DVD花丸二つ
しばらく映画DVDの紹介から遠ざかっていました。その間映画を見なかったわけではありません。いつものことですが、すべて一人の仕事なので雑事や考えることも多く手が回りかねました。
シナリオを考えるようになった最近まで熱心に映画を見る習慣はなく、現在もシナリオに対する評価基準やネットの評価世界の渉猟から、見たい映画のセレクトをはじめます。多くは新しい映画ではありません。ぼくの基準は、花マル二つが高評価(何度も見たい、あるいは、さらに見る必要を感じた作品)です。この期間に見た『花マル二つ』をつけた作品を紹介します。
日本映画はほとんど見ないのですが、今回は小津作品をシリーズで見ました。「ほとんど何もない日常」を映画に仕立てあげ、「古い時代の日本」を生き生きと見せる手腕はさすがだと思います。
世評の高い『東京物語』も捨てがたいのですが、「タイトルはもう一つ(!)」でも『風の中の牝鳥』、『お茶漬けの味』を。そして「父と子」がテーマの作品については、私事情から往々にして評価が甘くなりがちなのですが、『父ありき』を推しておきます。
次も古い作品ですが、マンキーウィッツの作品はオリジナリティにあふれ、おもしろいものが多くあります。「シナリオ学習」にも「展開の意外性」や「伏線の置き方」がとても参考になります。
なかでも、脂が乗り切っていたときの『三人の妻への手紙』は、一度も画面に登場しない主要人物というアイデアが特筆ものです。また『イブの総て』は「周囲の人間を踏み台に」のし上がっていく「女性の怖さ」をうまく描いています。ラストで、売れる前のマリリンモンローも端役で登場しています。この時期は「まだ存在感があまりない」ので、見逃さないように。
マンキーウィッツは、おそらく女性で相当苦労したか、心を許していなかった(心を許せなくなっていた)のか。その辛辣な見方(!?)が作品から垣間見えます。いずれにしろ、映画史に残る才能です。こういう人の晩年は不幸だったかもしれません。感性が豊かでシャープな考察・「覚めた視線」は芸術には欠かせませんが、実人生では往々にして理解が得られず、不幸を呼びます。いずれも花丸二つです。
偶然にもナチス関連の映画三作が、花マル二つになりました。
一つ目はオランダ映画の『ブラックブック』。家族を殺されてしまった美しいユダヤ娘ラヘルの半生です。結末の処理は蛇足気味ですが、よい作品です。
後二作は「少年」で描く「ナチス」。少年たちが純粋さゆえに生命を落とす『橋』(ドイツ映画)。もう一作は『縞模様のパジャマの少年』。どちらも少年の純粋さ・無邪気さで描写するナチスや戦争の非道さが心を打ちます。見事です。
なお、「縞模様のパジャマの少年」の原作は岩波書店から邦訳(千葉茂樹訳)が出ています。ぼくは現在、英語の勉強も兼ねて原作“The Boy in the Striped Pyjamas”(JOHN BOYNE VINTAGE CLASSICS)を読んでいます。やさしい英語で英語学習にも最適です。力のある中・高生なら十分太刀打ちできるのではないでしょうか。「英語のテストはできるけど英語の原書は読めない」という、ぼくのような大学生にならないように。。
最後は、デンゼル・ワシントン三作品。『ザ・ハリケーン』・『マイ・ボディガード』・『グレート・ディベータ―』。
ザ・ハリーケーンは冤罪で投獄された黒人ボクサーの物語。アメリカの人種差別の暗部を覗くことができます。
マイ・ボディガードは米軍のテロ部隊で身体も心も傷ついた男が守るものは何か? この作品にも“MAN on FIRE”(A.J.Quinnell)という原作があるので、次に読んでみるつもりです。
「映画と原作と英語の三位一体」からいろいろなことを学ぶことができます。原作から脚本への話のすすめ方、映像表現や字幕(吹き替え)翻訳の可否、英語についてもシナリオについても、お薦めの方法です。
なお、子どものころ、外国文学の名作(!)で、どうしても終りまで読み切れずやめてしまったものが結構ありました。「自分の好みや力不足での挫折」とばかり思っていたのですが、今読み返すと「翻訳のひどさが原因」であろうと判断されるものが結構あります。意味が通らず、読む気にならなくてやめてしまったのでしょう。
歴史ある古典文学の出版社にも、古くからの「無責任な仲間内評価で高評価の翻訳もの(!)」が見られます。「言葉遣い」や「言い回し」が適切でなかったり、「本人も筋を追いきれない(!)ような」支離滅裂な訳も、なかには混じっています。ぼくが理解できなかったように、中・高生レベルでは、よほど力のある子でなければ、定評ある出版社の出版物の訳に、あえて異を唱えられる子は少ないと思います。せっかくの原作の価値を見誤ることになってしまわないか、経験上、とても気になります。
近年新訳が出てきて改善されているものが増えてきましたが、教科の先生方(特に中・高の)、何か例を引いて、それらの誤訳・異訳(意訳ではなく!)を教えてあげてください。国語や英語にもっと高度な(!)興味をもつ子が増えてくると思いますよ。特に読書が好きな子・学力レベルが高い子・その対象が有名な「世界の名作」ほど、その指導は効果的です。「彼らがさらに伸びる」と思います。
三作目はグレート・ディベータ―。ぼくの嫌いな(!ハハ)ディベートで、黒人の子どもたちの教育を立ち上げる物語です。当然黒人差別も描写されています。
「相手を言い負かす」、「論理や言語で圧倒する」ディベートも国際化社会では、ますます重要になるでしょう。しかし、日本では、「言葉には表せない、表したくない気持ち」や「思いやり」を昔からたいせつにしてきました。先述の「小津作品」は、すべてそうした「日本」と「日本人」の物語です。
「人と人との信頼関係」や「人情」という「世界に誇れる日本の特質」を忘れてディベートの方向性をだけ志向するのは、「人間社会の発達」としては逆の方向で、日本社会の根幹を揺るがしてしまう「大きな傷」になってしまうのではないですか。
逆に、そうした日本的な「気遣い」や「心情」を、寿司や日本料理のように、世界規準へと文化発信することが、国連常任理事国を目指す日本の教育のたいせつな役目ではないでしょうか。「人生の折り返し点」をはるかに過ぎた今、その思いが一層強くなります。
デンゼル・ワシントンの三作品、いずれも花マル二つつけました。
月を読んで「月」を見ず
先週「デッカイ筍掘り」の紹介をしました。そのとき、「唱歌三曲」を子どもたちに紹介したことを伝えました。
「飛鳥の里」で「春」、というロケーションから、「早春賦」・「朧月夜」・「故郷」の三曲です。いずれも、ぼくにはとても懐かしい曲で、そのメロディとともに、子どもたちの心に残る想い出になってほしいという気持ちからなのですが、「狙い」はもう一つあります。「『故郷』を心に落としてほしい」「自然のありように、もっと敏感になってほしい」という願いです。
授業中ぼくは、日の出や日の入りや南中、三日月や満月など太陽や月や星にかかわることばがでてくると、今いる場所を基準として、東西南北の方位をよく子どもたちに考えさせます。「環覚」育成の一手段です。
小学校時代の子どもたちは、まだ経験も少なく、知らないことが周囲にたくさんあります。いや、子どもたちに限らないかもしれません。
例えば、理科で出てくる太陽の日周運動を考えてみましょう。「太陽は東から出て西に沈む」ということを「言葉」では知ってはいても、「南の空を通って」ということや、実際に東西南北をイメージしたりすることはほとんどないのではないでしょうか。「自分の立ち位置」・家や学校で、その方角をはっきり確認し、その周回のようすを実際にたどることができる子は何人いるでしょう。
「太陽は東の空から昇り、南の空を通って西に沈む」ということは、どこの教科書や参考書でも出ています。「常識」です。観察のようすもイラストで展開されています。しかしそれは現状では、テストの解答であり、記憶の材料なのです。そのままでは「おもしろい学習対象」ではありません。
わかりやすく言えば「東から出て西に沈むということを『ことばの上で知っているだけ』(実は知らない!)」なのです。それらの記述内容をおぼえているだけで何かおもしろいことが始まるでしょうか? 次のイメージが広がるでしょうか? 「学習と日常が手を結ぶ」でしょうか?
子どもたちは学習対象をこのように、「自分自身の生活の中で振り返って」確認していくという体験等はほとんどないまま、「記述内容をイラストでテストのために暗記するという「学習(受験勉強)」を続けているのが現状です。
月です。たとえば日頃から生活の中で朝、西の空に浮かぶ「下弦の月」をしっかり見たことがある子は、ほとんどいないのではないでしょうか。『月』というぼんやりした認識はあっても、日常生活の中で「『月の形』・『月の姿』をしっかり識別する」という観察や体験はできているでしょうか。ただ、月の出・月の入りの時間と変化を、月の形のイラストとともに暗記するだけ・・・。
太陽や月で例を挙げましたが、今尚、子どもたちの学習は「延々と『こんなこと』が続いている」わけです。こうした「現実体験の欠落したまま」、「記憶対象でしかない勉強」を多くの子どもたちは続けています。多くが「月を(さえ)よく見ないで月の学習」をしている子どもたちなのです。これでは「世界」がおもしろくなりようがありません。
現物・学習対象をきちんと見たり、実際に触れたりして興味がわきイメージが広がり、次の学習やステージに進むというのが「学習」の正しいステップではないでしょうか? 「『自然のありよう』を身近なものにする」ことで、もっと「まわりのものに気づく」、「目を留める」という「環覚」が機能するようになってほしいのです。
「朧月夜」と読解力
「早春賦」や「朧月夜」の歌詞の意味を子どもたちとたどってみて、ぼくは先年亡くなった灘の「伝説の国語教師」橋本(武)先生の「銀の匙」指導法による効果のすばらしさが見えてきました。橋本先生については、ぼくはゼロからの自分の指導法を試行錯誤して形づくっていくことに忙殺され、一昨年あたりまで、その存在すら知りませんでした。
偶々アマゾンで「〈銀の匙〉国語授業」(橋本武著 岩波ジュニア新書)のレビューを読み、遅まきながら興味をもちました。原因の一つは東京高等師範学校卒という経歴でした。アレ、東京教育大の先輩じゃないか・・・。
持ちあがり指導の「灘」で、教科書を使わず、中勘助の「銀の匙」一冊で中学三年間独自の国語授業を展開した、という有名な指導です。
教師になりたての頃、自分の中学時に国語でどんな授業を受けたんだろうと考えると、ほとんど印象がないという反省。そのショックから、その後夢中になり、あこがれていた中勘助の「銀の匙」を選んだ・・・。さらに橋本先生は、こう書きます。
『銀の匙』は名作だとしても、教科書としてはどうなのか。どういう利点があるのか…中略…文豪夏目漱石が推薦するほどの美しい日本語なのですから、国語の教材にして文句の出ようがないはずです。
そのうえで、新聞の連載だから一回の長さがだいたい決まっています。長からず短からず、教材として扱いやすい。また、物語の内容が中勘助の自伝的な物語ですから、ひ弱な幼い子どもがたくましい立派な青年に育っていく過程が描かれていて、中学生が自分と物語の主人公とを重ねながら読むことができる。それが教科書としての利点です。(上記書p54~55)
「自由な採択が許される私立という条件」はあったとしても、その選択によって「結果というそれ以上の困難」を背負わなければならない「覚悟」。検定教科書を使わないことに対する周囲の反発や、本人が一番感じているだろう不安を克服する「勇気」。さらに成長期で可能性にあふれた生徒に対する『指導責任の自覚』を、まず、改めて学びたいと思いました。そこにこそ、もっともたいせつになる、子どもに対する教師としての自負と存在意義があると思うからです。それらが揺らいでしまうと、子どもたちは「云うこと」を聞きません。指導は成立しません。
団を始め、手探りでぼくが課外学習や立体授業を取り入れる指導を始めたときも、橋本先生には及ぶべくもありませんが、あったのは自信と覚悟、そして自らを振り返り照らしあわせた経験と、子どもたちに「学習に対する誤解」を解いてほしいという思いでした。初心忘るべからず。「蜻蛉が大好きな君たち! 国語を『昆虫採集』してみないか。算数も『手づかみ』できるんだよ」という団開設時のコピーが浮かんだのも、その時です。自戒です。
来週から、しばらく橋本先生の指導法、灘の東大合格者を輩出した理由の一端を少し考えてみます。「朧月夜と読解力」です。