今週は本文の指導に参考になる本を写真紹介してあります。
「学」の性「変換」(オス?メス)
腕白(三年生・特進二年生)の授業、休憩時間に教室中央のでっかい水槽に目をやっていた子どもたちが、「センセイ、なんかボールみたいなものがある!」と騒ぎはじめました。飛鳥の田んぼの横で「センセイ、なんかカメみたいなやつおるッ!」と大騒ぎしたときとおんなじです。
「どうしたんや」と言いながら水槽の向こう側に回ると、学が小さな(直径2㎝くらい)ピンポン玉のようなきれいな球を顔の前に置き、両手で(!)ガードしています。
「なんやこれ? だれかボール入れたんか?」。「学はオス」とばかり思っているぼくたちの頭のなかに、「卵」という判断はありません。
・・・この両手(!)でかばっているようす・・・ピリピリしたふるまいと鋭い目つき。「・・・タマゴか?!」。
「ええ? 学、オスちゃうん?」「ひえ~っ」。ぼくの興奮が子どもたちにのりうつり、大さわぎです。
学の神経質そうな振る舞いが次第に激しくなります。いつもは教室にカメラを置いているのに、こういう時に限ってカメラがないッ。慌てて取りに戻ろうとする途中、「センセイッ! タマゴ食べた! 学がタマゴ食べたっ、なんか、一瞬やけど、キイロの見えたァ」。危険を感じた学ちゃんは、たいせつな卵を飲み込んでしまったのです。
連れて帰って来たとき、「上から見てシッポが見えるのがオス、見えにくいのがメス」というインターネットの紹介を見て、「シッポのようす」と「ふてぶてしい(!?)顔とデッカイ身体」から、てっきりオスとばかり思い、命名した「学」。実は女の子だったようです。
そういえば思い浮かびます。先日、90㎝のでっかい水槽から懸垂の要領で「外出した」ことをお話ししましたが、何とか外に出ようと毎日もがいていた行動の理由を、「産卵」と考えれば納得です。爬虫類で陸上に産卵するので、「兆し」を感じた学は一生懸命産卵場所を探していたのでしょう。飼っているのが少しかわいそうな気もしますが、「彼女」は、恋人(配偶者!)もいないことだし、子どもたちとぼくとで精いっぱい世話をすることにします。
困ったのは名前です。男の子だとばかり思っていたので「飛鳥学」と命名し、みんなは「学ちゃん」と呼んで親しんでいます。「卑弥呼」という名前も考えたものの、なんか違和感があります。「学」自身も、気のせいかもしれませんが、すでに「学(がく)」になじんでいるように見えるのです。
困った挙句「学美(まなみ)」にしました。これなら通り名は「学ちゃん」のままでOKです。「学ぶことは美しい」という字義も意味深です。
というわけで、残念ながらタマゴの写真は撮れなかったのですが、小さな子どもたちに、また貴重なハプニングと驚きを提供することができました。
立体授業や日々の指導での、こうした「新鮮な驚き」が脳のはたらきを活性化し、「学ぶおもしろさを後押しする」とぼくは考えています。机上での抽象媒体による指導だけではなく、「ふだん生活している」中での事象を学習と結びつける―結びつけられる―指導が、学ぶおもしろさや好奇心を育み、それが抽象的指導のバックグラウンドになる指導です。
赤目渓流教室でのオオサンショウウオの赤ちゃんとの遭遇や蛍狩りでのマムシの赤ちゃんとの対面、川虫やミミズを使った渓流釣りやでっかい鯰釣り、チョウや蝉やトンボを捕まえるクモやカマキリ・・・。
自然は何も生物学者や科学者を育てる(ためだけの)ものではありません。
団の子どもたちが課外学習と立体授業で経験するハプニングの数々は、「日々の生活」のなかで現れます。「生物の生死」や「食物連鎖」が植物の生育や動物の飼育とともに、生活の中で興味や関心を巻きこみながら始まり、つづいていきます。
受験参考書の「文字媒体でのまとめ」を読んで、「テストの解答の正解率を高める学習」だけでは、将来、科学者や研究者、好奇心の強い感覚の鋭い子どもは育ちにくいと思います。そして、受験勉強が相も変わらず受験勉強で始まり受験勉強で終わる、それが当たり前になっている現状。意味や面白さはよくわからないまま、理屈は後付けでつづいていきます。
これでは多くの子どもたちの「退屈で憂鬱な学習」の改革や転換は無理だと思います。この項の最後にノーベル化学賞受賞者の福井謙一博士の著書の一節を紹介しておきます。
誰しもそうだろうが、私も幼い頃から「泥んこ遊び」が好きだった。少しもったいつけた言い方をすると、自然にからだごと、どっぷり浸るのが好きで、子どもの頃の思い出といえば自然とじかに触れ合い、その中で体験したことがほとんどといっていい。それは他愛のない体験だったかもしれないが、書物による知識では得られない自然に対する認識を私に与えてくれた。自然がこの上なく奥深いもの、美しくて微妙であることを、私は生の体験として受け取ったのである。学者の家柄に生まれたわけではない、むしろ自然科学とは無縁の家庭に生まれ育った私が、後年自然科学の道を選んだのは、自然の中のその厖大な生の体験の積み重ねであろう。
(「学問の創造」福井謙一著 佼成出版社 p1 下線は南淵)
「自然体験ならば何でもよい」ということではありません。「ただ、時々行けばよい」という意味でもないと思います。自然にどっぷり浸る中で、「その妙を知り、疑問や不思議を見つけ、それらを考えたり、解明することにおもしろさを見出していく経験が欠かせない」ということです。
福井博士をはじめとする今までも紹介してきた碩学にとっては、それら一連の行動パターンも、おそらく「当たり前のこと!」だったので、「自然に浸る」という描き方(表現)しかしていないのだと思います。
しかし、ぼくたちがそこから読みとらなければならないのは、単に「自然に入る」に終わらず、それをきっかけとして生まれる数々のハプニングや不思議やなぞを「子どもたち自らが求め、調べ、考える」ところまで導く指導です。それが団の立体授業をはじめとする一連の指導でぼくが意図し、目指しているところです。
「がんばって、おかあさんしてたん?!」
さて、次の日は偶々三者懇談で、お母さん・お父さんと「学」の話題になりました。
先週F君が学にかみつかれた小金を助けるために「水槽に餌を投げ入れた」話をしました。そして、そうした優しさは、日ごろの生活の中での生物の生育や飼育の習慣が大きく影響するのだろうと推測しました。Fくんのご両親は獣医です。そのFさん夫妻も見えました。
学が卵を守っていた話や、一生懸命懸垂して「外出」した理由の推測を話すと、おかあさんが、スッポンの方を見ながら、「がんばって、お母さんしてたん?!」。F君のやさしさは、こうした環境から生まれる、ということに気づかれましたか?
小さなころから昆虫や動物に「なじみ」がなく、生きている姿や生死の場面の体験(実見)が少ないと、「生きていること」や「いのち」の考察にはなかなか入れません。
子どもたちが虫や動物を飼いたいといった時、虫の嫌いなお父さんやお母さんは「そんなんみんな、ゴキブリに見えるわ」といったり、「ひゃあ、気持ちワル―」と言ったりする人がいます。昆虫(つまり自然)に対して眼を開くのに、そうした発言は「百害あって一利(も)なし」です。それが教科書の学習単元「生物」に対する疎外感の一因に変わります。発言が続くたびに「興味をもつべき子どもたちの好奇心対象の価値がどんどん下落し、意味がなくなってしまうから」です。
子どもたちは、そうした環境で興味が膨らまず、学習対象を文字やイラストの「抽象的な対象」として、つまり「試験問題」として取り組まざるを得なくなってしまっています。彼らの気持ちのなかでは、お父さん・お母さんたちが「気持ちワル―」というものを「学ばなければならない!」のです。多くが自主的にはなれないでしょう。
そういう環境では、ほとんどよく見たこともないものでしょう。そんな「気持ち悪いもの!」・「見たこともないもの」に、わざわざ奥を探ろうとする好奇心や興味をもつことができるでしょうか。そういう小さなきっかけが、学びはじめの学習の大きな弊害になることに、ぼくたちはもっと目を留める必要があります。
逆に「自然に親しむ」ことによって、たとえば、きれいな虫を見つけてその美しさに興味をもてば、「光や色の不思議」に目覚めるきっかけになるかもしれません。身の回りのものすべてに、「光と色」は深い関係があります。「不思議」の感覚は次のステップへの入り口です。さまざまな対象への懸け橋です。
「クモの糸」が驚くべき強さをもっていることも科学で解明されました。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読む機会があれば、その接点から何かきっかけが生まれるかもしれません。
駅の自動改札機切符回収に川を流れる落葉の流れ方が問題解決の糸口になったというエピソードを聞いたこともあります。「流れる水」は、このように理科のみに限らず、社会から治水や建築、あるいは数学にもかかわってきます。
つまり、自然が単に自然にとどまることはありません。いや、「感覚の上でとどまっていることが問題だ」とぼくは思っています。
虫や小動物への興味はやがて「自然」に意識が向かう糸口になり、その奥に広がる無限の可能性の入り口でもあるのです。つまり子どもたちが興味や好奇心をもちやすい対象であり、「学ぶこと」を面白くしたり、アイデアを得、考えを深めるたいせつなものでもあるわけです。
「自然に触れる、興味をもつ」ということの意味をもう一度考えなおしてください。もし虫に触れるのが嫌だったり、小動物が嫌いであっても、子どもたちの興味や関心に否定的な態度はとらない」で、その対象を「一緒に本でも読んで調べる」という余裕のある姿勢が賢い子を育てます。先ほども考えましたが、それによって心からのやさしさも育まれるでしょう。
そんなもの、画面やビジュアルでも代用できるのではないかという意見もありそうですが、「手の上で亡くなるいのち・次第に冷たくなるからだ」や、「昨日まで自分の方を見つめていたのに朝起きても起こしても開かない瞼を見つめる体験」と、「単なる抽象媒体や画面の上での経験」は大きく異なります。
以前、肥後守を使うこと、それによって「ちっちゃなケガをしたり、痛みがあることによって相手の痛みがわかる」と書きました。自らが危険や痛みを感じない(たとえば画面での)経験からは、戦いの場面で相手を抹殺したり爆破しても「快感」しか生まれません。
さらに、植物や動物に対する「無関心」が日常化し生命や生死に対する感覚がマヒして優しさを忘れ、ビジュアルによるゲーム感覚の快感に酔うようになると、その先には大きな「闇」が待っています。さまざまな報道の犯罪や事件内容の微妙な変化は、小さいころからそういう経験に毒される成長の恐ろしさに対する警告ではないでしょうか。
最後に先の福井博士の著書から、自然を学ぶことの大切さを伝えるもう一節を紹介します。
私は子供のころから触れ合い親しんできた自然を、自然科学という学問分野に入り込んで学び、思うようになった人間である。私はその過程で、この微妙にして美しい自然の奥深いところにまことに優れた合理性があることを認識した、あるいは感じとった。自然の仕組みは、地球上に偶発的原因で発生し、半ば必然的経過をたどって深化してきた生命の中にまたとない合理性を見せている。その合理性は、長い年月の間に自ら試行錯誤の法によるという、たぐい稀な原理によって生じたのである。それは地球の遺産の中でも、最もかけがえのない遺産ということができよう。そして、人間はその自然の一部であるのみならず、自然の、「最高傑作」だと思うのである。
(前掲書 p218より 下線は南淵)
がんばって、おかあさん・おとうさんしなければなりませんね。子どもたちは自然の「最高傑作」なのですから。