『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く⑥

2018年03月31日 | 学ぶ

「先生も、こういうふうに勉強してるんだよ」を教えましょう
 小さな子どもたちに勉強を教えるわけですから、彼らは、まだ自分の中で勉強する意味やおもしろさについて考えているわけではありません。周囲から「受験するのであれば」とか、「良い学校に行きたければ」という、一見現実的、実はすこぶる抽象的な「勉強する意味」を伝えられるわけです。ところが、勉強させようとする人たちは、既に、自らはほとんど勉強していないのが実態です。つまり、「現に勉強していない人が『勉強しなさい』と云っても」、ほとんど説得力がありません。そこに「『子どもたちに学習させる』際の大きなバリア」が存在するわけです。それを乗り越えること。


 それらを解消させるには、こちらも「勉強している」という姿を、まず見せることがたいせつになってきます。掲示のノートは、京都大学に進んだY君と「老人と海」を読んだ時に、ぼくが「学習したノート」です。子どもたちに、よくこうしたノートを見せて「自ら学習したようす」を紹介します。
 たいていの子どもたちは、付箋や新たに紙を張り付けて訂正したり、追加したりしているノートを見て、びっくりします。「勉強に対する意識」が大きく変化するようです
 さらに、そこで、指導を敷衍します。「こういうことがわかった」「有名な翻訳本にも、こういうまちがいがある」あるいは、「ここは、こういうふうに解釈できるが、君たちは、どう思うか?」など、成長に応じて内容は変わりますが、これらも、「団のOB諸君が前を目指すための指導の力」になってきたのではないか、と今感じています。


 さて、友人の水谷豊川から届いた手紙。卑劣な画策を計った「残りの一人宛て」、そのまま紹介します。

殺人犯はタブレット⑤

付箋番号② 玉川 海への手紙Ⅰ 

白砂青松からヘドロの海へ
 
 玉川 海 様
 
 海…。おそらく、ご両親は「広い心で周りの人や子どもを大きく包み込み、豊かな恵みをみんなにも与えるように」と夢と希望を託し、生まれた赤ん坊に「海」と名づけられたのではないでしょうか。あるいは「静かな波が、時に思いもかけず流れ着く、白砂の浜の悪や汚れもきれいに洗い流してくれるように、清らかな心で美しく生きてくれるように」とも。

 あなた(方)の今回の行動は、その「親の願い」に叶っているものでしょうか? 思いもかけず流れ着いた『悪』をきれいに流し、清めましたか? 窃盗事件は小さな悪です。あなた方がやったことは、まったく逆でしたね。
 子どもたちも楽しく遊べるようになった「風光明媚な穏やかな入り江」に、これ以上ないと云うほど「汚物」を集め、さらに「ヘドロ」を覆いかぶせ、さらに汚し「二度と使えない海」にしてしまった、ぼくはそう感じました。

 ご主人の手紙にも書きましたが、年を重ねるにつれ、「子どもたちへの思い」が、どんどん強くなります。
 自らの子どもたちや孫たちだけではなく、「未だ汚れを知らない子どもたち」を目にする度、そして「世の中の汚いこと」が、望みもしないのに次から次へと分かるようになるにつれ、「何とか美しい中で生きてほしい」・「『汚いもの』と『きれいなもの』が、『正しいこと』と『まちがっていること』が、きちんと区別できる子に育ってほしい」という願いが強くなります

 願いを叶えたいと、「小さな入り江」だが、毎年大きな恵みを与えてくれる「豊かな海」に育って欲しい、そう思って日々子どもたちと力を尽くしてきた『豊穣の海』です。二十年以上かけて、少しずつですが、恵みを毎年得られるようになっていました。
 あなたが入塾一年目から「参考にしたいと云ってるから」といって連れてこられた同僚の先生方、「苦労人だそうで、バランスよく子どもたちも育てられていることがよく窺えた奥島先生」、「子どものように周囲の事物に興味津々だった生田先生」、「小学校の指導で悩んでいらっしゃった若い横川先生」、ぼくは彼女たちにも、子どもたちの指導のようすをきちんと見ていただきたい、今後の指導に生かしてほしいと、できるだけ協力しました。あなたは、ぼくが期待していた、その先生方の「指導の広がり」をどうしましたか? 嘘で塗り固めたあなた方夫婦の仕業で「汚穢の海」になりはてました。青松白砂の明媚な風景が瞬時に消えました・・・。
 
 事件の首謀者への手紙は、続いて「教職者としての教育や指導についての誤謬や甘さ、その観念性・形式性」、「親としての自覚、その『底の浅さ』」を問います

子育ての「発想転換」
 玉川さん。あなた方の卑劣な『隠蔽工作』の跡をすべて解明し終わったとき、数年前はじめて塾に来られ、前の廊下であなたと「立ち話」をしたときのことを思い出しました。

 「・・・わたしたちも、同じようなことをやってみたいので、課外学習に『だけ』参加させてもらえませんか?」。 
 唖然として、ぼくは即座に断りましたね? 「ぼくの指導は、そういうものじゃない」。学習も課外活動もすべてが連動・関連していて、「ふつうの社会見学や総合学習と一緒に考えられては困る」、と
 「『見かけ・表面しか見ていない感覚』が、『ぼくの指導に対する思い』とは『正反対』」なので、少し腹立たしく、「すべての指導を通じて、人間性もふくめて、指導したいので、それは無理です」。たしか、そのように返答したと思います
 その後、数年して再訪され、「あなた方の子どもが入塾」という過程でした。こうしてスタートを考えると、最後の最後まで「『心』を理解してもらえなかった」ようです。素晴らしい学力の伸長には、ともなうべきものが必要なのです。家庭にも、過程にも、結果にも。

 一年目、『自分たちも同じようなことをやってみたい』と云うことだったので、野外の活動もふくめ、できるだけの指導のノウハウを紹介したつもりでした。(一年目は、ほとんど夫婦での参加はなかったですね、ぼくが「父親参加を促したこと」もありました)。
 最初の一年間、「課外学習に参加し同行していただくこと」で、「いろいろなこと」が見えてきました。年間を通じ、総合的に指導する目的で課外学習指導を行っているのに、「自由な判断で参加をチョイス」する。それでは「知識や学習内容の積み上げ」が「いびつ」になります。総合的指導という、「こちらの思惑」は大きく崩れます
 

「熱心そうな、指導に賛同している、理解しているようなようすを見せてもらった」ので、「子どもたちも、うまく育ってくれるだろう」と期待していました。が、二人の姉弟の行動や振る舞いを見て、指導やしつけ・育てられ方の問題点が、月を経るごとに少しずつ明らかになってきました
 「指導の一貫性の無さ」・「バランスの悪さ」と「不徹底」です。たとえば、「『電車での飲食』や手洗いは、神経質にうるさく注意する」が、「『電車の床に直に座っても』何とも云わない」。
 衛生面から云えば、それがいちばん不潔でしょう。また、「休日に行く旅行のときの世間の飲食」を見ればわかるように、「休日、空いた電車で、ゴミに気をつける飲食」であれば、それほど問題はないのではありませんか? それより、もっと根本的な命題、今回あなた方二人で行った卑劣な捏造に対する倫理観、その是非を、一から、根本から考え直し、子どもたちに伝えるべきでしょう
 座る席がないのであれば、床に直にすわらせるのではなく、我慢して少し立って(立たせて)いなければいけないでしょう。立たせておくべきでしょう。それで『我慢』を覚えます。日ごろの指導やしつけについて、あまり考えていない。判断基準の一貫性のなさです。


 また、「大人と子どもはちがうというルール」を徹底していない。「親の『我慢』や『努力』が分かるように」育てなければならない。それがなければ、子どもの「リスペクト精神」は崩壊します。二人の子に、そういう指導はしてはいなかった。「親に文句を云うのは、おまえたちが親の面倒を見るようになってからだ」。ぼくは、そう注意しましたね、姉弟に
 子どもと大人は一緒ではありません。すべての条件がちがうことを、よく認識しなさい(させなさい)。大人は「人格」を認めなければなりませんが、子どもにあるのは「子格」です。平等を「分別」しなさい。決して、同じ「平等」ではありません。彼らの「人格」は、「今養っている最中」です
 一年経っても、二人ともなかなか変わらない。保護者同行のときのしつけや指導のようすを注視していると、「きちんとした善悪判断や指導・しつけの基準がないこと」、「当人の姿を見て躾や指導をするのではなく、『教科書(!)』で習った「見かけだけ(!)」を、『子どもをよく見もせず』やっていること」が、よく分かりました

 「子どもの指導」は「教科書を頭に入れてやるもの」ではありません。「教科書を頭に入れてやる」のは『受験勉強』だけです。子どもは刻々生きて動いて大きくなっていきます。「教科書を見て、子どもに向かう」のではなく、『まず、子どもをしっかり見て、子どもに向い』なさい。「そして、また子どもをしっかり見る」。そのくりかえしです。「賞めて育てる、金科玉条」型もそうですが、「教科書」や「美辞麗句」で、子育てはできません。教育原理や教育心理はテスト用です。良い成績をとっても関係ありません。
 また、「子どもの甘え方」を見ていると、「おそらく家では、男親が『きちんとしたリーダーシップをとれていない』だろうこと」が見て取れました。「やってはいけないことはやってはいけない」・「やらなくてはならないことは、有無をいわさずやらなければならない」こと等、「義務と責任」指導がまったく徹底されていない
 

「けじめ」がなくグズグズ、「切り替え」が、すぐできない。同じ甘えを何度もくり返す。「すぐ人を頼りに」して、楽や手抜きをする。
 これらは、「父母、どちらもの、しつけや注意が徹底していない、指導が子どもたちに届いていない」典型例です。そして、「それを修正し、そのときリーダーシップをきちんととれる(とらなければいけない)のは、やはり父親だ」とぼくは思っています。
 父親は、謂わば、「ガードレールの『役割』」です。「この区間ではスピードを出しても大丈夫だよ、自由にやってもよい。だけど、ここにはぶつかってはいけない、大きな怪我をするし、他の人に迷惑をかける・・・」。それらの「けじめ・指導の徹底がないから、けじめがない
 この点についても、『しつけやしかり方に問題があるのだろう。甘やかされていて、自分のことしか考えられない』と、何度も『お父さんの出番の必要性について』話しましたね。ご主人の手紙にも書いたように、『けじめ』がなく『切り替えができない』のは、「厳しく『したくない』」の『悪弊』でしょう
 指導を続けて、夏を越しても指導への理解が整わず、「見かけだけ」、「口だけ」の理解にしか見えず(表面的で)、あなた方の職業柄に思いが及んで、「指導やしつけに対する姿勢」を疑問視するようになりました。これが一年目です。そして二年目にすぐ、今回の「窃盗事件」です。
 
 水谷は「窃盗事件の子どもの育てられ方」に疑問を呈し、その原因を探っていきます。
 
「窃盗事件」のほんとうの原因
 「事件後のあなた方の行動」を、きちんと振り返りなさい。「なぜ、子どもが、まちがいを犯してしまったのか」という原因や反省点が、見事に明らかになってきます。 
 「子どもの窃盗事件」や、自らの子育て、教育や指導の不備がわからないように、自らの関係者(おい・めい・同僚)共々2年間も世話になった相手を「とんでもない悪人に仕立て上げる」、「目くらまし」の「卑劣な策略」に手を染める。「自分たちの『見え』や体裁、立場の保持」しか考えていない
 つまり、「『見かけ』だけ、うまく装う」「人は関係ない、自分たちだけよければいい」=自分勝手、わがまま。その時、「相手の存在」や「仲間の迷惑」・「自らの反省点」など、まったく意識と考慮の外です。つまり、「自分がほしいから、人のものでも持って帰る」。自分だけ良ければいい。同じでしょう?

 子どもは、親が無意識のうちにも、親の「影」を追います。「親の言動や振る舞い」を批評眼抜きで、「吸収して」育ちます。育った頃には、善悪の判断・正誤の判断ができなくなってしまっています
 「本来、窃盗事件が起きた時点で、『隠蔽』ではなく、『子どもの再教育や更正への方法と方向』に目を向けなければならなかった」のに、『臭い物にふたをする』『猫をかぶる』方向にしか、視線が向いていない
 こう振り返ったとき、日ごろの子どもの養育において、『しつけやしかり方に問題があるのだろう、甘やかされていて、自分のことしか考えられない』という、ぼくの観察が、きれいに透けて見えませんか

 子どもはひとりで育つわけではありません。「20年以上、ぼくの塾の指導の特殊性から、「課外学習でのサポーターや親子同行での取り組み」を観察することができました(それが学校の先生とはちがうところです、行住坐臥にまで目が届きます)が、子どもたちの行動パターンや判断基準には、信じられないほど大きな『保護者の影』が見えます
 「お母さんが四千円拾って、食事代が浮いたと喜んでいた」と、ひとりの子どもが教えてくれました。これが「犯罪であること」は、あなたもご存知ですね? 拾得物横領です。また、その行為によって「受けるべく罪以上の重罪」を犯していることがわかりますか? 子どもたちへの指導が崩壊するのです。子どもたちが「それらを良いことだと、ごく自然に、自らの善悪の判断基準に入れてしまう、という大きな罪」です。倫理観・道徳意識は、そうして崩れます
 「子どもと一緒に、交番へ」でしょう。徹底すべきでしょう。

 それじゃあ10円・1円を拾ったらどうするか? 同じです。交番に届けましょう。
 警官の応対次第で、次は、「どこかの子ども関連の基金にでも寄付する姿」を子どもに見せましょう。それが「子どもに示すべき」親や先生の態度です。明治時代の欧米人の日本滞在記には、「『日本人の正直さに驚く』記述」があふれています。これらの、世界に誇るべき特性や習慣は、できるだけ(歴史が続く限り)残すべきでしょう
 気づかぬうちに、子どもの倫理観の崩壊を招く行為は、未だあります。
 「クワガタ探し」のとき、「やぶ蚊」の猛襲に備えて「森林香」の携帯セットを2個準備しました。誰かがリュックに入れましたが、そのまま戻ってきません。

 また、課外授業の際は、使う道具が特殊な場合、なくなることが少数ながら、よくありました。「それらを返しなさい」と云ってるわけではありません。それらに対する「社会性」の意識を忘れてはいけないのです。ここでも、子どもに対する、躾や指導をする親や先生のあるべき姿が消えています。すべて、子どもの倫理観の崩壊(未形成)に結びつく姿です。
 「塾の道具」はみんなが使うもの、いわば「公共のもの」です。子どもたちに、その「躾」をしたいと思っています(そのしつけができるのです)。「『保護者や周囲のふるまいを見て、子どもたちがどう育つか』。「そのたいせつさを常に考えるのが、教師であり、子をもつ親のつとめだ」と云いたいのです
 「子どもたちに、『こうした行為の、実際の例』を挙げて『取るべき態度』を諭すこと」を、ぼくはよくやります。なぜか?「ワオ、ワオ、ワオ、耳ダンボ事件」もそうですが、「『なあなあ』で済むことと済まないことがあること」を教えなければなりません。「『子どもたちもよく知っている事例』・『目の前で起きた事件』について考えさせる」方が、彼らの理解が整い、正しい判断基準を「すばやくきちんと身につける(つけさせる)ことができるから」です

 かつては、童話やおとぎ話・偉人伝に触れることも多く、「その種の指導テキスト」には事欠きませんでした。しかし、今『ゲーム』に、「舌切り雀」や、「さるかに合戦」がありますか? 「ワシントン」が出てきますか? ゲーム以外に、みんな読んでいますか、これらの本を。「実体験」が、最適のタイミングです。
 わかりやすい、善悪基準を教訓にする材料がありますか? ぼくは日ごろから、そういうこともすべて考えながら、子どもたちを指導しています

 おそらく、「あなた(方)の半年間にわたるタブレットの盗聴音声」にも、何度も「類似の指導シーン」が収録されたでしょう。「それらの指導の前後」の音声もすべて、今回「教唆した」みんなに聞かせましたか? 「細切れにして、自分たちの卑劣なデータ編集用に使った」だけでしょう?
 
 ・・・「ぼくとぼくの指導に対する信頼」や、日本人が昔から大切にしてきた「正直という美徳」に、きちんと目が届いていれば、「窃盗事件」は事件ではなく、小さいころに身につけておかなければならない「倫理観」や「社会のルール」を学ぶ「糧」で済んだだろうが・・・。
 子どものときの「少し心が痛い想い出!」で済んだだろうが・・・。それによって、甘やかされて育ってきた息子が、一回りも、二回りも大きくなったはずだ。「自分たちの子育てのまちがい」に気づき、「育て方を考え直す機会も生まれた」はずだ
 誰も傷つけることなく、傷つくことなく終わったはずだ。そう思いませんか? 
 わかりますか? その大きなちがいが? 人の心やルールをもう一度考え直し、すべてルールに則ってやんなさい。おたがいにルールのある付き合いは、そうして成立します、あなた方は大人ですから。
 あなた方は「卑劣な『隠蔽工作』で子どもをかばって、得難い子どもの『学習』の機会を奪い、『自らの立場をよくするために相手を陥れること』によって『人としての心』を失い、これから『先々の心の平安』を失いました。
 罠にかけられた相手は、『半年にもわたるタブレット端末を利用した盗聴音声の捏造データの拡散』で、『長年築きあげた信用を失墜し、将来を楽しみにしていた子どもたち、という夢』まで失いました。失う必要があるものでしたか?

 この天地のちがいがわかりますか?
 本来、あなたがたが「もっともたいせつにしなければならないもの」は何ですか? それが、「ことごとくなくなってしまったこと」に、気づきませんか? 
 
 手紙は、次に、玉川夫妻の今回の行動にメスを入れます。

しつけや指導は「心から」
 まず。どうして、「問題になったエアガン消失の犯人」がわかったか?
 「数少ない生徒」ですから、「持ち帰ってしまう(窃盗する)タイミング」があるのはだれか? ぼくが「席を外したとき一人になれる」のは誰か? 指導の過程で、日常のようす・行動・性格などをつぶさに観察していると、考えたくはありませんでしたが、「想定」はすぐつきました。

 その後、あなたもよくご存じの、数週間体験指導をした『友だち』と一緒に、彼が教室に来たとき、その「はじめて教室を訪れた友だち」が、いきなり「エアガンがおいてあった近く」まで行きました。そして、「ねえ、ねえ、あのエアガン、どこにあったの?」。すると、本人が明らかに動揺を見せ、小さな声で『ムニャ、ムニャ』。
 もうひとつあります。その数日後、「クワガタ探し」の合宿に行きましたね。その友だちも含めて、みんなで。あなたも、そのときは未だ、彼が起こした事件に精神的に参っていたのでしょう、遠方のお姉さんに「同行応援」をたのみましたね。

 その晩宿舎での食事の際、ぼくが、そのお姉さんに、「子どもさんはいらっしゃらないのですか?」と聞きました。彼女は、即座に「子どもはいません」。そして唐突に、『子どもなんか要りません。問題ばかり起こすから・・・』。
 「敏感でシャープな人」なら誰でも、「事件の推移と、そのタイミング」で「どういう意味か推察できるはず」です。ぼくの場合はシャープでもなんでもなく、「ただ社会経験が豊富なだけ」ですが・・・。
 それ以外にも、何度も匂わせましたね、今回の一件を。覚えてますね、夏休みの終わり。ぼくが、あなた方の倫理観と、「職業柄期待したかった善悪基準」を信じ、一ヶ月余裕をあけた後です
 
 指導再開の挨拶で、「ぼくに、なにか相談していただくことはありませんか?」。一瞬びくっとして、慌てて、声を一段高めて、「いえ、別にありません」と、「『カンの鋭い人』を相手にしているとは思えない態度」で否定しました。その後すぐ、「何か、なくなりましたか?」と反問されましたね
 
 それ以降も、あなた(方)の職責や人柄・日ごろのおしゃべりや態度をまだ信じていたぼくは、「正直な言葉」を期待し続けました。次第に、不信感は募っていきましたが・・・。
 「半年以上、『今後のための最善の解決(正直に話してもらうこと)』を図ろうとしていた」のですが、その裏で、ぼくが思いもかけない、「『保身と退塾のための卑劣な策略』、『音声盗聴と捏造編集データの拡散』、『仕立て上げた極悪人塾を退塾させるための教唆』が進んでいた」というわけです

 あなたが「捏造音声データにより進めていた『ぼくの人間性否定の教唆』」が相当長期間にわたっていたことは、「あなたが拡散した三人の保護者のぼくに対する態度の変化を時系列で振り返ること」で理解できました。
 夏頃からです。菅原さんを篭絡し、古田さん・北見さん、そうですね、ご主人の応援も得て。
 玉川さん。「人間関係」というのは、「こうした事実を積みあげて『犯人捜しをする遊び』」ではありません。「心と心」です。わかりますか? 「子どもたちを教えられる」のは「心から」だけです。「子どもたちに教えなければいけないのも『心』です。『子どもがゆうことを聞かない』のは、「真剣さと心が足りないから」です
 「中身のない軽い言葉」・「おせじ」や「おべっか」が先にあるのではありません。日本では古来、「『心』が先にあって、言葉が紡ぎ出される」のです。指導が時に、「強い言葉」になったり、「手厳しく」なるのは、「心」があるからです。「心が云わせる」のです。だから「子どもが育つ」のです。おたがいが心を使えるように、心を使ってください
 そして、その方法が唯一「思いやりにあふれた、良好な人間関係をつくる、日本のルール」です。こういうことを、わざわざ話さなくてはいけないことを、今、とても腹立たしく思っています。(続く)


発想の転換が可能性を開く⑤

2018年03月24日 | 学ぶ

殺人犯はタブレット④
玉川宛ての手紙(続) 
目がものを言う
 玉川さん、あなたも、「子どもたちを教え、サッカーをはじめとするスポーツにも堪能だったと聞きました。奥さんも、バレーボールもサッカーもおやりになっていたとか? そうですね?」
 あなた方は今回の一連の行動で、少なくとも五つの罪を犯しています。「窃盗罪」「電波法違反」「名誉棄損」「営業妨害」そして無断でマンションに侵入した「住居不法侵入罪」。その世間での「重さ」がわかっていますか? そういう感覚だから、子どもが過ちを犯すのだと、思えませんか? 

 「使命や責任の重さ」をほとんど考えることのないまま、教員免許を取り、社会経験もほとんどなく、教職につき、ほんとうにきちんと子どもを教えられるのか? ぼくは常々、免許取得システムに大いに疑問をもっていました。「先生になる方法」と「受験勉強」は知っていて教えられるけど、「世の中で生きていくルールや責任という、一番大切なことはほとんど何もわかっちゃいない」、その後の世界も狭い。そう思うからです。「先生になるまで」は教えられるけど、「社会で生きていくルールや決まり事・常識・心構え」など、もっとたいせつなことを教えられるのか? これらは、よほどしっかりした家庭で育たないと、覚えられないでしょう。そして、フォローできるのは先生だけです。
 たとえば、あなた方は「そこそこ」スポーツをしていたかもしれませんが、「スポーツで、まず学ばなければならないこと」は何でしょう? 『ルールを学ぶこと』。 次に『フェアプレー精神』、『そして相手に対するリスペクト精神』・・・そうではありませんか? 
 現実問題として
「それさえ学んでいない」のではありませんか、今回の行動を見ていると。スポーツをやるのは、肉体の鍛錬もそうですが、「オリンピック憲章」を見るまでもなく、スポーツ・マインドの習得が大きな目的でしょう。ちがいますか?

 日本ではこれまで、「男と男」特に「スポーツを愛好する仲間」や「男らしい男たち」のあいだでは、「目は口ほどにものをいう」という「誇らしい習慣」が継続していました「男同士」、「気心の知れた間」では、口には出さなくとも、礼儀・信義・信頼関係やルールが「暗黙の了解事項」で、『話』はお互いに十分(以上)通じました。あなたも、この意味はご存じだと思いますが、恋愛感情のみに限りません。

 昨年夏頃、あなたの親せきのお店にポスターをプレゼントしに訪れ、あなたとお会いしたとき、「子どもの窃盗事件に対するあなたの、正直な対応」を期待したのですが、残念ながらそうはいきませんでした
 『目が、ものを云って』くれること。「窃盗の件」で、正直に口を切ってもらえれば、話が進みやすい。こちらから先に持ち出せば、否定されたとき、おたがいに気まずくなり、後々まで尾をひくあなたがスポーツマンであり、職業柄からも、「正義を貫け」・「潔くしろ」と、「自ら子どもにも教えることができる人」ではないかと想像していました

 最近の男と男、スポーツマンの間では、信頼関係や「男気(!)」はないのでしょうか? 破綻したのでしょうか? あるいはスポーツマン同士の間でも、「心の関係」が築かれにくい「他の条件」が発生しているのでしょうか。
 僕らの年代では「できるだけ倒れないようにする」のが、「あらゆるスポーツの真骨頂」でした。「進んで倒れても、場合によっては救われる、救われようとするスポーツ」が、近年とみに幅を利かしてきました。「相手のファウルをもらえばよい。ファウルじゃなくても、もらえば勝ちだよ」という感覚が生まれ、幅を利かすようになるとともに、「侍の姿が消えてしまった」ように感じるのですが、気のせいでしょうか

 流行の「ディベート」も、結局、「正邪や善悪ではなく、相手を言い負かせばよい、いかにも論理が通っているように聞こえればよい」という気味はないでしょうか? 「ものの本質」・「心の基準」ではなく、「見えかけ」、「見せかけ」で判断が行われる・・・。
「見えかけ」『見せかけ』ではなく、男であり、スポーツマンであり、「もつべき職業倫理があるはず」のあなたと、『心と心』で話そうと藻掻いていた間に、とんでもなく卑劣な裏工作が進んでいたというわけです
 この度の「窃盗事件」勃発以来、ぼくは常に、あなたの来歴、「まず男であること、スポーツマンである『らしい』、さらに、「公的な免許を取れる」それなりに高い学力を身につけられた(つまり知性と理性がともなっているはず)こと」を念頭に置き、「起こった事件」を正しく処理する方法を考えました。「その後の対応」を考慮に入れ、さわやかな結果を予想し、期待さえしてきました。失礼ながら、「バランスがとれていない子ども」が一回り大きくなるための「指導の肥やし」になる、そう考えたのです
 ところが、裏側では「小さな窃盗事件」が、さらに悪質になる策謀と「隠蔽工作」が進んでいたことになります。その方法を模索する中、妻の職場で2年前に起きた「保護者によるタブレット盗聴事件」は格好の「救いの神」に見えたのでしょう。

 「塾では所持が禁じられていた携帯」を子どもにもたせ、毎回、毎時間、その端末で盗聴を重ねた。授業が終われば、電話連絡をさせて、盗聴終了。それが繰り返された
 あなた方の「職業」は何ですか? 「そういうあなた方の行動パターンが子どもの倫理観や道徳心をめちゃくちゃにしてしまう」ということは考えないのですか? 
 「ばれなきゃ何でもあり」ですか? 「そういう発想や思考形態が、子どもにも伝染し、今度の事件の引き金にもなった」ということに思い至りませんか? 

 盗聴によって、「子どもの窃盗事件のことがばれている」と分かってから、あなたたちは、「何とか『自分たちの保身と見えや体裁』を守ることだけ」を考えた。いちばんたいせつな「窃盗した子どものフォローや教育なんか、そっちのけ」です。そういう対応が、「倫理指導の妨げ」になり、さらなる罪を重ねるかも知れない、そうは思わなかったのでしょうか
 好都合なことに、「ターゲットの相手(ぼくですが)は、指導に力が入り、興奮しはじめると、単刀直入、極端に言葉づかいも悪くなる」。集めた大量のデータは、週3回で6時間、半年では約180時間に及びます。その中から、「自分たちに都合の良い」言葉の端々、切れ端だけを集め、悪意の意図の元で、『一人の極悪人・人』の肉声を「捏造する」ことなんか、すこぶる容易です

 玉川さん。サッカーで教えられるのは、いや、すべてのスポーツで教えなければならないのは、まずスポーツ・マインドですね。そうではないですか? 「シミュレーション・プレー」を覚えるためではないでしょう?
シミュレーション・プレーは、子どものサッカーの審判ならともかく、能力の高い審判には見抜かれます。下手なサッカー選手のシミュレーション・プレーは、すぐばれるでしょ? そう思いませんか?

 水谷は、この後、玉川宛の手紙で、玉川が行った「最後のシミュレーション・プレー」の解説をします。
「天知る、地知る、子知る、我知る」
 一月、古田さんの奥さんが「合格のお礼」に来られて、ぼくと話し始めてもなお、「子どもを迎えに来た」あなたは、「脚でドアを押さえ不自然に長くドアを開けたまま」入り口に立っていました。不審に思ったぼくが、「なにか?」と入り口まで出向きましたね。

 あなたは、「挨拶をしていないので・・・」と、つじつまの合わない返答をして、慌てて帰って行きました
 奥さんの「『最後の捏造データの仕掛け』がうまくいったかどうか」、「思い通り古田君が退塾するかどうかを確認したかった」のでしょう? 「あなた方を信用して、あなた方の思い通り、古田さんが大悟君をやめさせるかどうか」、また「口を滑らせて、あなた方の策略がばれるような、余計なことを云わないか、どうか」。
 ぼくとの信頼関係をめちゃくちゃにした、古田家への「退塾教唆」は何のためですか? 「『窃盗事件』がデマであると思わせる」隠蔽工作と、あなた方の「見え」や「体裁」、「偽りの立場保持」のためでしょ? 大悟君の将来と、ぼくに、「どれだけひどいことをしたか」分かりますか

 そのとき、「同じように後ろで立ち止まっていた」高見さんは、「古田さんがほんとうにやめるかどうか」を知りたかったのです。まさか、そんなことが? 聞いたことは本当か? ほんとうか? という捏造データに対する疑念が、まだあったはずです。その根拠ですか?
 あなたの奥さんが、「自分の子どもをやめさせて、なお」2月になって、「教室の廊下の監視カメラのなか」「危ない橋」を渡り、こっそりドア開け、偵察(!)に」来られたこと、です。誰かと思い、ぼくが後を追いかけると、「青鬼のような横顔」を見せて自転車で走り去りました
 「『高見さんがうまく騙されて』、かれんちゃんが、ほんとうにやめたかどうか」の確認でしたね? 「自分たちの子育ての不備」と「窃盗事件」の事実を、「知っている周囲の人たち」に知られてはいけない・・・「職業柄と今後の体裁」があるから。
 正しく、みんなが「カタルシス」を覚える解決方法はいくらでもありました
 今回の画策で、すこぶる順調に進んでいた「かれんちゃんの未来」と、「ぼくと高見さんの信頼関係」に、どれだけ大きなひびが入ったか、わかりますか? 関係ないのでしょうね、あなたたちに、そんなことは。

 「天知る、地知る、子知る、我知る」という言葉はご存じですか?
  「十八史略」が出典で、『誰も知るまいと思っていても、天地の神々は決して見逃さない。君も私も知っている。隠し事は必ず露呈する』という、戒めです。「天網恢々疎にして漏らさず」という言葉もありますね?
まず、それらを頭に描き、ことの処理に当たるのが、正当で、教育の本義にも叶った方法です
 今回のような隠蔽工作で、順調に成長しつつあった子どもたちの将来に「枷」をかけ、みんなを傷つけ、迷惑をかけ、さらに、自分たちも傷つきました。「本来は、あなた方の子どもに、この故事成語を『幾度も、幾度も』噛みしめさせなければならなかった」のです。それが「親」です。それが「先生」です。それが教育です
 昨夏の親せきのお店での「缶ビール」の時、あなたに「問題がある子には厳しくしないと」とアドバイスすると、「親父が厳しかった(!)ので、そういうふうにはしたくない」と、「思いもかけぬ返事」が返ってきました。

 「厳しくするか、しないか」は、その子の性格や日ごろの行動をよく見て、倫理基準・事態の正邪から判断すべきです。「あなたの、『あるようで、無い』判断基準」では、子どもを「正しい方向には」導けないでしょう。そんなやり方で指導できるのは、「もともと素直で害のない子」だけです。そんな子は、ほとんどいません。
 もし、ぼくが、あなたの親父だったら(年齢が近いはずなので)、「『優柔不断さ・軟弱さ』を矯正しなければ」と、お父さんとは比べものにならないくらい、厳しく指導したと思います「卑劣なことをするな、それも女の尻馬に乗って…」と、糾弾もしたでしょう。

 年齢を重ねると、特に近年はその傾向が強くなりましたが、「正しいもの・正しいことが隠蔽され、無視される世の中」を見過ごせなくなります。そういう事例を見ると、むなしくなります。子どもたちの将来に暗雲を見ます
 「『自分が美しくなくなる』のなら、せめて、『美しいもの』を残しておきたい。心だけでも美しくありたい」。そう思うのは錯誤でしょうか? 叶わぬ夢でしょうか。ちなみに、ぼくが、そう強く思うようになったのは、「『あなた方ぐらい』の年齢のとき」だったと思います。つまり、「塾をはじめたとき」です。

 人間だけ別格、「理性」と「知性」が備わっているのは、どうしてでしょう。
 「正しいもの」や「美しいもの」・「博愛」など、「『他の動物には理解不能なもの』が、生きていく上でたいせつであることを人間に知らしめるため」ではないですか? そうは思いませんか。
 「子どもを指導する人」はすべて、どんな時代になろうと、その基本を忘れてはならないと思うのです。あなたはいかがですか?
 「美醜や正邪の判断など一切なく、礼儀や信頼や相手の気持ちも立場も考慮に入れない凶行・蛮行が充満する」世の中で、自らのたいせつな子どもや孫が、「傷まみれ・汚泥や糞尿まみれになる未来」を、あなたは望まれますか

 できるだけ、子どもたちが「きれいな環境」の中で、「人間らしい仲閒たち」と健やかな生活ができるように、少しずつでも浄化しよう、努力しようとは思いませんか? 今回やったことは、世の中をきれいにすることでしたか? 
 ぼくは、自らの子どもたちはもちろん、「袖すりあう」子どもたちをも、「何よりもお互い同士のため」に、「思いやりや倫理感が身につき、高い能力と正義感あふれる、実行力や行動力がある人間に育ってほしい」、そう願って今まで指導してきました。 あなたたちはどうですか? 今回の行動は正義感にあふれるものでしたか? 正義は必要ないのですか?

 『高い能力や学力』を商売にし、「『生徒も』『自らも』金を儲けるためで、他のことは一切考えない」という指導をつづけているところもあるとは思いますが、そういう教育を、あなた方はどう思いますか? 
 こういう事件が起きた今振り返れば、「お世辞だった」と思いますが、「日ごろのぼくの判断基準」を、もし買っていただいていたとするなら、こう思いませんか? 「善悪の基準も分からず、バランス感覚もなく、正しいリーダーシップをとれない高い学力」など「クソ」だ、と。 
 
 水谷は手紙で、この後、自らの観察と経験から、子育てやしつけのアドバイスをつづけます。
医者になりたい子たちに
 あなた方の子どもが、「お医者さんになりたい」と云ったとき、「まず、『相手のことを考えられる』ようにならなければ、医者になったらダメだ」と云いました。これはあなた方の子どもだけではなく、「今まで教えたすべての子どもたち」に云ってます
 また、「どこに出しても恥ずかしくない子になってほしい、先輩たちのように」、あるいは「人格が整ってこない子には勉強は教えたくない。」とも言います。「人格が伴わない、高い学力など意味はないと思う」とも云います。
 当たり前です。そういう人を育てたいから、ぼくは塾を始めました。どこかまちがっていますか? 
 こういう「指導の文言」も、あなたたちの長期間の盗聴タブレットには、たくさん入っていたでしょう? 拡散するなら、省略また悪意の捏造編集はやめて、全部拡散なさい

 京都大学の大学院から神戸大学医学部に学士入学した金山君の小さいときにも、条件のたいせつさは話しています。彼は今、立派な医師に育ちつつあります。昨日、医学部の5年の最終試験を終えて一段落した彼と、酒を酌み交わしたときのことです。
 「どうしてそんなことが起きるのだろう、できるのだろう」と、ぼくの話を聞き涙をためていました。ぼくの「不遇」だけではなく、人間の愚かさ・浅ましさに、哀しくなったのです
 今ベトナムなので、わざわざ連絡はしていませんが、京大大学院の山北君も感覚は同じでしょう。京都大学の松尾君も同じでしょう。あなたの奥さんは、彼ら全部の「人となり」・やさしさ・優秀さをよくご存じです。何回もあってますから。

 金山君はさらに、夏期合宿で今回の3人を見かけ、「ぼくと同じように感じた」ようで、「能力が高く性格も整い、うまく育ちつつあった」龍生君や大悟君・かれんちゃんの退塾を、とても残念がってくれました。なぜか? 
 彼もぼくも、「こんな愚劣で理不尽な謀略」によって退塾する羽目になり、子どもたちの明るく大きな未来が、不透明になってしまったことが、悔しいのです。そのまま進めばすばらしく育ったであろうに・・・
 わかりますか? ぼくの教育や指導は、18年近く付き合っている彼やOB諸君、OBのお母さん方が、しっかり証明してくれているのではないですか?
 玉川さん、どうか、お持ちのはずの、あなた方の「美しい心」を、もう一度探してください。
 子どもが「医師になりたい」と云えば、「医師にふさわしい子」になるように、指導やしつけをしてください。あなたの優れた能力(嫌味では決してありません。今回のようなストーリーを描け、応答の「台本」まで思い浮かぶような能力)を、どうか「次世代の素晴らしい人材育成に傾注」されんことを
 十数年前から、偶々医師の仕事にかかわるようになり、近くでお年寄り(ぼくも既にそうですが)の患者さんの姿を見るにつけ、「医師に対するぼくの思い」は、さらに強くなりました。「人の寂しさの理解も含め、医師になるなら、患者さんの『心のひだ』にまで踏み込めなければ、正しい治療はできない」。そう、思うようになりました

 国家試験を合格しても、医師免許を持っていても、薬代や収入のことしか考えない医者は『クソ』です。そう思いませんか?
 患者は「苦しさや生命を何とかしてほしい、たすけてほしい」から医者を訪れるのに、その医者が患者のようすや心の状態、症状に最大限の心を配らず、思いやりもなく、「患者が札束にしか見えない」人だったら・・・あなたが患者だったら、どう思いますか? 「そんな医者は、いないほどよい」と思いませんか

 医者がそれなりに高い収入を保証されているのは、「ともなうべき責任」も大きいからです。正しい倫理観を身につけ、広く相手のことも考えられ、自己犠牲をいとわない。もちろん技量や優れた知識、日々の学習や研鑽を欠かさない。
 子どもが「医師になりたい」と云えば、そんな医師を目指すよう指導しなければならないのではないですか、先生や親は。「医者になりたい」のであれば、「医者に伴うべき条件」を欠かすことはできません。「ともなうべき人間性や倫理観・自己責任の自覚もないまま、学力だけを身につけた」医者がいれば、恐ろしいことになるとは思いませんか? 

 それでは、そういう指導を「事前に」行わなければならないのは「どこ」で、「誰」ですか? ぼくたちの仕事は「教育」ですね? 「子どもたちを育てること」ですね? 関われるのは『子どもを育てる人』と『教育』ですね?
 「能力が高いが、金のことしか考えない」。そんな医師を育てるのですか? 「倫理のはしくれも見られない」、そんな医者を社会に送り出すのですか?
 同じように公的免許を取得する教職も、医師と収入はちがえど、負けず劣らずたいせつな職務と責任があるのではないですか? どちらも「かけがえのない人間の人生」を「救う」のです。 その仕事に、自負と責任と正しい倫理観、バランスの良い判断基準は必要ないですか?
 あなたの子どもを、まだよく知らなかった2年前、化石採集に向かう電車の中で、僕は彼女の言い分を「ふん、ふん」と聞いていました。あなたも、傍にいましたね。その時は未だ、あなた方の倫理観を心底信じていたので、ぼくも一生懸命聞きました。彼女は、同じクラスのひとりの男の子のことを散々けなして、「自分の正しさ」を訴えていました。

 しかしその後、彼女のふだんのようすをよく注意していると、彼女自身が従来の子と比べても、相当自分勝手で、「自分のことも満足にできない」。「云うことだけは云う、さらに、そのことをまったく自覚していない」等がよく見えてきました。典型的な「王様育ち」です。「すぐ手抜きしようとする」、「人のことを考えられない態度(「ホタル狩り」や川遊びでの網を独占、なかなか人に譲らないような態度・奥さんがよく知っています)」・「自分勝手な物言い」や「リスペクトのない言動」・・・。ぼくは彼女の育てられ方、「真相」がよく見えたので、「2年目から」指導を厳しくするよう、方針チェンジしたわけです
 甘やかされて、問題ある子どもには、開設以来いつも採ってきた方法です。甘い顔はできません。「理屈がわかり、指導が身について、悪癖が直る」まで

 子どもの「人となり」や日々の「態度」に、あなたの「客観的な目」は届いていますか? わかっていますか? 失礼ですが、ぼくにはまったくそう見えませんでした。「甘いだけ」のようでした。そういう育ち方をしている子を、「そのことが分かった人」が、そのまま放っておいて良いのか?
 「ほっとけ、ほっとけ! どうせ他人(ひと)の子や!」。「そのうち、わかるやろ!」。他の先生なら、あるいは、そう考えるかもしれません。しかし、ぼくはそうではありません。ぼくたちが育てているのは、将来の「社会人」です
 「そのうち分かる子」など、『二上山でダイヤモンドを見つけるような確率』です。 その心は? 裏側のブラジルまで掘っても、見つかりません。

 「医者になる」なら、「『良識・社会常識・思いやり』の伴わない」医者は、ぼくの元からは育って欲しくありません。人のこと・苦しみや迷惑を考えず、金や自分のことしか考えない医者なら、「いればいるほど邪魔になる」のではありませんか? 
 失礼ながら、あなたは指導や教育をそこまで考えていますか? 「一人の人間(社会人)を育てている」という認識に思いが届いていますか 「将来ある可能性豊かな若者を指導する基準」に、「あなた方の行動」はふさわしいですか? 「あなた方の子どもを預かるのであれば、できれば『思いを共有』していただければ」、と思いながら、ぼくなりに2年間指導してきたつもりです
 「医者になりたいという子どもの気持ちを制限はしませんが、それにふさわしい人格や能力を備えさせるのも、教師のたいせつな役目」です。ぼくの頭は、「本人以外のことも」同時に考える頭です「医者になりたい、それはいいことだ、だったらこうしなければならない、そんな態度じゃだめだ」という視点や指導・教育は必要ではないですか? 

 かつて、「赤ひげ」という映画がありました。日本人が古来たいせつにしてきた、『仁』と『義』と『理』があふれていました。あなたたちの今回の仕業は、「仁」にあふれていましたか? 「義」にかなったものでしたか? 「理」に基づいたものでしたか? そのたいせつさを思い出してもらいたい、心からそう願っています。それらを忘れて、潤いのある人間社会は成立しません
  玉川さん、あなたも実際にお住まいだから、ご存知だと思いますが、ぼくはあなたの生まれるくらいのときから、つまり40年以上前から、この地にも住み、その事情をよく知っています。全国的に、この市は学力レベルも低く、特に近在は教育環境や学習環境、子育て環境でも、大きな問題を抱えています。ぼくが開塾以来、この地で続けてきたのは、この環境で生まれた子どもたちを、学力や人間性とも、屈指のレベルにひきあげたい、と思ったからです。ここで、子どもたちを育ててこそ意味がある、と思ってきたからです。あなたがたがやったことは、その思いを無にするだけではありません。自分たちの子どもも育っていく、たいせつな街、その未来をどうしようというのですか?  
 
水谷は、この問いかけの後、「これ以上の捏造データを作成し、拡散をしないこと」の約束、「データ捏造と悪意の教唆によって退塾した三人の保護者に対し、速やかに真実を明らかにすること」。それが、『人生の王道』に戻れる、唯一の道ではないでしょうか」と結んでいます。(つづく)


発想の転換が可能性を開く④

2018年03月17日 | 学ぶ

殺人犯はタブレット③
「君たち、ここで学んでいることはとても幸せなことなんだよ」
 手紙をくれた友の名は水谷明成。ところが、封筒には、「水谷豊川(ほうせん)」の署名。塾をはじめるとき、突発した事件に心を痛めて心機一転するため新たに通名をつけたといいます。

 寺子屋という塾の呼称にふさわしいように、また豊かな川は、飲料水としてはもちろん、さまざまな恵みを我々にもたらし、下流の作物や田んぼに豊富な栄養分さえ供給してくれます。生活総ての糧になる。塾で育っていく子どもたちもぜひそんなふうに育てたい、という思いもこめたと聞きました。
 タイトルの台詞は、ぼくがつくったコピーでも、水谷が云った言葉でもありません。水谷の塾で育ち、奈良県の進学校東大和学園から京都大学に進学した金君というOB生のセリフです。社会人になって水谷の塾を訪れたとき、勉強している後輩たちに、思いを込めてかけてくれた言葉、水谷には予想もできなかった。「感動」でした。

 塾は大きな商業都市の南端、さまざまな人種と猥雑さが同居し、その間を狭い小路が縦横に突き抜ける街の片隅にあります。近くの神社には、周囲が2メートルを超える楠の大木が並び、梢では鴉が宿る。耳も脚も尻尾も風化で欠け落ちた二匹の狛犬。表情さえ伺えないその姿から、その神社と町の歴史の古さも分かる、そんな一隅です。

 個人指導という利点を活かし、「日ごろのすべての行動」のなかから、「学ぶおもしろさ」や「学ぶ意味」を子どもたちに伝えていく。自然体験、宿泊をともなう野外活動や作業指導も、たいせつな学習の一環でした。
 「人とは何か、どうあるべきか」。「答えのない問い」にまで思いめぐらせ、「日ごろの行動の中から考え、学ばせる」ユニークな指導で、「本質を知る人たち」の間では、評価もそれなりに高かったのです。彼は、少数の子を心身ともにすこやかに、ていねいに見守り、育てていくことしか考えていません。
 15年くらい前、水谷が企画した「腕白大学」という特別授業で、特技を活かし、ぼくも「古いカメラで光を読む、世界を見る」というテーマで講義をしたことがあります。写真に興味をもたせると云うより、子どもたちが周囲の環境の学習対象や事物に関心と目を向けること、つまり周囲を見る、環境に気づく『感覚』を養って欲しいという願いからです。ジャズ・プレイヤーや手品師・医師など保護者の力も借り、多彩な授業は盛況でした。

 彼も自ら「言葉は生きている」というテーマで、「和歌の視点から表現を探った」国語の授業をしています。F.O.S(finding out something)という水谷の塾の歴史です。
 力の入った指導の積み重ねで、準備期間を含め、開設以来24年間。数は少ないものの、学力だけでなく、人柄もよく人格も優れた子どもたちが何人も巣立っています。学生・社会人を問わず、何人かは時間があるとき、休日を利用して、水谷と行動をともにし、自らに続くべく、後輩たちにやさしく接し、彼の塾や水谷の指導に触れられることのありがたさ・学ぶこのとのたいせつさを、一生懸命伝えてくれました。金君の言葉は、それらの代表と云えるかもしれません。

 OBの成長と、育っていく子どもたちの姿は、「ありがちな日々の雑念」をきれいに振り払い、人生半ばから志を立て、その後全力で走ってきた彼の疲れを、その都度癒してくれました。
 活動や指導応援をしてくれる人たちは、まだいます。水谷を信頼している気心の知れた、お父さん・お母さんたちです。みんなで塾の行事を手伝ってくれることがお母さん方の入塾時の暗黙の了解でした。指導のようすを近くで見て、彼の人柄はみんなに、よく理解されていました。

 育っていく子どもたち・お父さんお母さんと水谷、三者間で確固とした信頼関係が築かれ、それが学習面でもすばらしい効果を発揮しました。そんな塾です。「何を考え、どうしようとしているか、水谷は子どもをどのように育てようとしているか」という「共通認識」が成立し、「それらを土台にした『成長の証』が子どもたちからよく覗われる、現れていることがよく理解できた」保護者ばかりでした。二十数年の間、「受験学習にガチガチに偏った教育ママ」以外、その指導や指導方法が理解されないことはなかったのです。本来なら、その塾の歴史に、今年も新しく輝かしい一頁が加わるはずでした。
 いつもと同じように、公立の地元の小学校に通っていた二人の6年生は第一志望の難関中学に合格しました。さらに入塾して一年ながら、潜在能力が高く、性格も良い、先々楽しみな4年生の女の子がすくすく育っていました。
 年齢から、指導はこの先それほど長くはできないだろうという思いから、おそらく、この子が塾の『フィナーレ』を飾ってくれるだろう、大きく羽ばたいてくれるだろうと、水谷は楽しみでした。ところが。
 不審な事件の経緯を、水谷の手紙に基づき、たどってみます。

そして誰もいなくなった? 
 念願の私立中学に合格した塾生菅原君、そして続いて古田君が、あこがれの中学合格後すぐ、保護者とともに訪れ退塾を申し出ました。さらに、下の学年の4年生の女の子まで急な退塾。少ない人数ですから、ほぼ一度に全員です。ただ事ではありません。

 小学校3年生から満4年間、6年生二人には学習指導だけではなく、宿泊学習の渓流遊び・米づくりなどの課外活動も通じて、学習する意味やたいせつさ・立ち居振る舞いから社会道徳まで、できる限りのことを伝え、指導しました。「よりよき成長」と「さらなる飛躍」を願ってきたこどもたちでした。言葉荒く指導することもありましたが、厳しい指導の甲斐あって、学力も十分整い、従来の諸君と同じように、うまく成長してくれたといいます
 彼は順調に育ちつつある数名の子どもたちが、今までと同じくOB教室まで進んでくれることを期待していました。高い能力とやさしくバランスのとれた人間性を備えた子どもたちが、また増えるだろう。大いに楽しみな毎日だったのです。そんな矢先の衝撃
 子どもたちはうまく育ち、成長も順調だ。例年と何ら変わらない。何が起きたのか? 
 訳が分からず、当初は見当も付かなかった水谷は、指導や活動の日々を振り返り、些細でも違和感があり、腑に落ちない事実を積み重ねて、理由を探るべく探索と考えを進めていきました

 そうして見えてきた卑劣な策謀の数々、ぼくの元に届いた分厚い封筒には、ぼく宛のものと、彼の知り合いだろう、すべて別々の人宛ての手紙のコピーが6通。その凶悪さを糾弾し、改心を計るべき犯人たちへの二通。くわしいことはおそらく何も知らないだろう子どもたちへの二通、そして、悪意の情報操作に知らぬながら加担することになった保護者への二通。すべての手紙に目を通すと、やりきれない事件の全容が明らかになりました。
 海に落ち行く大きな夕日の写真を壁にかけ、自らの心に重ね合わせて、すがすがしくフィナーレを迎えるはずだった水谷が受けなければならなかった「卑劣な策謀に対する憤り」と、「冤罪だけは晴らさなければならない」。強い思いもうかがえます。

許せない順
 「孤軍奮闘し、卑劣な作為の真相を何とか究めようとしていた水谷の願いに、全力を尽くして応えよう」。「謝らせてくれ、俺の『環境』を、元通り、きちんと復元させてくれ」。手紙の後、電話での彼の依頼です。
 「わかった、ところで、手紙に付いている付箋の番号は何だ?」。
 「許せない順!」、そんな言葉が返ってきました。

 ぼく宛の手紙の一節です。
 
 「もし夫婦で、自分の夫や妻が無実なのに『殺人』の嫌疑をうけたら、みんなどうするだろう? 目の色を変えて、何とか、その嫌疑を晴らそうとするだろう。無実・無罪が確定するまで戦うだろう。
 俺にとっては、「塾と指導」は『最愛の相手』だ、これ以上ない相方だ。20年以上力を合わせて苦労を共にしてきた。一心同体だ。
 二人で築き上げて来たものが、云われもない汚泥にまみれ、「ぼろ切れ」になるなんて許せない。「妻」の命が奪われようとしているんだ。黙って指をくわえている奴はいない。守るのは当たり前だ。
半生をかけて探し求めてきた。双葉で芽生え、日々愛情をかけて、たいせつに育ててきた。生命の糧だ。生きがいだ。やっと実をつけはじめた。努力にこたえてくれ、毎年収穫の喜びに浸ってきた。それがゼロだ。苦労が水の泡だ

 俺にとって、それほど大切なものが犠牲にされねばならなかった理由は、なんだと思う? 
 「子どもの窃盗」の隠蔽のためだ。つまらん体裁、見栄のためだ。話にならない
 「『隠ぺいに走る前の彼ら』に俺が抱いていた」のと同じ信頼感があれば、「姑息な策略を弄さず、正直に打ち明けるという正常な感覚」があれば、もっと「簡単に、さわやかに」、「罪を犯した子どもの成長の肥し」にさえ、なるはずだった。保護者と教師の相互の信頼感がなければ、そもそも指導や教育は成立しない。彼らは教職だ。これを見たら、学校教育が大きな問題点を、今抱えていることが、分かるだろう。
 「生きがい」にし、喜びをかみしめてこられたものを「踏みつぶされた」。「聖域」に土足で上がられた。何度言云っても云い足りない。

 子どもの「窃盗」の件を云えない(謝れない)くらいなら、まだがまんもする。だが、人間としての、最低限のルールは守れ。「想い出の品、かけがえのないもの」を盗んで迷惑をかけた相手に、なお隠ぺいの「目くらまし」のためだけに罪を被せるのか・・・。
 それも、「自分の同僚も苦しんでいた卑怯な策略」を、その同じ策略を、曲がりなりにも2年間世話になった相手に仕掛けるか? こんなことがあっていいのか。
 二人であれば、「彼ら」のように口裏を合わせて「隠蔽工作」もできるが、俺はそうはいかない。「妻」は、無実の弁解ができないのだ。俺までだまっていれば、お人好しで無関心な世間は、やつらの云うがままだ。そんなばかなことがあってはならない!
 
水谷からの手紙① 
「『怖い』とゆうてる」―捏造の詳細
 まず、封筒に入っていた「1番の番号」が付いていた手紙です。

    玉川 共行 様

 挨拶の言葉は省略です。その理由は、よくおわかりのことと存じます。
 良心は痛みませんか? それとも、「そんなことは、構っていられない」人なのでしょうか? 
今回あなた方二人の仕組んだ一連の企みの解明には、年を重ねたせいか、かなり時間がかかりました。
ぼくの従来の経験値から想定される結論を、はるかに超える驚きの結果だったからです。
「アガサ・クリスティの作品名」のような事態がまず驚きでしたし、追求し明らかになった策謀の卑劣さと、企てた犯人が教職にあり、しかも共謀であったことが理解を超えていました。推理を重ね、関係者の行動パターンを読み、時々の反応と会話の応答を考え合わせて全容が明らかになるにつれ、「こんなことがあるのか」、「こんなことをできる人間がいるのか」と空恐ろしくなりました。
「できる」とは、ぼくが推理解明できたように、「あなた方の能力を認めたのではなく、一般社会のルールから、そして世間の一般倫理からあまりにも逸脱している事例だから」です。
 「人を人とも思わない」行動様態が腹立たしく、「目には目を」と、あなた方が「音声捏造データ」を拡散したように、あなた方の職場の同僚・関係先にすべて直接公開することも考えました。特に、同種の事件が過去にあった職場なら、その信憑性は絶大です。しかし、あなた方とちがって、ぼくは自制しました
 なぜだと思いますか? 
「人間」だからです。あなたたちの生計の資、収入も含めて、生活の基盤さえ奪ってしまうことになるからです。「やって良いことと悪いこと」があるからです。「そこを超えてしまうと、人間じゃない」という限度があるからです

 ぼくたちは人間です。そして、ぼくは男です。我慢しなければいけない、そして超えてはいけない法があるからです。
 今までの日本の男なら、まず、こんな卑劣なことはしません。いや、卑劣さが限度を超えているので、頭にも浮かばないでしょう。たとえ浮かんでも「心のストップ」がかかります。
 男の『恥』だからです。そういう男でなければ、世間の多くの人からは、男の風上にも「風下!」にもおけないやつだと、見られるからです。ハレンチ極まりなく、「小さな窃盗事件の恥」どころではありません
 「過去に同僚が卑劣なやり口に困っていたこと」をよく知っている妻が、自分も同じことをしようと企めば、良識ある男は止めます。「そんな汚いことはやめとけ!」です。ところがあなたは、「協力(強力)タッグ」を組みました。「タブレット」という凶器を隠して。まさか教職である二人が、「嘘を云うはずはない」と最後まで、周囲の「お人よし」のみなさんは騙されました。

 音声データにもこだわり、一月に入ってからも未だ継続録音しましたね。「捏造データ」の最後の仕上げに、「怖いとゆうてる」事件(?)の音声を収録しなければならなかった。偽りの「学習相談?」ですよ。アポまで取って、反応を予測する台詞まで考慮に入れて・・・。みんなが塾をやめたから、あなた方の策略は一応成功です。しかし、それによってあなた方の人間的価値は地に落ちました
 「捏造」データを完成するには、何としても、ぼくが「殊勝に(?!)、お詫びをする」スタイルの「音声」を録音する必要があった。そうではないですか? どうして分かったか? ぼくも、そこが推理の最後のしあげでした。まず、「文句をいいに来ている」割には、とても嬉しそうでした。「思い通りの一節」が肉声録音できましたね。
 
 ぼくが、「お宅の子どもさんは、甘やかされてわがままだし、自分勝手だから、わざと距離を置いている」と云いましたね。ところが、あなたは「でも、怖いとゆうてるから」と「何度も」繰り返しました。
 おかしいですね。その繰り返しは? ぼくの答えを想定して、期待する文言を待っていました。
 「それじゃあ僕も気をつけるようにしますから、そう思われたら心外だから・・・」と云う会話でしたね。ぼくの観察と云い分は正しかったのに、遠慮して答えました。
 あなたは、それを聞いて「やったね!」というような感じで、嬉しそうに帰って行きました。欲しかったんですね。その返事が
 陰謀というのは、積み重ねれば積み重ねるほど、襤褸が出ます。不自然な兆候が現れます。あなたの奥さんが、子どもがやめてから、監視カメラがあるのも忘れて、、教室のドアをこそっと開けて、「カレンちゃんが、ほんとうにやめたかどうか」探りに来たのも、余計でした。世間をなめてはいけません。能力が高いのは、あなたたちだけではありません

 こういうストーリー考察・解明ができるから、ぼくも、子どもたちに「怖い」と云われます。しかし、子どもは幼い頃、そうした「天の声」や「神様の目」で善悪を覚えるのです。あなた方は、そういう先生にめぐりあえなかった。とても残念です
 ぼくの授業や指導を録音するなら、携帯端末での無断録音ではなく、正式に申し込んで、同意を得てください。そして、録音データを拡散するなら、あなた方が録音した、長期間・長時間の全部を、「TPOを明記して、前後の総ての文脈も含めて」流しなさい。「講義や指導を最初から終わりまで聞く子どもたちがよく理解してくれる」ように。大人の人たちにもよくわかるように、「悪意の切り貼りの捏造」ではなく、編集もせず、すべて流しなさい。そうすれば、講義や指導の心が、すべてわかります。塾の子どもたちは、そうして育ってくれました
 さて、あなたたちの夏から半年にわたっての一連の企て、「完全犯罪(?!)『子どもの窃盗の隠蔽』と、自分たちには一切非なく、『理不尽な(!)塾長のいる塾をやめるための証拠』」が、これで完成しました。
 しかし、奥さんが云った「塾をやめる理由」は、ほかの保護者が云った「捏造された、ぼくの人間性(!!)」にかかわる理由ではありません。「受験もしないし、経済的理由で」というものでした。あなた方の「策略(!)」は、ここでも「見え見え」です。
 さすがに、「捏造した理由」を自分も使うのは、「良心がとがめたのか?」、あるいは、「すぐ、あなた方と他の保護者の連携に疑念を抱き、ぼくに追求されることを警戒したのか」。こういう犯罪を企むくらいですから、おそらく後者でしょう。
 ちなみに、あなたたちが騙した保護者の皆さんは、「玉川さんの指示(!)と指揮(!)に、実に『忠実』でした。」あなた方の狙い通りに、捏造データにより「ぼくを極悪人(!)だ」と思い込みました。人が良くて、まさか「周りに、あなた方みたいな、詐欺師まがいの人がいる」とは、だれも思いません。こんな経験は、初めての人ばかりですから。ぼくも初めてです
 そして、落ち着きのない様子で動揺が見え見えの奥さんは、「ふつうなら二人に頭を下げさせなければならない」のに、弟の名前だけ言って、その頭を押さえて、ぼくに礼をするように仕向けました。その頭の中には、「彼の罪」が、しっかりしがみついていたはずです。声も、おそらく、後で自分が何を云ったか覚えていないだろうほど、あがっていました。
 こうした「何気ないしぐさや行動」に「心は現れてくる」のです。何気ないしぐさや行動が、事実と真実をすべて明らかにしてくれます
 証拠がない? 証拠は、あなたたちの心の中に、しっかり座っているでしょう。あなたたちは、まず、その心の声に耳を傾けるべきでした。

 奥さんには、別に手紙を送りますので、まず、あなたの行動からたどってみましょう。
 当初あなたの野外活動参加は稀でした。ですから、最初は、「長男の窃盗事件でほんとうに悩んでいた」妻の応援だったのでしょう。ところが後半から毎回参加しました。スポーツの指導で、本来、ほとんど休みがなかったはずですから、そうとうたいせつな理由があったはずです。活動理由は、自分たちの体裁や見栄のため、「自分たちに非がなく塾をやめるための画策」でした。捏造情報収集操作と他の保護者への「顔つなぎ」。さらに情報拡散の為。
 「毎回、具合が悪い」と姿を消す奥さんが、最初の方はともかく、秋ごろ、具合が悪い様子は見られませんでした。二上山の川で、子どもたちがパンニングをしていたとき、「姿を消して、戻ってこない!」奥さんのことを、ぼくが心配して訊ねると、あなたは、全然気にするふうもなく、平気で携帯をいじりながら、「大丈夫ですよ」と返答。
 おかしいでしょ。誰が考えても。もっと心配するでしょ、ふつうは? つまり、理由は他にあったからです

 こうして、あなた方は半年近くかけ、「徐々に保護者たちが僕に不信感を持つように仕向け、『悪意のもとに編集した捏造音声データという、とっておきの証拠』を使って、『人』を一人造りあげた」というわけです
 「ワオワオワオ、耳ダンボ」の大石君と保護者との後処理判断を材料にし、子どもたちに「『正直』や『誠実』という意味」について考えさせようとし、子どもたちに話している音声データ。それも、ぼくが「一生懸命力を入れれば入れるほど、あなたたちの策略には好都合」でした
 子どもの端末を通じて長期間・長時間録音しているので、音声データは山ほどありましたね、ぼくの肉声が。それを「こまめに」編集して、「とんでもない『人でなし』」に見せかける。そんなことが、よくできたものです。
 あなたたちがいつまでたっても「子どもの窃盗の白状(相談)をしない」ので、ぼくは次第に、その倫理観に不信感がつのり、「子どもたちに正義を教える」ために、「子どもたち自身の良心に訴えないといけない」と考えました
 みんなに「塾の教え」や、「悪事を隠すことで起きるからだへの悪影響」を教える話も、おそらく見事に「脅迫」のように編集されたでしょう。子どもたちは、「『ばれるはずのない事件』をどうしてぼくが知っているのか」と「動揺を浮かべたようす」が見られました。それが「『怖いとゆうた』顛末の最初のことば」ですね。
 それ以降は、あなたたちが、「ぼくが真相を把握しているかどうかの確認」情報を録り、その後、「自分たちに非が及ばないため」の捏造音声データ取得する「携帯」利用(かわいそうなことをしたらダメです)でした。
「子どもが『時間を気にしないような授業』をするため、携帯使用を禁止している」ので、「ばれるのが『怖い』」です。(追及はしませんでしたが、何度か子どもの携帯に信号音が入ることがありました。)


 「『怖い』とゆうてる」台詞は、あなた方が「音声捏造データ」を拡散したとき、タブレットに「僕の音声を盗聴取得した理由」にも使われたはずです。「『怖いとゆうてる』から調べた」。
 ふつうに考えたら、「ちょっとやりすぎちゃうん」と思えるのですが、「根回し」が済み、「人がよい人たち」は、見事にコロンとだまされました
 「盗聴のために携帯をもたせられる」。CIAですか? その時の子どもの気持ちは考えられないのですか?
 子どもに、そういう行動や精神負担がどれだけマイナスに作用するかに、思い至らないのですか? 「そういう周囲の行動が、子どもの判断基準や倫理観に、どれだけ大きく影響するか」分からないのですか? 事件の根も、結局そこにあると云うことが・・・。
 これは、今回、騙されてしまった保護者のみなさんにも訴えたいことですが、ぼくがこどもたちに、いいかげんな指導をしていて、金山君をはじめとする素晴らしい青年たちが育ちますか? それこそが指導の正しい結果ではないですか? あなた方の子どもたちは能力も高く、きちんと育ちませんでしたか

 「捏造データ」のようなセリフだけで、「ぼくのことを心配して涙を流してくれる」青年が育ちますか? 
 OBのお母さんたちも、話すとすぐわかってくれました。「そんなはずは、ぼくに限って絶対ない」と信じてくれているからです
 「肉声」だから無理もないとは思いますが、長年のあなたがたの子どもに対する指導と成長を考え判断し、「正直に、ぼくに確認と相談」はしてほしかった、そう思います。ぼくの不徳の致すところですが
 
 あなたたち以外の保護者には、「これをよく読んでほしい。バカじゃなければわかるはずだ」。心から、そう思います。

 玉川さん、こうしてあなた方の「行動解析」をしていると、「奥さんの勤務先多津美H小の捏造事件」も、「実は、『同僚が保護者にやられた』のではなく、あなた方が捏造したのではないか」とも、思えてきます。なぜか? 
 そういう事件に遭遇すれば、ふつうは「『してはいけないと云う方向』に行動がシフトする」、それが一般の「倫理観」「道徳意識」だからです

 あなた方に、今いちばん云いたいことは、「こうした音声データを捏造するアイデア・センス・努力・時間・能力を、どうして日ごろの『子育て』に傾注しないのか」、ということです。それが親でしょ? ほんとの親でしょ? 日々その「精力」を子どもたちの指導やしつけに傾注していれば、こんな問題は決して起こらなかったと思います。それが教育者でしょ
 「拾った金を食事代の足しにした」り、「借りた品物を返さない」、「バレなきゃ何をやってもよい」という、「小さな日ごろの倫理観のほころびでも、すべて子どもの脳に入力され、成長に影響するという、恐ろしさ」に思い至りませんか? 「やる前にわかる」のが、正しい倫理感です。それを教えていればエアガンはなくなりません。
 親の考えや行動が再生産されるのです教育はそれを防止するためにあります。それが教育の存在理由です。教育は、そこから始まります。(つづく


発想の転換が可能性を開く③

2018年03月10日 | 学ぶ

「シナリオ学習の報告―殺人犯はタブレット」は後半に掲載しています。「おもしろいですよ」。「じぶんからゆうてもうた、ごめん!」。

読解力を鍛える英英辞典の活用

 「わからない言葉の意味を調べるもの」。そうした感覚で辞典を利用するのが一般的ですが、ここでも「発想の転換」をすれば、生徒たちの語彙力の増強やセンス・読解力の向上に大きな成果が出る学習法があります。 
 英語の再学習を始めてから、主に英英辞典を利用していますが、OB生が英語にある程度慣れて、単語力もついてくると、どんどん英英辞典を利用するよう勧めます。
 英英辞典を引くことによって、「英語の言い回し」が少しずつ知らぬ間に脳内にインプットされていくという利点はもちろんなのですが、それに勝るとも劣らぬ利用法です。

 まず、英英辞典を開いてください。よほど英語に堪能な人でない限り、まだ知らない単語がたくさんあります。それらの英語の意味を読んで、逆にそれに当てはまる「日本語」をイメージしていく(させていく)読み方です。いわば「人間英和辞典」です
 たとえば、Oxford ADVANCED LEARNER‘S DICTIONARY でemotionless をひくと、not showing any emotionとあります。つまり、「感情を表さない」ということですから、訳語としては無感動・無表情・鉄面皮・ポーカーフェイスなど、微妙に意味が異なる日本語が浮かびます。その遊び(訓練)を進めるのです。英和辞典では出てこない、きらりと光る言葉が見つかる(考えつく)ことが、少なからずあります。
 これをロングマンやOxfordの学習者用の辞典で日々繰り返すと、子どもたちの使う言葉や解釈の言葉が、どんどん変わっていき、訳もシャープになります。中学初年度ではまだむずかしいのですが、団ではいつもお話ししている中一のH君は、例のLogan’s Choiceの講読でLONGMAN BASIC ENGLISH DICTIONARY をつかい、かなり成果を見せてくれるようになりました。英語に興味をいだくきっかけの一つになるかもしれません。「逆転の発想」です。
 

 もう一つ、「逆転の発想」を紹介します。団の子どもたちの指導方法です。
 「なぜ、人を殺してはいけないのですか」(ヒュー・ブラウン著 幻冬舎)に、こういう一節を見かけました。
 
 日本の学校では、すべて受験に向けて、ただ情報を詰め込むというか、丸暗記させることに力を注ぎます。そして試験のときに、それをもう一回吐き戻させるわけです。
 その教え方は、ちょっと間違っているのではないか、と思えてなりません。イギリスの学校では、子どもはまず自分で考えてみて、わからないところを先生に質問して教えてもらうのが、ふつうのやり方です。わからないまま丸暗記はありません。
(前記書p179~180・下線は南淵)
 
 団の指導方法と全く同じです。イギリスの方法をまねたわけではなく、ぼくが脳のはたらきについて調べ、「最も頭を働かせ鍛えられる方法のはずだ」と、開塾以来採用しています。自ら読み、自ら考えはじめる方法です。参考のために。

シナリオ学習の報告2―殺人犯はタブレット
テーマ1 悪人の中の善人を「殺す」しくみ
 どんな小説や映画の名作・大作・問題作であろうと、要約すれば、その内容は長くとも数行の文章で表せます。たとえば、ぼくがこれから親友Aからの手紙をヒントに、進めようとしている物語も、実に簡単な一文でおさまります。
 「子どもの窃盗事件の隠蔽工作が招いた、証拠なき殺人
 ぼくは先週、悪人の中に、善人がいれば、それがひとりであれば、時として「死に追い込まれる」、あるいは「殺される」、と述べました。この『殺される』は、口封じの為に「殺される」と云うより、「社会や世間に対する悲憤慷慨のために、簡単に言えば『生きているのが嫌になる』『絶望する』と云うことが起こりうる」と伝えたかったのです。殺したのはだれか?
 前回の「学生運動(?!この2つのマークがもっている意味は、経験者ならわかりますね。)」に対する質問もそうですが、「『社会人として社会で生きている』ぼくたちは、もっと『社会やその中で生きている(その中でしか生きられない)』という事実」にきちんと目を向け、「他人ごとでなく」「人まねではなく」、正しい判断や正直な意見の主張をすることをはじめなければいけないのではないか、怖がらずに「正しいことを見きわめ、正しいことが正しいといえるだけの『聡明さ』と『大きさ』」をもたなければならないのではないか

 社会で日々起きている事件も、新聞や雑誌の記事や主張を鵜呑みにするだけでは、ほんとうに正しいことは、ほとんどわかりません。テレビはその典型ですが、雑誌や新聞の主張にも、商業社会であるが故の、少なからず大衆に迎合する、つまり受け入れられやすい方向への阿り、傾斜が見られます。それらをそのまま信じる人、事情を知っているのに当然と聞き流す人、事情を知って悲憤慷慨する人、何も感じない人、さまざまです。しかし、「ほんとうはどうか」を知ろうとする姿勢は当然必要だし、その姿勢がないと、社会問題など、一向に解決しません。

 たとえば、教育界でも、テレビやマスコミで報道される『体罰』はほとんど全否定する論調が一般的ですが、その陰では、「きちんと子どもたちを育てたい・教育したいと思えば思うほど、そうせざるを得ないような現状」があり、現場では、「懊悩や煩悶があふれているのではないか」。「体罰(この一律の呼び方には、虫唾が走りますが)の必要性は、限りなく「正論」に近いのではないか。 
 「何でもかんでも、ひっくるめて『体罰』とくくってしまっている」が、アメリカでよく行われる「お尻ぺんぺん」なんか日本でやってみろ、「痴漢」や「愛撫」にまちがわれるやろ! Hなおじさんや! 暴力肯定するわけではないが、「それぞれの国の実情に応じた指導方法への議論を、もっともっと深めることが必要やろ」、そう思います。「何でもかんでも、馬鹿の一つ覚えで『体罰(?!)』や『パワハラ』と「ひとくくりにしない」心の広さや考え方でこそ、子どもたちとの心が通じ合える人間関係を築ける」と、日々小さな子どもたちと接しているぼくは思います。
 「子どもたちをひとりの人間として育てたい」、「バランス感覚や責任感のあるおとなに育って欲しい」という願いや思いが強ければ強いほど、指導は、やむを得ず「厳しい対応」にならざるを得ません。ニコニコでは済ませられないことが、日々いやというほど出てきます。特に、現状の子育て環境を見れば。「教条的な、中身のない、無責任な」指導法で、「群を抜ける若者」が育てられるか! オリンピック選手や有名スポーツ選手を見ろ!と思います。

 無責任に「オタマジャクシは、放っといてもカエルになるわ~」というような意識の低い、「ノー天気な先生の集まり」なら別ですが、良心的な先生、先生としての意識・理想や責任感が強ければ強いほど、そうなるでしょう。いや、そうならざるを得ないでしょう。
 そんな実情を一絡げで、「悪人の中の善人」まで悪人に仕立てあげ、抹殺し、「自分たちと同じ悪人ばかりの世の中」にしてしまってもいいのか? それが理想なのか? ただの無責任だろう?
 しかし、そういう主張や正論を表面化しようとすると、立場はもちろん、存在さえ危うくなるという状況が、世間ではあるのだろう。じゃあ、どうすればよいのか? 

 
教師であるぼくたちは、「バランス感覚や責任感のあるおとなに育って欲しい」という願いや思いをつらぬき、次世代の良心や責任感、能力・実行力に夢をかけることしかできません。そしてそれが「古来!」ぼくたち教師に課せられた大きな使命だろうと思います。「悪人の中の、善人をひとりずつ殺していってはいけない」、人がそんなふうに殺されてしまうことを許すわけにはいきません。
 さらに、その「『悪人に知らない間に荷担してしまう』ような世の中」になってはいけない、世間というものは、策略に、実にだまされやすい、「目くらまし」され、「善人に見える悪人のほうに、知らない間に荷担してしまっている」ことが、如何に多いか。これがテーマの一つです。
 ぼくは預かった子どもたちは、「正しいことや真実をきちんと見分ける子になってもらいたい」と、単刀直入(!)に、子どもたちにわかりやすく、日々指導を重ねています。彼らはきちんと聞いてくれ、みんな健やかに成長してくれました。

 ところが、「指導風景」を、悪意の捏造意図のもとに長期間携帯の端末を利用してタブレット経由で、多量に録音してデータを集め、故意に音声編集すれば、「無実の人」を「極悪人」に仕立て上げることも、すこぶる容易です。
 ふつうの人には、意図的であることなどまったくわかりません。正真正銘の本人の声ですから。   
 これは、馬鹿らしいほど、単純な理屈です。たとえば、「殺したのか!(あいつが!)なんて奴だ!」という大声を録音し、カッコ内の言葉を消去すれば、話し相手を強く責めているふうにしか聞こえません。「言いがかりをつけている言辞、とんでもないやつの音声データ」の完成です。
 聞いた人は、ものの見事に誤解するでしょう。あったはずの、その前後の文脈など出てきませんから、どんなに意味のあることを云っていても関係ないし、聞いた人は、まさかそんな(文脈)ものがあるとも思わないからです。音声データは「犯人の悪意のまま、その思いのまま」周囲に誤解され、当の本人は、そんなことをまったく知りませんから、弁解の余地さえありません。犯人の思うが儘です。
 データを4カ月、半年と長期間集め、こうした編集を重ねれば、何も知らない間に、善人も極悪人に「大へんし~ん!」です。「ほんとかよぉ、ひでえやつだな、あいつ」、というわけです。そんな卑劣な作意が、この世にあっていいのでしょうか! 恐ろしい話です。なお、この陰謀の詳細は、後日、「殺人犯はタブレット」本文内の「怖いとゆうてる」の章で紹介します。自らの友人が陥れられたタブレット犯罪を、あろうことか、今度は、自分たちの「犯行(!)」に悪用した事件の顛末です
 
 

テーマ2 子どもたちに何を教えるのか
 テーマ1の解説で、「子どもの窃盗事件の隠蔽工作が招いた、証拠なき殺人」と物語のストーリーを紹介しました。「小さな子ども窃盗事件の隠蔽工作」。
 これは現在の子どもの指導やしつけの上での、代表例です。「『犯人』に、またその犯行に、犯行が起きた原因に、きちんと目を留めず、「『建前』や『見栄』だけを考えた隠ぺい工作」で、自らが逃れることだけを考える保護者。そういう態度が「子育て」や「躾」に、どういう悪影響や取り返しのつかない災厄をもたらすか。「しつけ」や子育てが、どういう結果に終わるかなどにはとても考えが及ばず、その場をごまかすことしか考えない。それによって、子どもが犯した「小さな窃盗」をはるかに超える「大罪」を自らが犯していることに気づかない。
 それも三つの罪です。
 まず一つ目、子どもが「小さな罪」を犯したときに、今後それ以上の犯罪を犯さないような指導ができる機会を失っていること。二つ目、「子どもが犯した罪、またその理由や原因を考える機会を失ってしまっている」こと、それによって「自らの人間性の向上への機会も逸してしまっている」こと。三つ目、「被害を受けた相手に対するお詫びや礼儀を、全くわきまえていない」こと
 そういう感覚や視点をなくしてしまった「子育て」や「教育」の存在が、現状の混乱の「一助!」になってしまっていることが見えていない。この例は、「無責任にその本質を見逃されがちな」万引きや窃盗に対する考え方」への提案です。
 倫理観を身につけ(させ)、社会で生きていくルールを徹底すべき「子ども時代」。そこで何を教え、その思わぬ「犯行」や事件を、どう処理すべきかは、大きな問題です。今の社会問題に根付く「子育てにおける指導判断や倫理基準の誤謬あるいは責任逃れ」、その「覚醒」を図れる課題のひとつだと思います。これらの事件の当事者が、もし教職者であれば、なおさらです。

 まず、なにを教えるか?
 先人の教訓もさまざまあるでしょうが、僕が考える、子どもにも、親である自分にも、被害者をはじめとする周囲にも、カタストロフィーではなく、みんなにカタルシスをもたらす方法です
 親が(特に父親が!)犯行を犯した子どもにきちんと向かい、その非を諭し、「お父さんも品物をもって、一緒に相手にお詫びをするから、お前もきちんと、二度としない旨を伝え、心を込めて謝りなさい」。こういう行動をとって初めて、親子間でも親の権威や正しい愛情が担保され、子どもの犯行が、その子を一回り大きい子に育てる糧になります
 「子どもにかかわる人」・先生が、「こういう指導をできない、範を示せない」から、問題が多発すること、問題児が増える傾向への歯止めが利かないのです。これは「古い考え」でも、「道徳」でもなんでもありません。
 窃盗は泥棒です。こういう対応をするのが人間らしい社会の約束事です。「人間が生きていく上で守らなければならないルール」です
 こういう約束事を守れないで、いくら心身を鍛えるべくスポーツや運動をやらせても体は大きくなりますが、「スポーツの何たるか」など、決して分かりません。スポーツから本来学べる「スポーツマンシップ」や「ルール順守」、「相手に対するリスペクト精神」など、たいせつなことは一つも学べないでしょう。
 それじゃあ、スポーツマンの「着ぐるみ」です。心や中身のないスポーツです。ルールのないところにスポーツはありません。あるのは「犯罪」と「戦争」だけです。スポーツをやらせる意味は生きてきません。
 こういう処置が「心の弱さ」のためにできない(そんなことは本来あってはならないことですが、そういう心が次の犯罪を生むからです)場合、指導レベルはまったくちがいますが、次善の策は、その窃盗した品物に、本人と保護者両方の「お詫びの手紙」を添え、そおっと届けておくことです。おそらく、相手が日本人であれば(他国の習慣や倫理観はわかりませんので)ほとんど理解してもらえ、許してくれるはずです。犯罪には必ず相手がいるのですから、何よりもその相手に真摯に謝り、許しを乞う姿勢がたいせつです
 その次の策は、ただ品物だけを丁寧に包んで届けておく。「『倫理観に照らし合わせて、正しくふつうの人として理解される』のは、ここまで」だと思います。ぼくはそういう基準をもとに、子どもたちを指導しています
 ところが最近は、「まさか」と思うような、「一般常識をはるかに超える」事例が、同種の事件でも、後を絶ちません。「自分たちの立場・見え」を保持するために、「頬かむりする」ならまだましですが、その「罪」を「目くらまし」させ焦点をぼやけさせ、あらたに自らを正当化させるために、あくどい策略を重ねる。その愚かな行動によって、どれだけの人が迷惑をこうむるか、相手をどれだけ傷つけるかなど、全く考えない。さらにその作為に半年もの期間をかけ、信用させるべくデータを積み重ね、テレビ・ラジオ番組張りに編集製作する。そのうえ、それを周辺に拡散する

 みなさん。こう思いませんか?
 本来なら、それらの能力・実行力・「企画力!」・時間や観察力という、膨大なエネルギーを、その「些細な罪を犯した子ども」の「日ごろの指導やしつけ」に傾注すれば、そんな事態はおそらく起こらないだろう、そもそもの原因が消滅するはずだと。そうは考えませんか? こういう倫理観、規範意識の欠如が、子どもに浸潤します。子どもに移ります再生産です。子育てで怖いのはここです。親のその自覚の有無です
 こういう事態に遭遇するたびに、ぼくは昔被害にあった詐欺師や、今の「オレオレ詐欺」のことを思い出します。
 「どうして、そうした『恵まれた(!?)頭脳や労力』を、『自らの責任ある仕事』あるいは『社会』のために使わないのだろう」と嘆かわしくなるのです。そういう力を日ごろから正当に使っていれば、詐欺で儲けるより、はるかに素晴らしい収入を手にできるだろう。自らの子どもに傾注すれば、子どもはつまらない窃盗などせず、何の問題もなく、すくすく育つだろう!というわけです。
 こういう「問題個所」に介入でき、子どものころに是正できる可能性をもっているのは教育だけではありませんか? どうしてそういう視点をもてないのだろう
 こんな方向性が乱れた、「ほころびが見え始めた」社会で、「正しいことを正しい」と云える子どもに育つのか? 正しいことや正義を覚えられるのか。
 また、些細な窃盗であろうと、良心があるでしょうから、その澱を吐き出しておかないと、当の本人(子ども)は一生心の中に「闇」を抱え、生きていくことになります。それが人格や人生に及ぼす暗い影に考えが及ばないのか? そうした「『時代傾向』『時代背景の是非を問いたい」と考えています。
 

 この物語の事件はフィクションで、実在の人物事件とは何ら関係がありませんが、ぼく自身のささやかな体験でも、同種の問題事例は近年何度か耳にしました。
 物語の展開は初めての試みで、時間の足りなさ故に十分推敲できず、また稚拙さ故に、わかりにくいところもあるかもしれません。しかし、その中から「愚かな人間の倫理観の欠損とエゴが、『罪もない人(たち)』にどういう被害や災厄をもたらしたか」を感じとっていただければ、ぼくの後押しになり、また手紙をくれた友のためにも、これ以上喜ばしいことはありません
 卑劣な仕業がもたらした悲劇(悲喜劇)が次第に明らかになるとともに、教育界の問題点、学習や先生という存在・本質に対する問題意識が、新たに芽生えてくるであろうことを、心の底から期待しています。
 「見えなかった闇」に明かりを点すと現れる実態。それらを明らかにすることで、みなさんの「正義」はどう変化するのか? 軽佻浮薄な社会、「たいせつな次世代を育てるべき保護者と先生はどうあるべきか」。厳しく追及されるべきは何か?  
 これらの問いかけを、拙作の中からつかみ取っていただき、自らの周囲に存在する同種の事例やアイデアを、ぜひ、作品や論文のテーマとして取りあげていただけることを期待します。「教育環境」を少しでも良くする方向に導くには、現在最も待ち望まれる方法ではないでしょうか?

 また、この稚拙なぼくの物語のラストが悲劇になるか、ハッピーエンドで終わるか。それは、登場人物が今後どう動いてくれるかにかかっています。すべての登場人物の、「良心」と「正義感」・「倫理意識」を信じたいと思っています。登場人物がヒトとしての姿を正しく理解し、心底謝ることでしか、ハッピーエンドはありえません
 この世は、「人間社会」だからです。彼らが彼らの環境、「人間の社会」の中で「意識改革」しない限り、ぼくたちが信奉している「教育そのものが崩壊する社会」が現れることになります。信頼や人間関係が根底から崩れさるからです。信頼や「心と心が通じ合う人間関係」がなければ、教育は成立しません
 先生という職業、子どもを守るべき親という存在から良心や正義感・倫理意識が消え去れば、「人間を育てること」はできません。未来が脅かされます。
 こう書き続けていると、やはり、映画のためのシナリオに書きあげるのが、一番インパクトがあるかな、という気がしてきました。また勉強することにしましょう


シナリオ学習の報告ー殺人犯はタブレット

2018年03月03日 | 学ぶ

なお、今週は昔懐かしい子どもたちの写真を掲載しています。
抹殺された真実
 子どもたちの入試が終わったら落ち着ける、と思っていたのですが、いろいろ野暮用が降りかかり、気の休まる暇のない毎日でした。「年をとってきたんやから、もう、ええ加減にしてや、勘弁してよ」という感じです。一時中断していたシナリオの学習を始めようとしましたが、何かと気の散ることも多く・・・なかなか進みません。
 そんなとき届いた分厚い封筒。名前の横には、「抹殺された真実」と朱書されています。
 しばらく音沙汰のなかった高校時代の親友からでした。トーマス・マンが大好きで、『魔の山』・『トニオ・クレエゲル』・『ヴェニスに死す』・『ファウスト博士』等の読後感を、目を輝かせて述べる彼と、ドストエフスキーや芥川龍之介、カミュやサルトルを読んでいたぼくの、お互いにいつも「かみ合わない会話」をしていたあの頃が、懐かしく蘇ってきました。


 封を切ると、中にはぼく宛の手紙と、彼が知り合いに宛てたであろう、長文の手紙のコピーが入っていました。ぼく宛の手紙には、彼一流の冗句で、「黄昏を迎えた長い『三分の二』生(!)を振り返ってみても、こんな複雑な方程式が解けるのはキミくらいだろうから・・・」という、「身に余るお褒めの言葉」とともに、いかにも「今風」、理不尽なできごとの「概略」、長年の夢と思いと努力を込めた一途な取り組みの仕上げの時に受けた、「悪意」と「謀略」による冤罪の経緯、その無念さを告発すべく「抹殺された真実」が明快に記されていました。第三者のぼくが見ても、姑息な手段を使った、とんでもない「濡れ衣」です。
 何度も手紙を読み返し、事実関係を辿り、できごとの経緯の探索を進めてみると、「隠蔽体質がもたらした袋小路」「浅薄で陰険な情報操作」「弱者の仮面をつけた魔女」等々、さまざまなコピーで代表されるテーマが脳裏をよぎります。「軽薄短小」という四文字熟語で代表されてきた「現代社会の闇」をえぐるべく、シナリオや創作を修業中のぼくには、まさに「天啓」です。

エゴン・シーレ
 数十年前、写真に夢中になっていた頃、訓導を受けた深瀬(昌久)さんが、ぼくが訪れた原宿のマンションの一室で、「鴉」という、壁一面の彼の作品を背に、「・・・おい、どうしてオレを撮らないんだョ、今!」と酔っ払っていました。
 泥酔で首を前後に揺らしながら、「・・・キミはすごいよ、・・・エゴン・シーレだ。そうだ、エゴン・シーレだ・・・暴くんだよ、キミは。暴く・・・キミの写真はすごい。カルチャーショックなんか、もつ必要はまったくない・・・」。

 ぼくが雑誌で深瀬さんの写真を見て、「この人なら・・・」と、彼に写真を見てもらいたく、作品の提出に「カメラ毎日」のコンテストを選んだことがまちがいではなかった、深瀬さんもぼくの感覚を理解してくれたと感じた、うれしい瞬間でした。
 深瀬さんに連れられて行った新宿駅前のパブでのパーティには荒木経惟さんも、当時元気だった奥さんの洋子さんを連れて出席されていました。トイレで、偶々荒木さんと一緒になり、朝顔に並びながら、平凡パンチでの選考のお礼を云うと、「ああ、君かァ、おい、奥さんだろ、もっときれいに撮ってやれよ~」と笑いながら、注意されました。「真実を暴く写真」の想い出です。
 その後、故あってカメラを目指すことはできませんでしたが・・・。
 手紙をくれた彼も、小さいころから見ていた、ぼくの感覚がわかっていたのでしょう。助けてくれないか? という叫び声が聞こえるようでした。

潮解するナメクジ
 何が正しいか? 真実は? そして人間とは? 
 正義、善、良心、信頼・・・そういう、人として「かけがえのないもの」が、ことごとく、「悪意」や「欲望」という塩で、ナメクジのように汚らしく、潮解してしまわなければならない時代なのか・・・。
 「正しく、健やかに、清らかに」、かつてはそういう子が育ち、そういう子が集ったはずの学校・教育界も、欲望まみれのさまざまな陰謀と策略が渦巻き、ノイローゼや退職に追い込まれる事態も頻発するようになっているようです。考えたくはないことですが、「人としての正しい判断力」や「正邪の感覚」・「倫理観」が崩壊し、子どもと教師、親と子の愛情・先生と親の信頼関係なんか「そっちのけで」、世は曲がって曲がって進んでいるのではないか?
 「自分さえ良ければよい」。「バレなければ何をしても良い」。「拾ったものは私のもの、借りたものも私のもの」。「バレそうになったら、うまくごまかせばよい」。「自分が助かればよい、相手のことなんか『くそ食らえ』」。そういう社会になってしまったとすれば、今こそ警鐘を大きく鳴らすことが必要です

 手紙をくれた彼と同じく、塾を自営しているぼくは、かつて、ひとりの団員のお母さんに、学生運動のことを聞かれたことがあります。ぼくは、党派に属していたわけではなく、「若さゆえの許せない正義心」から、「何とか良い世の中を」と、デモの隅っこで理想と悲憤にもだえながら隊列を組んでいただけなのですが・・・。
 「・・・なんで学生運動やったんですか?・・・」。
 ぼくは一瞬、唖然としました。エッ?! 何でやった? なんでやって? 本気で云ってるんだろうか? この人は! 「当時は、みんな、世の中を何とかよくしたい、何とか良くなって欲しい」という、心の底からの願いと熱情からに決まっているじゃないか! 
 想像もできなくなっているんだな。これじゃあ、こんな感覚じゃあ、デモや運動で大けがをしたり、なくなったりした仲間たちはすくわれないなあ

 自分以外のこと、世の中のことなんか「他人事」で、「世の中を見る視点」なんか、ほとんどないんだな。デモで怪我でもしたら、「バッカじゃないの!?」になるんだろう、きっと・・・。「少しでも世の役に立って欲しい、そんな子を育てたい」と、本気で考えてる人はどれだけいるんだろう? ほとんどないんだろうな。
 そういう子が増えなければ、自分たちの願いも、理想も、よりよい世の中も、決して叶えられることはない、ということがわからないんだろうか? 「子や孫の時代の理想」ではなく、自分の日々の欲望や欲求だけで生きてる人が、ホントに多くなってるんだろう・・・
 以前にも書きましたが、何度考えても、ぼくの東京時代、若かりし頃、彼が今度連絡をくれたような、「禍々しい事態」に遭遇したことはありません。「ものごとは、もっとストレートで、澄明でわかりやすく、人として、仲間として手を添えられる、理解が整う」日常でした。ぼくがだまされてしまった「詐欺師のやりくち」でさえも・・・。
 心から謝りなさい・・・。「あやまれ!」。ぼくは彼を陥れた「闇」に、そう声をかけたくなりました

著作権フリー
 近年は、汚くて情けなくて、「たとえ指先でも触れたら汚れる」ようなことが多すぎる気がします。日本人か? 日本人のやることか? いや日本人に限らず、人間がやることか? 

 「自分さえ良ければよい」、「自分が助かればよい。そのためには、人のことなんか、『構ってられるか』」。そういう社会になってしまったのでしょうか? 華やかで清々しいオリンピックの陰で。
 さて、来週から掲載するストーリ―等は、手紙をくれた彼の体験・内容を元にしていますが、登場人物の名前・職業・地域等すべてフィクションで、ぼくのオリジナルの作品です。実在の人物・事件とは何ら関係がありません。今後シナリオになるか、小説(まがいのもの)になるかは、残された時間の有無・ぼくの能力次第です。
 なお、このストーリー・物語の展開等、すべてのアイデアを「著作権フリー」にします。お譲りします。作品化されても、ぼくは抗議もしませんし、賠償請求も一切しません。逆に、ぼくが先に作品化したからと云って、著作権の主張はやめてくださいよ、お願いしますよ(ははっ)。
 どうして著作権フリーなのか? 今こそ、こういう事態・世相について、みんなで問題意識を共有することが、もっとも必要だと思うからです。シナリオ化、小説化、テレビ・ラジオドラマ化・・・。すべてフリーです。みなさんの体験を元に、ストーリーをふくらませてください。特に教育界に籍を置く方・学校関係者には、教育・指導方法の改善や現場環境等の告発・問題意識喚起に格好のテーマだと思います
 「深瀬さんの写真」に対した「ぼくの感覚が未だずれていないとすれば」、まちがいなく問題作・良い作品になるはずです。現社会の暗部をあぶりだせるはずです。

殺人犯はタブレット
 ストーリータイトルは、「殺人犯はタブレット」。「え~っ、タブレットなんかで人を殺せるの?」。
 即答で、「殺せます」。いや、「殺されます」かもしれない。それほど人間社会は魑魅魍魎にあふれるようになりました。
 理由です。

 ここに、芥川龍之介の『羅生門』があります。中・高の国語の教科書には、かつて(今も?)必ずと云ってよいほど掲載されていた(る)短編で、今昔物語に材をとった作品です。内容は違いますが、黒澤明の映画のタイトルにもなりました。
 さびれてしまった平安京の羅生門で、置き捨てられた死体の髪の毛を、金(かね)に換えようと抜いている「老婆」と、それを見つけた「仕事にあぶれた下人」という、ギリギリの状況にいる人間の、「心の闇」を表現しようとしたものです。国文学者の三好行雄の解釈に、そのヒントがあります。
 
 彼ら(下人・老婆)は生きるためには仕方のない悪の中でおたがいの悪を許しあった。それは人間の名において人間のモラルを否定し、あるいは否定することを許容した世界である。エゴイズムをこのような形でとらえるかぎり、それはいかなる救済も拒絶する(「現代日本文学大辞典」より)

 「悪を許容しあって、悪の中で平気で生きることができる人間」の中に、「善人」が「ひとり」紛れ込んだとすれば、その善人は、「自ら生命を絶つ」か、「悪の暴露を阻止するための陰謀で殺される」しかないのではないか。
 今昔物語の時代には未だ決して複雑ではなかった、「善悪の基準」は疾うに崩壊したのだろう・・・。善人の追放や抹殺を企む、善の仮面をかぶった魑魅魍魎が、ぼくたちの社会を席巻しはじめているのではないか? ぼくはそう考えました。
 そうであれば、「タブレットひとつ」で、善人は死にます。ストーリーや登場人物は来週から順次掲載する予定です。

「もっとも危ない」のは「人の心」
 このブログを始めたころ、ぼくはナイフ(肥後守)を子どもたち一人一人に渡すことについて、こう考えを述べました。(当ブログ2012年9月15日アップ分『つくらせズ 肥後守は凶器か道具か』参照)
 ナイフや刃物の取り扱いも子どもたちを育てるに当たって考えなければいけない、大きなテーマです。
 かつては小学校のクラスの男の子はほとんど全員が切り出しや肥後守をもっていました。
 鉛筆を削るのはもちろん、枝を切る、皮をはぐ、木を尖らす、どんな遊び道具をつくる際にも重宝しました。竹とんぼや弓矢、釣り竿、水でっぽうや杉でっぽうづくりの大切な道具でした。女の子の筆箱にさえ、小さな刃がついた鉛筆削りが入ってました。
 切り傷や擦り傷、当時はほとんど毎日です。当たり前でした。みんな気になりません。きれいな切り傷であれば二十分位ぎゅっと押さえておくと、傷跡はくっつき血も止まりました。時には化膿することもありましたが、身体はそういうとき、見事な回復力を発揮してくれました。
 放課後や休日、男の子たちは肥後の守を使って、雨の日は近所の軒下で、晴れた日はあぜ道の陽だまりで、竹とんぼや水鉄砲をつくります。作業は簡単ではありませんし、刃物の扱いが常に危険と隣り合わせなことは、今も昔も変わりません。ナイフを使うには細心の注意はらい、集中し続ける力が必要になってきます。
 稲刈りの鎌でもナイフでも、刃物は使ってはじめて力加減・威力・便利さや怖さが分かります。使ってみてはじめて、ふざけて使ったら危険だということも分かるのです。注意力や集中力も実際に使ってみないと身につきません。

 刃物を扱っていれば怪我をすることもあります。今のお父さん、おかあさんなら大騒ぎするかもしれません。しかし、怪我をしたぼくたちは、指先の痛みとともに、小さな傷とは比較にならないくらい大切なことも学びました。相手に対する痛みです。
 心配する母親の気持ちを想い、自分と同じ血が流れる仲間の姿が見えました。自らが感じる痛みと相手に対する思いやりは決して切り離すことはできません。 ゲームでコントローラーを通じて画面の相手をKOしても、「抹殺」しても、相手の「痛み」は分からず快感しかありません。こんな危険な育ち方はありません。 ナイフ事件で大騒ぎする人たちは、倒しても傷つけても殺しても「快感」しかないゲームに夢中になることの恐ろしさを、どうしてもっと強くアピールしないのでしょうか。ここでも「危険であることの誤解」がはじまっています。
 ニュースなどで見る事件が悲惨な結果になるのは、多くの場合、「ナイフ」や「包丁」を「道具」として実際に使った経験がない、身に及ぶ危険や怖さを知らないで育った場合ではないでしょうか。 使った経験がなければ、危険度や与えるダメージの大きさを想像することができません。自らの身に及ばない危険は危険ではありません。自らの身に及ばない危険ばかりで育っていれば本当の危険はわかりません。
 開塾以来、子どもたちにナイフを渡しつづけ、また毎年の稲刈りでもよく切れる鎌を使いますが、過ちはもちろん、怪我もほとんどありません。その成長ぶりを見ていると、経験を重ねれば、今の子どもたちも僕たちのころと変わらないことがよくわかります。
 ナイフは道具であり、使い方やルールは使ってこそ会得できます。小さな怪我が大きな過ちを未然に防ぎます。使ってみなければ使えるようにならないし、怖さや危なさもわかりません。
 ヒトが創造的になっていったのは、道具を使い、「つくる」という経験を重ねていったからではないでしょうか。僕たちと道具を切り離すことはできません。道具はいつまでも現れ続けます。そしてナイフに限らず、使う人の心を育てない限り、道具はいつでも凶器に変わります。 セルフコントロールできる人・信頼できる子どもたちを育てられない環境・育てていこうとしない社会ほど、未来のない、そして恐ろしい社会はありません。 何よりもたいせつなことは、危険な道具を危険と認識し、使い方や使い道をわきまえている子どもたちを育てる環境を整えることではないでしょうか

善悪の彼岸
 ここでは「切れば血が出るナイフとゲーム機で養われる『感覚』と『感性』発達のちがい」について述べていますが、この中に、意識せぬ間に、現在さらに社会に深く浸潤している、「自らを律する、セルフコントロールできる倫理観の喪失」という問題が隠れているのがわかりますか? ゲームへの欲求をセルフコントロールできる子どもがどれだけいるのか、近くにあるコントローラーを平気で無視できる小さい子は何人いるのか? よほど「保護者の意識の高い」家庭でない限り、歯止めがきかない、コントロールできない日常がつづきます。
 心の「限度」、自分を律する『ガードレール』ともいうべき支えが、決定的に崩れはじめています。突き究めるべきは、ナイフを持っていようと、「何を持っていようと、何を持っていまいと」、「いけないことはいけないし、やってはならないことはやってはならない」という心の「崩壊」への傾向に歯止めが効かなくなる問題です。

 悲観論ではありません。心から、みんなで、よりよい社会を、という切なる願いのもとでの発言であることを、ご理解ください。
 この一節は、すでに当時もぼくの目には見え始めていた、そういう傾向を危惧する意味を込めても、述べたものでした。この比喩が「ナイフとゲーム」という間は未だ良かったが、ゲームで育った子どもたちがおとなになって、心そのもの、善悪の理念や正邪の判断基準などさえ崩壊しつつある社会が現れつつあるのではないか。子どもだけではなく、そういう洗礼を受けたおとなが(も)増えてきているように思えます。まさに「善悪の彼岸」です。
 ゲームでいつでも「一人遊び」でき、「何不自由ない環境で育った人は、別に相手に遠慮したり、相手に思いやりをかけたり、気を遣ったりする必要はありません」。昨年『忖度』という言葉が時流に乗りましたが、そんなに遠くない未来には、おそらく「忖度」という気づかいも、忖度という言葉もなくなるでしょう。自分以外の生きている相手に対する気づかいや思いやりなど、気づかなくなり、次第に関係なくなるからです。
 昔、「日本沈没」という小説が映画化されましたが、あのときは日本列島でした。しかし、今は日本人としての『たしなみ』・『気づかい』や『思いやり』も、海の藻屑になりつつある、と感じている熟年者が、未だ日本列島にたくさん残っていることを信じたいものですね。