れば、それらの例は皆さんも日ごろからよく見かけられていることでしょう。何回も練習・トレーニング・解答し続けられる力、これらは「学体力」のなせる技です。

 「重要問題集を十周しろと言われて、十周できる人はできるようになる。何周もできないとあきらめてしまう人はできないまま。比較的数学のできる人が鍛錬に鍛練を重ねて習熟していくので、ますますできるようになっていく。「数学が苦手だ」と思っている人ほど周回練習をやらない。これが現実なのです」。                                                        (同上引用・下線は南淵)

 つまり、目標があり受験合格したければ、当たり前に合格するために必要なのは『学体力』であり、「楽体力(!)」ではありません。重要問題集にしろ、難関大学用参考書にしろ、「ひとりで」十周(十回くり返し学習)できますか? 果たして、難関大学受験生諸君は、それが身についているでしょうか? 

 先ほどの湯川博士の引用にありました「学習」と「研究」のエピソード、「天才的な科学者も、ふだんから独創的なことがらばかりやっているわけではない。学習と研究はそれほどちがったものではなく、一生続いてゆくものだ」ということばに、「学体力」の存在、また何をするときにも必要になる大切な力だということがよく現れています。
 ファインマンの回想を思い起こしましょう。

 ぼくはおとなになったとき、日を継ぎ夜を継ぎ、困難な問題にも精魂込めて取り組めるようになった。年数を重ねなければならないこともあったし、短いときもあった。多くは失敗だったし、ゴミ箱送りのものもたくさんあったが、偶に、子どものころ観察の結果を期待したような光り輝く着想も得られた。
(The Pleasure of Finding Things Out  by Richard P. Feynman PENGUIN BOOKS  p182  拙訳・下線は南淵)

 下線部を読んでください。一家を成し遂げた人たちはみんな同じです。子どもたちが身につけるべきは、まず「学体力」だということも、これによってよく理解できます。

 受験に限らず、目標を叶えるためには、欲しいものを手に入れるためには、受験するためには、「『それにともなう当然のこと』」をすればよい」のです。「当然のこと」ができれば、難関大合格もむずかしくありません。「当然のこと」ができなければ手に入りません
 冒頭の平澤さんの発言をもう一度ごらんください。誰が何を伝えるか、です。
 今の子どもたちは(子どもたちに限らず、ぼくたちも)「やらなければならないこと・当然のこと」ができるように育っているでしょうか? そして、ぼくたちはその現実を「再確認」できているでしょうか? 可能性豊かな子どもたちには、そのことを心を込めて伝えたいと思っています。

 小さいころから、欲しいものは何でも手軽にその都度手にはいるようになったことで、ぼくたちは「ほんとうに欲しいものは、努力しなければ決して手に入らない」ということを忘れ、おまけに(!)努力することも忘れてしまったような気がします。「欲しいものを努力もしないで手に入れられる」のは「泥棒」だけなのに

 ぼくたちの能力は金や物とちがって、残念なことに、自分のからだの中にあるものですから、「盗むこと」はできません。小さいころ、子どもたちに真っ先に伝えるべきはこのことだと思います。「学体力」育成の「原資」です
 二つの成績表は今年の発展課程の夏期講習の前と後の成績比較です。指導による講習後の成績上昇がよくわかると思います。なお、クリックすると拡大表示されます。
 次回は「学体力」と本の読み方を、偉人の方法を例に考えてみます。