三人の科学者の問題提起(続)
ぼくは斜光や木漏れ日が好きです。よく写真に撮りますが、今週のスナップは11月27日午後の近所、30分の切りとりです。
先週の続き、福井博士の論説からです。
活字によって自然についての知識を増やすことは、もちろん大切である。が、そうした活字性の自然認識が、順序の上で、また量の上で、前に述べた経験による所与性の自然認識に先行すると、自然はその本来の姿とはまったく異なった姿に変容してその人に認識されてしまうに違いない。
(『学問の創造』 福井謙一著 朝日文庫)
下線部は、わかりやすく言えば、「自然体験で生のままの自然を先入観なしに受けとる機会が少なく、本や知識からの抽象の自然理解が優先すると」、と言い換えることができます。「机上の勉強で抽象から入ってしまう科学」は、「本来の姿とはまったくちがって認識されてしまうことになる」、ということです。
福井博士はこう続けます。「これは少なくとも奥深い自然を科学化しなければならない自然科学者には、好ましいことではない。否、危険でさえある」。
つまり、ここに引用した三氏の主張は、表現こそ違え、いずれも、「小さいころ、自然に触れ自然に浸ることのたいせつさ・かけがえのなさ」を述べています。子どもが「単なるお客様としての他人行儀な自然体験」ではなく、「感覚的に言えば、『浸る』また『包まれる』自然教育が、心身ともの健やかな成長には欠かせない」、ということでしょう。
受験はたいせつだけれど、成長過程にある子どもたちには、「それだけで終わらない日常が、もっとたいせつ」なのです。受験勉強でも当然「考えること」、「考えるトレーニング」が付随するはずですが、一方で『所与性の自然認識』つまり「豊かな自然体験」がともなっていることが欠かせない、と言い換えることができると思います。福井博士は、その後こう続けています。
子どもの時からの自然と親しむ生活に加えて中学時代にこうした経験(博物学会や生物同好会で生物の採集やいろいろな山登りやハイキングを繰り返したこと・南淵注)を繰り返した私は、その中で後の人生にいろいろな意味で大きな影響を与える結果となった。(『学問の創造』 福井謙一著 朝日文庫)
この大きな影響には、ノーベル賞受賞が含まれていることは、もちろんです。子どもたちを指導するぼくたちは、こうした自然体験や活動の研究や強化をもっと重視しなければならないことは、三氏の著書の、これらの一節だけからでも明らかです。
たかが受験、されど受験
「たかが受験勉強、されど受験・・・」。中学受験にしろ、大学受験にしろ、ぼくに限らず、多くの先生方やお母さん・お父さん方の受験にかける思いも様々でしょう。
「受験するには受験勉強させなければいけない、だから塾に行かせる・・・」。「受験するには受験勉強させなければならない」まではぼくも同感です。しかし、それ以降が問題です。「受験勉強する」にしても、それは「『考えること』を知り、『考えること』をおこなう絶好のトレーニング機会である」と、ぼくは思っています。
ところが現実はどうでしょう。たとえば、受験当該校や同レベルの受験問題を大量に集め、その解法を「受験のスペシャリスト」が記述し、それを「各指導レベル!」の先生がそれなりに説明を施し、大量の宿題と演習で解法の習熟を図る、というのが一般的でしょう。その過程で、子どもが何をどう考え、という注意や考察は、ほとんど蚊帳の外です。自ら『考える力』の鍛錬は、一部の指導法をのぞいて目標外です。
このように、たいていの場合、受験を目標に据えると、「受験勉強」『受験指導』以外は見えない(見えなくなる)ケースが一般的です。目標や目的が「受験合格」で終わり。その『道中』や『それ以降』の姿が意識の外になってしまっています。いつの間にか見えなくなってしまっています。そうではないでしょうか?
そこで完璧に忘れられていることがあります。子どもたちの学力の養成や能力の育成の最終目的は合格では決してありません。そうあってはならないはずです。それは、当然のことですが、人間としての成長であり、人格の涵養であり、もちろん高い能力の育成です。
ところが「受験」にとりかかってしまうと、それ以外のことがほとんど見えなくなってしまう(見なくなってしまう)。「とりあえず、受験に合格して…それを続けていけば、教育の役目は十分・・・」。教育機関のなかには、指導内容のみならず、指導者の意識の上でも、そのレベルで指導が続いているところが多数あるのではないでしょうか。
以前のブログで、難関校へ進学した中高生のOBたちに、「おもしろい本あるいは良い本だから読んでみなさい」と本をすすめられた人がいるか、と聞いてみたが20年たっても一人しかいなかった、ということを伝えました。
これから大きく成長する子どもたちに、自分が読んだ(読んでいる)本の中でどうしても読んでほしい本はないのでしょうか? あるいは、ほとんど本など読まないのでしょうか?
先ほどの西澤博士の著書の一節です。
人より抜きん出るための方法や心構えを超えたところで『天才』という言い方を、人はよく使う。天才論、天才教育なる言葉もあるほどだ。おこがましいが、私も人から天才だといわれたことがある。では、本当に天才はいるのか。私は、乱暴に言えば天才はあると思う。ただ、私の言う天才とは、だれでも天才になりうるという意味での天才である。誰もが天才になれると考えることは、教育者としての心の支えでもある。適切な時期に適切な刺激を与えれば、内在する才能が花開き、誰でも天才になれるのである。(「独創教育が日本を救う」西澤潤一著 PHP研究所 文責・背景色は南淵)
自然教育といい、本のすすめといい、適切な時期に適切な刺激をする、そして子供たちの才能の開花を待つ。これができるのは、そしてその楽しみを手にできるのは、お父さん・お母さん、そして先生しかいません。「子育て」の最高の喜びであり、最大の務めです。
現状はどうでしょうか? 子どもたちの成長を振り返ると、「子どもたちが受験勉強に追いまくられている」間に、「裏面?」では、人間としての成長も進んで《しまって》いるわけです。特に教育熱心なお母さん方・お父さん方と、受験に熱心な先生方で、子どもの能力が高くよくできるほど、たいせつな「裏面」が犠牲になってしまっている、取り返しのつかない事態が続いてはいませんか。
難関受験用に「英知を絞って」受験指導だけを続け、解法はよく理解し、高い偏差値を維持し、優秀な成績で難関校に合格する。めでたし、めでたし。そして、その成長後の姿です。「与えられた難しい問題」を「教えられた方法でうまく解くこと」は知っているが、「自らが問題点を発見し、その問題を自らの方法で解き始めることはできない」。
「自ら環境にあたり、不思議やなぞに遭遇し、思いを巡らせる」。「問題に向かい、自らのそれまでの経験で、手掛かりから探し始め、もつれた糸を解きほぐすように解答や解決に至る…その喜びを手にして、次の問題に向かう・・・」。
そんな経験を「受験勉強をしながら」、しっかり積むことができているでしょうか? 子どもたちの才能の開花を夢見、「万難を排し」、ぼくたちはその検討に向かわなければならないのではないでしょうか。その手がかりをもとめなければいけないのではないでしょうか?
適切な時期に適切な刺激。才能開花のための指導はできているでしょうか? 方法の検討は始まっているでしょうか? 学校が無理なら、個人でも可能です。
さて、次週からは『親子で楽しむ立体授業』。
団の学習のしくみの一例、「石ころはぼくたちと親せきかもしれない!」の立体授業のテキストとスライドの概要を紹介し、家庭や個人でもできる環覚養成の指導について考えてみます。