『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

夢の教科書を求めて ③

2017年11月25日 | 学ぶ

 今週はテキストの作成で使用した本、またスライドの紹介をしています。スナップは今年最後の課外学習「ミカン狩り」のときのものです。

「頭悪くない?」
 「パ・・・」と言いかけて、中1になっていたことに気づいたのか、長男が恥ずかしそうにつづけて、「漢字とか、社会だけできる子って、頭悪くない?」。と聞かれた経験を、ふと思い出しました。
 高校時代からそのことに気づいていたぼくは「経験あるよ。よくわかったな。そんな傾向は大いにある」。
 気づいている先生方もたくさんいるかもしれません。当時、中1で気づいた長男の「センス」にあとをまかせられればよいのですが・・・。指導はそこから出発しますから。

 「社会」がらみで、もうひとつ。ちょうど今受験時期ですが、模擬テストの得点模様からの判断です。
 国語・算数・理科・社会の得点で、国語・算数の合計得点(率)のほうが、理科・社会の合計得点(率)より高い場合は、まだ「伸びしろ」がありますが、逆転して「『社会・理科』の方が高くなった場合は、学力や能力(余裕)が「いっぱいいっぱい」の場合が多い(その時点で)こと」は知っておいた方がよいかもしれません。
 たとえば、各科目100点の模擬テストで国語・算数の合計が120点あり、理科・社会で80点だとすると、合計で後40点の「伸びしろ」はあるが、これが逆転しているときは、「あまり余裕がない」という判断です。団の、今までの子どもたち、京大・阪大等国立難関大へ進学した子の傾向です。

 おそらく、頭を使うしくみやはたらきの問題なのでしょうが、16人中15人がそう(6年生時。例外の1人は京大へ進学した子ですが、全体に高かった子)だから、傾向としては「可能性大いにアリ」でしょう。

受験前ドタバタに思う
 この時期になると、いつも思うのですが、切羽詰まってから躍起になってバタバタ詰め込んだり、ヒステリーを起こしたり、という対応はまったくナンセンスです。「学習習慣や机に座って考えるという習慣」さえ、小さい頃から身につけさせないで、机に座って勉強したり、落ち着いて考えることができますか? 周囲のドタバタやキンキン声にあおられ、子どもたちが「さらなる深みにはまる」ことの方が多いのではないでしょうか? 「後悔先に立たず」は、子どもの前に、まず周囲が心がけるべきで、子どもたちはそれを見て、「後悔先に立たず」を、「心・技・体!」で覚えていきます

 長い間子どもたちの受験事情を見ていて思うのは、受験の合否は、「総合力(周囲・本人・関係者)」の勝負です。「本人のせい」だけではありません。
 受験するのであれば、そのための準備は小さい頃からしておかないとだめです。これは決して受験塾通いのことを言っているのではありません。進学先(中学)も、「総合力」さえ整っていれば、あまり関係ありません(掲示のOBの進学中学と進学大学のリストを見てください)。

 「総合力」というのは、先ほどの「机に座る習慣」というのも一例ですが、「するべきときにするべきことをする」「してはいけないことはしない」と云うような、至極当たり前のしつけや教育に始まる指導。さらに周囲の「学習の必要性・重要性」に対する意識の定着です
 「学習(勉強)がなぜ必要か」を少しも感じていない、考えていない保護者が「勉強しなさい」と云っても、その言葉にはまったく説得力がないでしょう。「説得力があるアドバイスでも聞かない」人が多いのに、説得力のないアドバイスを聞くことはないでしょう。
 そういう意味でも、学習問題を含め、親と子が「生き方を真剣にぶつけ合う」ことから子育ては始まるのではないか、と思っています。聞かないなら聞くまでやる、身を挺してやる、自分も、一人の人間、大人として何かに真剣に向かっている、という姿が常に問われているのではないでしょうか。

 さらに大きな条件は、もちろん「子どもの能力・センス・キャパシティの問題」です。子どもたちを指導していると、「学力面では?・・・」という子も中にいます。
 子どもの学力については、真剣に子どもに向かっている、能力がある先生なら、「可能性は別だが、現状ではここまでだろう」ときっちり判断できるはずです。それらのアドバイスを受け、冷静に振り返り、判断して「未来をみること」が大切です学力の発達はこれからです。その準備をしておけばよいのです。それも、先に話した「総合力」のひとつです

 無理矢理詰め込んで消耗させ、「伸びしろ」まで摘み取るより、「余裕」の中で「頭と心の栄養」をたっぷり蓄えて、大学進学時の爆発力を養う方が、後の人生は遥かに充実します。どちらの方法が「子どものこと」を考えていますか? 表記の団のOB諸君は、全員後者です。
 人生は昨日今日の受験で終わるわけではありません。子どもたちの場合、これから何十年も先があるわけですから、失敗は失敗で「かけがえのない経験」になります。バタバタするより、そうした場合こそ、真剣に、その失敗に向き合うよう、心を砕いてください。その失敗の経験が、「次はバタバタはやめよう」と悟る糧にもなるわけです。そちらの方が大事です
 「バタバタ」で合格しても、その味を占めて、試験という試験はすべて「バタバタ」と云う、「実りの期待できない勉強の連鎖」になることになります。そういう人も実際多いのではないでしょうか。
 「勉強の大きな実り」は「着実な歩み」の後に訪れます。取ってつけた「バタバタ」はやめましょう。「心の構え」は「たかが受験、これも人生」です

立体授業「ミカン狩り」と夢の教科書
 11月19日は今年の課外学習のフィナーレ、「ミカン狩り」でした。最終でもあり、また季節感の体感も感じさせたく、立体授業のスライドとテキストを作成するのに前日深夜までかかり、当日朝いつもお願いしている米づくりの前川さんにレストランの二階の会場レンタルを打診すると、千葉の高校生の修学旅行で、どうしても部屋が空かないとのこと。焦りました。せっかくスライドができあがったのに、当日子どもたちに見せられないのでは「水の泡」もいいところです。

 さらに「クワガタ探し」の宿舎も紅葉シーズンで満室とのこと。再度前川さんの所に電話をして、「どこでもいいから、コンセントと延長コードがあればいいから」と「無理強い!」すると、「『飛鳥駅』の貸自転車社屋の二階ならよい」というOKをもらい、急遽自転車置き場の片隅にサポーターの皆さんに手伝ってもらいスライドを映写できる簡易スタジオをしつらえました。スクリーンはA1のポスター裏の発泡スチロールで代用し、なんとか上映。

 数年前から、事情が許す限り、現地で立体授業としての指導を完結させたいと思っている願いが叶いました。「環覚」は自らの周囲に対するビビッドな感受性を意味するものであり、『学体力』は、進んで自ら学ぶ力であり、と云うコンセプトから考えると、「災い転じて」という流れだったなと、ホッとしています。
 ぎりぎりまで考えていたスライドとテキスト新作、一部紹介します。
 最初は、まずミカンの品種の多さです。観賞用までつくられていること。これは「学習対象」が何であっても同じですが、「さまざまな種類がある」とわかることによって、その対象の「奥行き」と「深さ」に想いが届きます。その「差異」に目が向けられることで、好奇心は動き出します。「『ミカン』がただ『ミカン』であるうちは、学習意欲は機能しません」。

 2枚目は教科書にもよく出てくる芥川龍之介の『ミカン』の全文です。これは当日読めば時間が長くかかるので、前の日にプリントで配布し、みんなで読んでおきました。
 暗い鬱屈した心理が、「トンネルを抜ける明るさ」とともに、女の子が小さい弟たちにミカンを投げる行為で少しずつ癒されていくこと。また「奉公に向かう」という時代背景も、ぜひ伝えておかなければなりません。

 「立体授業」というネーミングは、その学習対象を学ぶことによって、その学習対象がこどもたちのこころのなかで「生き生きと立ちあがること」はもちろん、それによって、それ以降、子どもたちの周囲の対象に対する感覚が、ひとつでも多くの対象にフィットすることを意図しています。それによって、周囲は『夢の教科書』になります。受験対象の『抽象』という学習の壁を打破しなければなりません

 3~5枚目は、「ミカンの花咲く丘」の写真と歌(音楽)です。ミカンの花が咲く季節を考えたり、受精・受粉の話(温州みかんの検索をしてみてください。格好の学習対象です)に導入したりと、展開は如何様でも可能です。
 ミカンの産地を和歌山・愛媛・静岡とだけ覚えていても、その特徴となるべき共通の地理的条件や諸々の考えなくして、「学習のおもしろさ」や興味の広がりは喚起されません。受験だけの知識です。ところが、こういう展開を始めると、「~思われる」という歌詞によって「僥倖」があり、受験知識の一つ、わかりにくい「自発」の概念がすっきり腑に落ちたりするわけです。

 また、続いての『里の秋』は、こそッと「時代背景を思わせる歌詞」が出てきます。『ミカンの花咲く丘』とともに、よい唱歌であることはもちろんなのですが、その展開次第で、音は音に終わらず、歌が歌に終わらず、子どもたちの心に触れる指導がともないます。
 おとうさんを想うこころやおかあさんを想うこころ、逆に子どもたちを思う心が、時代とともに合成ジュースや濃縮ジュースのような、「不自然な」あるいは『しつこいくらい甘ったるい』味に変わってきたような気がします。「自然の奥深い味」は、自然にふれること、また自然にふれた人の感覚とともに、子どもたちの心に生き生きとよみがえってきます。ぼくは、いつもそれを願っています

 
 7枚目は紅葉鮮やかなとき、紅葉と落葉のしくみを伝えたいと思いました。そのときたいせつなことは、まずカロチンやアントシアンではなくて、どうして紅葉や落葉というしくみができあがったのかという謎です。
 そこには、考え方によっては、切実また無慈悲な植物の生命のしくみが隠れています。「色素を聞いて何がおもしろい?」

 「それを問いかける感覚」が生まれることで、「抽象の集積」・「受験の手引き」である参考書やテキストではない、子どもたちの「夢の教科書」が誕生します


夢の教科書を求めて ②

2017年11月18日 | 学ぶ

 今週の写真は、6年生のリクエストで再化石採集をガーネット探しの新しい採集地に変更した課外学習の際のスナップです。なお、来年の渓流教室は一日を赤目、もう一日を、このきれいな清流で過ごすことにしました。

授業料と責任と
 A君「月10万円!」。B君「そんなの、まだ安いHGは年間140万円だって!」。
 最近まで興味がなかった大手受験塾の授業料です。
 団には大手受験塾の指導に嫌気がさして転塾してくる子が時々います。先週、『学体力が整ってきた』と伝えた、現在OB教室で学習を続けているH君もその1人です。
 お父さんの言では、Mの宿題の多さとおもしろくない指導に一年弱でいやになり、泣きながら拒否したと云います。H君は運良く(!)団の指導で学習を続けることができ、学習のおもしろさを理解できましたが、そんな高額授業料でも、指導がおざなり、勉強が嫌になったり、勉強を拒否してしまう子が、おそらくたくさんいるのでしょう。今までの転塾生を見ていて、そう想像しています。

 何でもかんでも『寄らば大樹の陰』、また「誇大気味の広告、ハリボテの進学実績を見て選択したのが大きなまちがい」ということも稀ではないでしょう。近頃物議をかもしている、さまざまな議員先生の選挙の投票もそうですが、「自らの目と感覚で、正しいもの、本物をしっかり見分けること」が、ますます必要になってきている時代です
 学習塾は「高級ホテル」ではありません。「入れ物が大きく設備が整っていればよい」というものではありません。「人数が多ければよい」というものでもありません。タイガースの応援ではありません。 志ある小さな塾で、自らの責任の元できちんと指導している先生方は、みなさんそう思っているのではないでしょうか。

 塾は預かったひとりひとりの「人間のこども(!)」を、立派な社会人に育つべく、学力や能力・人格育成も含めて関わらなければならない「神聖でたいせつな交流の場」です。また「いつも温かい血が通っていなければならない『学力養成の心臓』」です。それが、ただの「商売の種」では、いくら考えても片手落ちです
 団のOB諸君は医大や医学部に進む子が多いのですが、ぼくは彼らに言い続けてきた(言い続けている)ことがあります。「やりがいのある、ほんとうに人のためになる仕事」を見つけてほしい。先生と医師は、その中でもおすすめだ。生命と一生の学力(能力)と云う、かけがえのないものに携わることができるからだ。心からの感謝は、お金には代えられない」
 そして、「金儲けを考えて医者になるならやめてほしい。他の職業に就いてくれ。死ぬのが怖かったり、苦しくて仕方がない人が『なんとかしてほしい』、「生命という無二のものを救って」と頼ってきているのに、金もうけや高級ブランドや高級料亭しか考えていない、考えられない『先生』では、患者さんがかわいそうだ。生命や人間に失礼だ。それに、そんな片手間で真心がない治療では治る病気も治らない」。

 先生(教師)も本来なら医師と同じように、高額の対価(診察料や授業料)を取るのは、ある意味では当然かもしれませんが、それはそれに見合う仕事をしての補償です。人を助け、人を育てるという「かけがえのない仕事に、それにともなう責任や義務は果たせているだろうか、と絶えずその確認がもっとも問われるのが、これらの職業でしょう。一人一人の人間の『人生そのもの』が関わっているわけです。それだけの自覚はあるでしょうか。

 年間120万、140万と云えば、収入のそれほど多くない家庭では、お母さんのパート代以上の収入が飛んでいくわけだし、これでは通塾させられないという家庭もたくさんあるでしょう。転塾してくる子の性格やその成長ぶりを見ていて、「そんな高額の授業料を取って、果たしてそれに見合うだけの指導をしているのか、その責任を感じているのか」。
 半分にも満たない授業料でも、その法は崩したくない。ハゲエモンは、改めてそう思いました。ぼくたちが育てているのは、「人間の子ども」です。親も先生もそれを忘れることはできません
 授業料がままならず、通塾させられないお母さん・お父さん。学習では小学生のときがいちばんたいせつです。一生を左右します。
 ほんとうに真剣に子育てや学力伸長のことを悩んでいる方、子どもに立派になってほしいと、心から願っているお父さん・お母さんは、学習方法の相談や指導やしつけの注意等、ご遠慮なくご相談ください。家庭でもできる効果的な学習法や指導法をアドバイスします。なお、封書で、もしくは直接お見えいただいた方に限らせていただきます。

塾代助成事業に思うこと
 塾の指導問題に関連して。
 大阪市では塾代の補助金制度を導入し、学力向上に対する「てこ入れ」をしています。これは前にも本部に直接手紙でアドバイスを送りましたが、学習指導や通塾に対する支援や学力の向上を本気で考えるなら、小学生の段階での支援体制や学習指導の強化に本腰を入れるべきです
 学習に対するおもしろさがわかり、学習を自らすすめていく「学体力」の定着と強化、その導入に最善・最高の時期は小学4年生まで、いくら遅くとも5年生までです。中学生では遅すぎます
 小学校以降でも、中には学習に夢中になる子もでてくるでしょが、圧倒的に少数だと思います。また、負けん気をあおられゲーム感覚の受験学習にはまって、という子もいるでしょうが、その学習はたいてい受験までで、「一生の目的に嵌る」ことは少ないでしょう。
 この観察は、「小学生から高校生まで1人で指導して、毎年その成長を見守れるからわかること」かもしれませんが、大阪市の学力伸長が、この支援によって目覚ましく進んでいるわけではない(そうではありませんか)のは、ひとつは「打つ手の効果的な時期や対象」の認識のちがいではないでしょうか。

 もちろん学力の伸びについては、現場を含め他の問題も山積みでしょうが、これらの学習指導時期や指導支援の適性に対する選抜、根本的な認識・判断を、まず再検討するべきだと、ぼくは考えます。
 子どもたちの学習に対する意識づけや「環覚」の育成・「学体力」の養成に、もっとも効果的なのは小学校4年までの指導です、「遅くとも5年生まで」に、学習に対する意識や考え方を課外学習も含めた『立体授業』で培っていくことです
 それが定着すれば、自らおもしろく学習を進める子が飛躍的に増え、学力・学習問題は半分解決するだろう、とぼくは考えます。ともあれ、個人・大手を問わず、指導内容や指導レベルの中身を厳密に精査することが、まず必要だと思いますが。

学習がおもしろくない理由
 「おもしろい学習」「おもしろくない学習」という話題で、よくお話ししていますが、ひょっとして「おもしろい学習」ということが、そもそもわからない方もいらっしゃるかもしれません。
 学習塾や予備校で受験指導しか受けてこなかった、そういう学習経験しかなかった人には、「勉強がおもしろい? そんなことは考えられない」。そんな人もいるのではないでしょうか。
 それは、いわば『滓』の勉強、『出がらし』の勉強しか知らなかったからです
 歴史的に振り返ると自明ですが、今子どもたちが学習している『学習項目』や『学習内容』は、いわば先人の研究(学習)の「結果」や『結論』(ばかり)です。経過が抜け落ちています。
 人類は誕生以来、『学習』を続けてきましたが、「学習の対象」は、『生きていくために知らなければならなかったこと、どうしても考えなければいけなかったこと、解決しなければならなかったこと』でした。つまり、学習の多くは『生きていくためにかけがえのなかったこと』でした。そして、それに自ら向かわなければならなかったのです。
 それらは生きていく以上必然でもあったし、生きていく上では当然のことだったでしょう。さらに、その解決に至った過程では苦労があったとしても、すべてに「それによって家族や身内が快適になったり、ゆとりが出たり、みんなから尊敬を受けたり…」と云う、「快を生む」現実の結果と大きな喜びがともなっていたはずです
 つまり、学習は、それをすることが生きていく上では必然のことであったし、することによって喜びをもたらすものだったのです。生活と切っても切り離せないものでした
 ところが、現在の勉強、つまり学習対象や学習内容は、そういう祖先の営為によってもたらされた結果や結論の『集積』のみです。それらを抽象的にたどり、覚えていくだけ、と云うのが、ほぼ現在の学習スタイルです。
 「誰のためかもわからないし、することの意味も不明」です。「果たして役に立つものか、かけがえのないものなのか」という確信も得られず、その過程で苦労したり、失敗したり、考えたり、という試行錯誤も、「現実に即して何かを獲得する、完成を見届ける」というような体験もともないません。
 現状(の指導)では、「学習の意味」も「おもしろさ」も見えようがありません。見方によれば「進化した不幸」とも云えるかもしれません。「生きていく術」で、わたしたちが取り組んできたはずの学習が、進化によって、「学習が、生きていく術ではなくなった子どもたち」を生み出したわけですから。

 おもしろく学習させるには、これらの現実をふまえ、意味するところをしっかり認識し、その解決を図らなければなりません。「学習するとはどういうことなのか」の伝達から始まり、「学習する(した)ことの力の確認(受験合格以外)ができること」、そして「学習することはおもしろいことである」という指導法を極めていかなければならなくなった時代なのです。
 教師は受験指導、生徒は受験学習に明け暮れている間に、どんどん(本来の)学習にも関係のない(としか考えられなくなっている)『落ちこぼれ』が、ますます増えてきてしまっているのが、現状ではないですか。公も私もその辺りの認識を共有し解決に向かわなければ、大阪市(をはじめとする)現状の子どもたちの学力向上は難しいでしょう。


夢の教科書を求めて①

2017年11月11日 | 学ぶ

 立体授業テキストで二上山の写真を提供してくれた辻本勝英氏は、ぼくの学生時代からの親友で、若い時から写真を撮り続けている写真家です。写歴は彼の方が古く、二上山をはじめとする風景写真を中心に撮っていました。ぼくは「心に引っかかるもの」を何でも撮る方で、彼とはテーマがまったくちがうのですが、心置きなく何でも語れる、よき友です。

 彼は15年くらい前からライフワークとして「花火」を撮り続けていたのですが、この度作品集が日本カメラから出ました。素晴らしい作品の数々で、良い刺激をもらいました。写真は撮影の継続とボリュームが質に転化します。子どもたちには、継続の大切さをまた伝えようと思います。さらに、できれば「オンリーワンの自分」を何か形で残しておくことを。
 一部を紹介します。なお、スキャナーの関係でサイズや色合いが微妙に変わってしまったことを作者とみなさんにお詫びします。(「PROMETHEUS-プロメテウス」 辻本勝英 日本カメラ社)



学体力と受験学力のちがい

 先日、OB教室の英語指導の話をしました。くわしい文法の説明もなく中学入学後すぐグレードリーダーを、辞書を引きながら一緒に読み続けているというエピソードです。週一回そういう指導をしていますが、英語に拒否感や苦手意識もなく、黙々と読み続けて、その訳文をノートに書き、ぼくといっしょに検討するという方法で継続しています。微妙なニュアンスを確認し、英単語=辞書の訳語だけではないことを、毎回口酸っぱく強調し、情景を想起させ、訳に反映させる、という指導です。

 大学受験まで6年間勉強したのに、大学入学後英文講読を「まるで初心者のように進めざるを得なかった」ぼくの苦い思い出から生まれた指導法ですが、半年経過し、どんどん自分で進めていく姿を見ていると、「学体力」が確実に定着したことがわかります。
 全く知らないことでも、ともかく説明や解説を読むことから始めて、自分で理解をすすめ、納得していくことができれば、何も困ることはありません団の指導は家庭学習も含め、そこから始めます。大学受験当時のぼくは「受験学力」しか身についておらず、残念ながら「学体力」は未だ養成されていなかったのです。

 そうした学習と並行して、ぼくが読んでいる本から、ふだん子どもたちに伝えていることを補強する内容や、参考になる一節を見つけると、紹介していくこともよくあります。昨日もそうでした。
 昨日のOB教室では、「今すぐ役に立つ翻訳84のコツ英和翻訳の基礎知識」(松本安弘・松本アイリン著 バベル・プレス)からピックアップしました。まず目についたのは、ぼくがふだんから強調している訳語に対する「認識」の確認です。
 
 訳語というものは文脈から、その場に最も適したものをいくらでも作り出すことができるもので、英語原文を本当に理解しておれば、柔軟な頭で、自然な日本訳語文が生まれてくる。英和辞書に出ている訳語は一つの例にすぎず、その例の訳語を一つだけ固定的に覚えておいて、それをどんな文脈の場合にも無反省に強引に使おうとするのはよくない。そこで英英辞典を利用する必要がある。英和辞書の定訳を使う悪いくせから脱することができる。(前記書p38下線は南淵)
 
 このアドバイスは彼と、現在の英語指導を始めて最初に云ったことです。自らの経験から実感としてそのまま伝えていたので、きちんと理解してくれているようですが、紹介によって、彼の中にその大切さが、さらに定着することを願ってのことです。そして、本の一節を読むことで、自らが学校の指導より一歩先に進んでいることも、よく自覚できたでしょう。

 もう一つ同書から。サイデンステッカー氏の芭蕉の訳を引用しての一節です。この芭蕉の俳句は誰でもよく知っています。「俳句が英語に変わるとどうなるのか」という感覚をつかんでくれると思いました。
 
 古池やかわづ飛び込む水の音―芭蕉
 The quiet pond
 A frog leaps in,
 The sound of The water.
 ―trans.by E.G.Seidensticker
 
  「古い」はold,aged,ancient,antique,usedなどいろいろあるが、結局quietとしている。
 old pondでは古くなった、水がくさった、年老いたなどの意になり、ばかげて意味をなさないからである。またancient pondでは古代の池となり、原文「古池や」のもつ軽みがない。「や」という咏嘆詞は英語にないので訳をあきらめている。(同書 p32)

 
 「古い」をquietという、ふつうの学習からは到底馴染めない感覚もつかんでくれたでしょう。中一ですから、彼の英語の読解力の肝になったはずです。
 俳句を英語に直して意味があるのかどうかなど、様々な考えがあるかと思いますが、日本語を英語に直すおもしろさや、異言語で感覚を伝えあうむずかしさ、日本の感覚を英語から読み直すという考察など、学ぶことは山ほどあります。
 「子どもたちの学習がおもしろくなる大きなきっかけは、自分の方が先に進んでいる、深いところを知っている、よくわかっている、というアドバンテージに対するプライドや自信」です。その点が、受験オンリーで点数や順位に縛られ、評価の対象が限られるだけの受験指導・受験学力では見落とされているところです点数・順位が評価の絶対的対象である受験学力では合格で用済みで、「オールマイティの学体力にはなりえない」のです。「受験以外での大切さやおもしろさには縁遠い」わけですから
 「H(彼の名)、どうや、英語がおもしろくなったようだな」とぼく。
 「はいっ」彼のうれしそうな表情と返事が、彼の先々を暗示してくれます。何よりも「学体力」です。

学体力からの導入
 もう一つ「学体力」へのきっかけを紹介します。
 左の社会の参考書は授業で使用しているものです(「社会メモリーチェック」企画編集/日能研教務部 みくに出版)。
 「都市と人口」など典型的な暗記学習の分野で、ぼくも大嫌いだったし、子どもたちに教えるのも、「彼らの心」を思うと、うっとおしくていやになります(笑い)。左の解説ページを参照しながら右のポイントチェックで確認テスト欄を埋めていく、という方法ですが、ほんとうにうっとおしい。

 県の形や人口・面積・人口密度・・・未だに「こんなことを覚えて役に立つのか」という思いでやっています。こんなところに子どもたちの大きな消耗原因と、勉強に対する誤解を生む大きな要因が宿っています。そんなものを覚えてもクイズに役に立つぐらいで、記憶力のチェックにしかならないでしょう
 この単元で、唯一おもしろかったのは、Ⅰの(1)の問題で■の部分です。
 「2010年の人口の多い都道府県は、1位東京都、2位□、3位大阪府、4位愛知県、5位□、6位千葉県で、これら6都府県の人口の合計は、日本の人口の約■割を占めています」。

日本の人口に対する割合を求める問題です。 
左に、それぞれの都道府県の人口は資料で載っているのですが、日本の人口は載っていません。この理由はおそらく、改訂が頻繁になるので、偶々ということなのでしょうが、入学テストをする側は、「こういう問題作成こそ主力にするべき」だと思います。
 「日本の人口は何人」というぐらいは小学生としても知っておいてもよいと思うし、その知識を利用して、こうした問題に答えられることこそ、必要な学力でしょう。各県の人口順は1位とビリぐらいは県名を知っていてもよいと思いますが、それ以上の何位だとかは必要なのだろうか? そう思いませんか?
 それよりそんな詳しい順位は表(資料)で出しておいて、それに基づき先ほどのような問題や、順位の原因や様々な理由に問いかけをして考えさせる、「ひらめき」を問う、「頭のはたらき」を見る問題にシフトする方が、素晴らしい子どもたちが集まってくるのではないか。その方が、過大な記憶のストレスがなく、センスやひらめきのよい子が集まってくるでしょう

 そういう子たちが集まってきて、自ら学びたい、先に進みたい、学問したい、研究したいと思うようになったとき、その「学体力」とともに、必要性や経験を通じて記憶もついてくる(来なければならない)という進み方。そういうスタイルが子どもたちの可能性の大きな開花を考えた時に、望まれる方向ではないか。
 特に「社会科」は、先々を考えれば、「現実や現象について、思考力や判断力がもっとも必要とされる科目」でしょう。細かい資料などは問題に用意して記憶の対象にせず、「分析力や思考力を問う方に問題作成をシフトすべき」ではないでしょうか
 優秀な生徒・潜在能力の高い生徒を集めたい学校は、すべからくそうすべきだとぼくは考えています。不必要な些末な知識のチェックでは、優秀な生徒は集まりません。「そうしたことの苦手な子」の方に却って、鋭いセンスをもっている子がたくさんいる、というのが子どもたちを指導しての実感です。


石ころと星・宇宙の誕生と死25

2017年11月04日 | 学ぶ

 今週は、立体授業の指導をしたり、このブログで指導の紹介をしたりするときによくお世話になっている本を一部紹介してあります。
 紹介以外にも良い本がたくさんあります。「数研」や「とうほう」、「東京書籍」などの高校生用生物資料集、小学館の図鑑NEOシリーズ、主婦の友社のふしぎ!なぜ?大図鑑シリーズなど、いずれも子どもたちの環覚養成にビジュアルアプローチをするのにとても役に立っています。なお、「これが物理学だ!」は何度読んでも、指導への愛があふれていて、指導の参考になるのではないでしょうか。
 団の子どもたちの「心・技・体」が健やかに整うのは、みなさんのおかげです。日ごろの引用使用のお礼とともに、ここで紹介させていただきます。

「受験コース分け」で失ったもの
 ぼくが卒業した高校は、それなりにレベルの高い奈良県の県立高校でした。
 高校二年くらいのときから進学希望別にコース分けされ、授業配分もそれ(入試科目)にもとづいていました。ぼくの選択は国立の文系だったので、理科はほとんど生物だけ、という変則受講です
 つまり、それ以外の理科科目は高校で満足に学習できなかったわけです。いまはどうなっているのでしょう? 相変わらず、「将来の教養」より、「受験効率優先」なのでしょうか?
 当時は何もわからず、受験中心で指導されていたので、「そんなもんか。」と云う軽い気持ちで疑問も持たなかった(持つ余裕がなかった。これも問題です)のですが、成長するに連れて、特にこどもたちを指導するようになってから、「あんな馬鹿なことはなかったな」と、その理不尽さを痛切に感じるようになりました

 たとえば、簡単にいえば、物理・化学・生物・地学という理科4科のうちの1科や2科では、「世の中(環境)を知り、解釈する力が半減して(すべて中途半端に終わって)しまう」ということです。それによって「おもしろく興味ある対象として覗ける世界」が半ば鎖されてしまうことになります
 年齢を重ねて余裕もでき、いろいろなことを見る(が見える)ようになると、その指導されなかった科目が、もし素晴らしい先生の指導によって少年時代に解きほぐされていたら(少なくとも興味をもたせる指導を受けていたら)、老年になっても、孤独をかこたず「興味津々で、日々おもしろいことを探し、また考えて一生を終われる人」だって、少なからずいるだろうと想像しています。それこそ「生涯学習」です。

 20年以上前になりますが、こどもたちを教え始めたとき、基本的なことさえ満足に知らない(忘れている)ことが多く、不便を感じ「再勉強」を始めました。それ以降、「できるだけ子どもたちのレベルで丁寧に」と考え、勉強をすすめていくと、「こういう科学的な考え方や知識が若いときにきちんと身についていれば、成長の過程で、どんなに興味や大きな可能性が広がったであろう、おもしろく過ごせただろうに」と振り返り、情けなくなりました。これは就職や職業関連だけで云っているわけではありません。
 今でも受験に有利だ(ほんとうにそうかな?)として、まったく疑問をもたず、その指導スタイルに賛成する人の方が多いのではないかと思いますが、その「受験をターゲットにしか学習(勉強)を考えられなくなっている思考形態・習慣」そのものが、「勉強(学習)」から『学ぶおもしろさ』という『最重要要素を欠落させる』要因になってしまっていると、ぼくは観じています。
 現状の教育体制では、どんな意味においても受験を避けては通れませんが、決してすべてではないはずです。途中経過です。
 受験を含んでも、もっとおおらかに、余裕をもって乗り切れまいか、それをいつも探しています。もちろん前提として、保護者のみなさんとの信頼と共通理解がなければなりませんが。

 団のお母さん方は最初、受験学年になっても年間10回以上も課外学習に出かけ、遊びほうける、そののんびりしたようすにびっくりされるようですが、幸せなことに、そうした経過をへても、その後多くの子どもたちは、後年もすばらしい成長を続けてくれます。これは課外学習や立体授業による、学習の周辺や奥行き、関連事項の、いわば『受験勉強』以外の「余裕の指導」によってもたらされたものではないか、と推察しています。
 ふだん取り組んでいる子どもたちの「学習するおもしろさ、学ぶおもしろさの取得は? その方法は?」ということを考えると、ぼくの場合の例のように、既に捨象されてしまっていた(あるいは気づかなかった)科学的知識や思考法(ぼくの場合は物理・化学・地学)のなかった感覚の不幸に行きつくのです。子どもたちの学習では、いわば、「関係のないものはない」のです。何もないところからはじめるのですから。「枝葉の広がり」が「学ぶおもしろさと大きな喜びを生む」のです
 ふつうであれば身につけていたかもしれない科学的な知識や考え方が、現実解釈や判断に相乗効果を発揮し、その思考の先のステージや研究の道が開かれたかもしれないこと、あるいは逆に、その不足によって「学ぶことそのもののおもしろさがわかる、したがってさらなる成長の可能性を制限してしまったかもしれないこと」に、思いが至るのです。高々(!)『一回の大学受験』のために。

 こうして考えれば、受験効率しか考えない「仕打ち」は、将来の子どもたちにとっても、とても残酷なことではないでしょうか。「大学に合格するための受験勉強」は、「その大学に合格しておもしろさや興味をもてるものを追求するため」のはずが、逆に「それらをすべて喪失してしまって、結局何を学びたいか、何を知りたいか、何で生きていきたいかもわからぬまま卒業する羽目」になる。冷静に考えれば、「本来さらなる広がりを求めるべき、研究や専攻に直結する大学教育そのものに対して、進学する方は正反対の教育方法、指導形態になっている」ということでしょう。
 どちらにしろ、成長過程における精神的「豊かさ」の喪失です。教育そのものや子どもの成長をもっとちがった視点、先を見た長い視点でとらえ直し、指導法や教育法を深く考え組み直し、という取り組みがもっともっと盛んになるべきだと考えています。

科学の大発見はなぜ生まれたか
 このタイトルは、少し古い本の書名です。「科学の大発見はなぜ生まれたか~ 8歳の子供との対話で綴る科学の営み ヨセフ・アガシ著 立花希一訳 講談社ブルーバックス」。紹介の原書の英語もそんなにむずかしくありません。
 タイトルにあるように、科学哲学者の著者が、自分の子ども相手に科学(史)の手ほどき、科学と哲学について話しあった対話をもとに書きあげたものです。ふだんから、お父さんの指導のもとで、さまざまな科学的知識や考察を指導される機会があったのでしょう、アガシの息子は8歳の子供とは思えない高度なレベルで抽象的思考を巡らせています。もちろん本の体裁を保つという執筆の影響もあるでしょう。
 ところで、ぼくが、この本を読んだのは、「日本版のまえがき」で披露している作者の考え方に興味をひかれたからです。

 まず
 「本書は長年の研究の成果でもあります。私はアカデミックな学問の壁を打破する必要性をいつも痛感してきました。この目的にとって必要なことの一つは、学問研究のもっともよい成果を公に示すことです。この点で、私はガリレオとアインシュタインにならっています。かれらは、科学は贅沢品などではなく、ポップ・サイエンス(一般向けの科学)こそが科学の頂点だと見なしました。 
 いかなる科学的成功も、それが教育を受けた一般の人々に届かないかぎり、全面的なものとはなりません。残念なことに、ほとんどの専門家は、ポップ・サイエンスのほうが、それが模倣する完全な構造をもつ科学以上に大きな利点をもっていることに気がつきません。
 その利点とは、(中略)広い視野のもつ明快さです。自分にもうまく説明できないような科学の細部を暗記するように学生に押しつける科学教師のやり方は混乱を招くだけです。科学に関する骨太のアウトラインを学ぶことは、多くの点で学生に役に立つことでしょう。そうしたアウトラインこそが科学の細部に意味をもたらすのです。(前記書p5~6 下線は南淵)
 

 科学指導また科学教育に対する疑念です。
 「科学に関する骨太のアウトライン」という訳は、日本版がないので原文をたどれませんが、「広い視野のもつ明快さ」という訳語から類推すると、たとえば、先ほどの4科の「骨子となる一般的な事象に対する基本の考察である」とも考えることができます。「それが逆に、自由な考察を促し、科学の細部にも大きな影響を与える」ということをアガシは云いたいのでしょう
 そしてそれらが、大きくとらえ直して環境を再解釈した、ニュートンやアインシュタインの「発見と思考の流れ」だととらえることもできます。いずれにしろ、基本的な科学に対する認知・習得の意味と、その重要性の強調です
 なお、ここで使われている「ポップ・サイエンス」が、よく見かける『手品まがいの見世物』だけではなく、その「『手品』の根拠やしくみを現実に即して振り返る(考えさせる)指導や指導方法が含まれているもの」と、アガシのために想定しておきます。
 その後、アガシは自らの科学教育経験を振り返り、科学教育にも若いころに受けた宗教教育と同じように「教義」があった。しかし、科学教師たちの「教義」に対する独断的な態度にほとんど抵抗できなかった。その独断的な教育にまったく根拠がないことを理解するのに何年もかかった、それが理解できたのはカール・ポパーのおかげだった。そして、どんな教義を押しつけられようとも、寛容で有能な教師さえいれば、学生は、その援助のもとに自由に勉強することができる、と述べています。

 こういう考えのもとに、アガシは自らの子どもと質問や反論を挟みながら、自由な対話を繰り返していきます。「子どもの能力が相当高く、日ごろから観察や指導を繰り返されているからこそ」の指導法です。素晴らしい方法で、条件さえ当てはまれば、相当優秀な子どもが育つでしょうが、一般的ではありません。
 そういう意味から、科学教育へのアドバイスとしては、ふつうのお父さん・お母さんに育てられる子どもは、やはり日ごろから身のまわりの事象に目を向けられ、その謎や不思議に気づく機会、そしてそれを考える機会(時間)をたくさんつくっていくことの方が、現実的で、有意義です。それによって、子どもたちは自ら調べ、考える子に育っていくでしょう
 その結果、知りたいことや質問が出てくるようになったら、間髪を入れず、機会を逃さず、その質問や疑問を解決する準備や手伝いをする、また一緒に考えるという時間をつくってください
 何よりもタイミングを外さないことが大切です。「知りたいことが解決されないまま」だと、知りたい気持ちは次第に薄れていきます。次がなくなります。一生かかわってくる「環覚」の養成にはタイミングが欠かせません。

科学者は社会的な活動のできない人間?
 さて、アガシのアドバイスは続きます。

 多くの西洋の学校や、日本、ラテン・アメリカ、その他事実上すべての学校では、科学のトレーニングには、自由な討論に熟達するためのメニューは含まれていません。(中略)いっそう悪いことに、かれらは、誤りは減点だとしてペナルティを科すように条件づけられています。さらに、教え子を科学者にしたいと思う教師たちは、科学者というものは専門に精通していなければならず、しかもその専門的知識だけを語ることが模範的なふるまいだと指示するのです。この模範にしたがうと、科学者は、社会的な活動のできない人間、おそらくそうしようとすら思わないつまらない人間になってしまいます。(前記書p7 下線は南淵)

 下線部は学習や学習内容を身近に引き寄せる、つまり「環覚」の養成を心がけるに際して、熟読玩味すべき反省点だと思います
 こうした考えのもとに、アガシは子どもとの対話を、科学史だからといって、重要な古代ギリシャの考えから勉強するのではなく、地球が惑星であるというコペルニクスについての議論から始めます。そしてその結果を、やはり、「息子はすぐにコペルニクス説に興味を示しましたが、古代ギリシャについてはそれほどでもありませんでした」と結んでいます。
 しかし、これについては「ある程度の科学的知識を蓄え、知的能力も優れていたアガシの子どもだから」という条件もあるでしょう。ギリシャの科学的考察は、一般人が、科学に目覚める良いきっかけにもなる指導内容や指導法に止揚させることもできるのではないかと、ぼくは考えています。
 いずれにしろ、ファインマンの小さい頃の記憶やアガシの方法からぼくたちが学ぶべき第一は、学習にしろ、科学にしろ、子どもたちに伝えるためには、何よりも「伝えたいという思いと情熱」が先である、ということでしょう。それがなければ何も始まりません