『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

夢の教科書を求めて ⑫

2018年01月27日 | 学ぶ

 今回は、おもしろすぎる中学校時代の友、孝ちゃんと卒業文集の傑作集(写真紹介)です。ホンマ、なんちゅう奴らや。
 今週のイラストは、いつもの「コピーしてそのまま使えるかわいいカットイラスト2000」(亀山利明著・日本文芸社)より、です。

「孝ちゃん」と「カワイのカーちゃん」
 子どもたちの入試が一段落して、少しゆっくりできる時期です。
 中学時代の「やんちゃ友だち」の孝ちゃんとの約束で、旧交を温めることになりました。「友達」は、なぜか「伝説の人」が多く、孝ちゃんもそのひとりです。
 「元」消防署員。時々「金の腕輪」や「金の鎖のネックレス」をしています。やんちゃですが、「堅気(!)」です。怖くはありません。
 田舎の消防署に勤めていた頃は暇だったみたいで、「消防署の隣の空き地で畑を作り、毎日野菜を育てていました」。「火事がないので、代わりに、畑に水をまいていた(!)」というわけです。もちろん、勤務中です。

 中学時代、30分に一本・単線のK鉄に乗って、越境していたぼくの生家まで遊びに来て、近くの山で一緒に「空気銃を撃った仲」です。ホントです。数十年前、田舎には「中折れスプリング式の空気銃」があることが珍しくなく、やんちゃ坊主たちは、「ぱかん、ぱかん」撃ちまくっていました。 
 もちろん、そのための怪我も珍しくなく、孝ちゃんは誤って友だちに手を撃たれたようだし、ぼくも中折れ式の折れた部分に指を挟んでいて、引き金をひいてしまい、指の先がつぶれたことがありました。

 田舎だから医者が少ないので、しっかりタオルを巻き、痛みで気が遠くなりそうになりながら、3kmぐらい先の「内科(!)エノモト医院」まで歩いて行きました。田舎の子は怪我するたびに強くなっていきました。強くならざるを得なかったのです
 あるとき、「『空気銃がゴロゴロあった』のは、ぼくたちの田舎だけだったのか」と不思議に思い、偶々乗りあわせて話が弾んでいた、九州出身だという同い年ぐらいのタクシーの運転手さんに尋ねました。
 「運転手さん、子どもの頃、空気銃で遊んだことない?」
 「あるある、撃ちまくってた・・・かすみ網、鳥もち、パチンコ・・・スズメ取り放題、カラス撃ち放題・・・」と、ぶっそーな返事が返ってきました。そうなんや、やっぱり・・・
 
 孝ちゃんにはブログの原稿も時々送っているのですが、きちんとファイルして残してくれているような律儀なところもあります。
 久しぶりに孝ちゃんと遊べば、かつて、きれいな「女性たち」が、行く店々で「別れの予感」で出迎えてくれたころの、懐かしい「遊び心」を、少し思い出せるかもしれません。懐かしい「想い出の写真」と「メロディ」が一杯詰まったスライドをつくりました。

 パソコンをエッコラ抱え、橿原神宮駅で降りると、頭が少し薄くなった孝ちゃんは黒のニット帽をかぶり、ニコニコ笑って待ってくれていました。
 「久しぶり!・・・」。男のあいさつはそれだけで済みます。駅前の小料理屋のカウンターで早速、映写会です。
 「むちゃ懐かしいな、コレ!」と孝ちゃん。喜んでくれました。
 嬉しそうにスライドを見ながら、「オレ、この子好きやってん・・・」。ふと見ると、「みどりちゃん」です。みどりちゃんもおとなしくてかわいい子でしたが、孝ちゃん、ぼくとは好みが若干ちがいました。バッティングはなかったようです。
 ぼくらは当時、硬派遊びに夢中で、女の子の好みは訊いたことがありません。いつも「パカン、パカン」でした。

 
 孝ちゃんの「スライドによる、懐かしいガールハント(!)」が終ったころ、たずねました。
 彼の一回り以上年下の、おきゃんで粋な、着物の似合う奥さんのことが気になったのです。
 
 「よめさん、どーしてんの」と聞くと、「あかん」。
 「あかんって、なにが?」。
 「5回結婚したけど、女は一緒や・・・」。
 「ぶほっ」、酎ハイを吹き出しそうになりました
 「・・・タ、孝ちゃん、ぜいたくゆーたらあかんわ。5回もしといて、えーかげんにしいや、ほんま~。負けたわ~」と諫めると、ニコッと笑い、いつになく、ちょっとしょんぼりしました。先日、お母さんも亡くなったのです。

 「ところで」とぼく。「気になっていたこと」の確認です。
 切符を買わずに、K鉄で死ぬまで無賃乗車を続けた伝説のゴーケツ、「M野君」のことは、以前、紹介しました。
 「いよっ!」と云うだけで駅の改札を「パス」できた、例の「M野君」です
 孝ちゃんも彼と同じ村で近所のはずです。「孝ちゃん、サンマが云うとってんけど、M野、全然K鉄の切符買わへんかったって、ほんまか?」。
 「ほんまや~、ほんま。あいつ、あの『大きな頭と怖い顔』やから、フリーパスやってん」。
 腹を抱えました。

  ・・・ぼくが漫画をほとんど読まないのは、きっと彼らがいる(いた)せいです。
 「ブチ(ぼくの当時のあだ名です)なァ、あいつ、中学卒業してすぐ就職したやろ、それで『あんなん(あんなふう)』やろ(勉強ができなかったことは以前伝えました)。・・・T井(駅名)にあった、オートメーションの『部品組み立て工場』に就職してんけど、あいつだけ要領悪うて、作業が間に合わんネ。両どなり(!)の女の人に助けてもろてたらしいわ」。・・・ズッコケました。

 オートメーション工場です! M野オ、いいかげんにせな、あかんわ・・・笑いすぎて涙が出ました。
 

 「それで、M野、仕事終わったら、毎晩、T井の駅前で酒飲んで、真っ赤な顔して帰って来るやろ。駅員も、そら怖いでエ。きっと『鬼』みたいやったやろ!」。 もーたまりません。

 無賃乗車の駅区間は、「U」から「T井」。約20年。M野君は酒を飲みつづけ、肝臓を傷め、既に旅立ちました。
 M野、一回飲みたかったな、ホンマ。合掌。
 

 孝ちゃんは、「・・・ところで、その話をしたサンマなあ、宝くじで3億円当たってん。京都かなんかに、でっかい家建てて、村捨てよったわ~」。
 「へえ、サンマが?」。
 ・・・話をそらして、酎ハイのジョッキを空けた孝ちゃんは「ブチ、M野なんか、未だまだ小者やでエ」。まだ、誰か、いるんかいな。
 「そういえば、中学校に(!)高下駄履いて来てる奴おったな。それで大学生らと喧嘩してるって聞いたことあるわ」とボク。
 「カワイのカーちゃんや」。
 「おれ等より3・4年上やったんちゃう?」とぼく。
 「ちゃう、ちゃう、イッコ(一こ)だけ~。オレ小さいとき、お母んに、『あの子にだけは喧嘩売りなや』ゆうて、育てられたんや」。そんなことゆうて、子どもを安全に育てるお母さんも、昔はいたんです。

 
 「そんなに、なにするか、わからん子やったんか?」。
 「ちゃう、ちゃう。朝吉や、八尾の朝吉!!」。
 懐かしいキャラクターです。今東光原作。勝新太郎と田宮次郎の極道映画のレジェンドです。弱きを助け、強きをくじくヒーローでした。今は弱気に強がり、強気に阿る人が、あまりにも多くありませんか?
 
 「・・・売られた喧嘩は買うけど、自分からは絶対売らん。カーちゃんは、弱いものいじめもせん」。ヤンキーに聞かせたいものです。
 身長も165センチくらいと小さかったのですが、がっしりした体格で、根性もすごかった・・・ようです。D商大の3人に喧嘩を売られ、中学生の分際で、履いてた(!)下駄で、どつきまわしたようですから・・・。
 残念なことに、「カーちゃん」も亡くなりました。「カーちゃん」は同級生じゃなかったので、詳しく聞けず、武勇伝の詳細がわかりません。申し訳ない。

 それにしても、孝ちゃんも、おもろいわ~。孝ちゃんがまだ消防署にいたころ、お願いをして、団の子どもたちひとりひとりを、当時珍しかった40メートルのはしご車に乗せてもらったことがありました。孝ちゃん、また子どもたち乗せたってな。
 それから、5回目の奥さんと、あんまり喧嘩せんようにな。だいじにしいや。
 その後、三軒はしごして、最後はグダグダに酔っぱらった孝ちゃんでした。「孝ちゃ~ん、酔いを醒まさんと六回目になるでエ! いつまでも元気でな~」。

小学生とセンター試験
 ぼくは時々、センター試験の問題(現代文)や超難関校(中学)の問題(算数)を、入学テストが終わって、子どもたちの進路が決まってから、あるいは特別によくできる子が集まったクラスで、授業に使います。(写真はそれらの問題も掲載されている問題集。)

 その意味は、自分たちと同じ時期に、そうしたむずかしい問題を解いて進学する子もいるのだという自覚を促すためと、センター試験の問題は、例えば国語であれば、大学入試でもそんなにレベルが離れているものではない(わからないものでもない)という認識をもたせるためです
 もう一つ、現代文であれば、使われている漢字が読めなければ、手も足も出ない、という「漢字学習」の大切さを確認させるためです。それらを「難しいことを」、と考える人もいるかもしれませんが、そのあたりに、「指導する方の思い込みがありすぎる」とぼくは考えています。
 逆に、そうした問題を読んで、解答できた時、また解答への糸口をつかめた時の子どもたちの「モチベーションとパワー」を念頭に置くべきです。「むずかしいことも、決して手の届かないところにあるのではない。まずやってみなければならない」という、子どもたちの「学体力」への道筋も認識もそうして生まれます

 学習事項や受験内容を教え込むのが教育ではありません。まず身につけるべきは、「学ぶことのおもしろさ」と学習姿勢や学習態度であるべきです。指導要領で教えるのではなく、しっかり個々の子どもの態度やモチベーションの行方を見極め、子どもと格闘したい。ぼくはいつもそう思っています。
 「センター試験は大学受験生のテスト」ではなく、「難関校の入学試験は、受験しないから関係ない」のではない。「身のまわりにあるもの」は、「すべて学習材料である」、あるいは「学習に使えるものである」。そうではないでしょうか?


夢の教科書を求めて ⑪

2018年01月20日 | 学ぶ

「やりたいこと」と「やれること」
 子どものときはもちろん、大きくなっても未だ「やりたいこと」はたくさんあって、「あれもやりたい」「これもやりたい」という思うことがふつうです。ですが、「やりたいこと」はあっても、「やれたこと」は決して多くありません。
 「多くは想っているうちに『日が暮れてしまう(!)』」からでしょう。「日々やりたいことを思い続けて、それに向かって進んだり、力を尽くしたり、ということができないまま」陽が落ちてしまう。自戒です。

 「才能」とは、あるいは「天才」とは「やり続ける能力」だというようなことを、よく耳にしたり、目にしたりすることがあります。それらのことばが至言であるとわかるころ、つまり人生を半ば以上すぎると、切実な日々が待っています。哀しいことに「やりたいこと」が減り、「やれること」も次第に少なくなっていく・・・想像すらできなかった事態です。過去、多くの人が経験した現実なのでしょう。
 年をとると、「少年老い易く、学成り難し」や「光陰矢の如し」という故事成句やことわざは、「老年老いすぎて、行なり難し」や「光陰もう滅し」に代わります。そして、『時間のたいせつさ』こそ、「かけがえのない人生」を軽佻浮薄のままに終わらせないよう、子どもたちに伝えておかなくてはいけないことだと気づきます。
 「夢」というストップウオッチの裏側では針が日々刻々進んでいること。そして自ら手を伸ばすことをしなければ夢を手繰り寄せることはできないこと。子どもたちには、ぜひ、これらに目を向けられるように育ってほしいと思います。
 
学体力―「ひとりで考えつづけられる力」を育てることの意味
 今年もそうですが、子どもたちを指導していて、ぼくが考えている以上に『学力(学体力)』がついていることが、受験結果に現れてくるようになりました。教室での過去問の入試実践テストの得点に現れている結果以上の力、という意味です。どうしてでしょうか?
 毎年、甘やかされていたり、過保護ゆえの悪影響が子どもたちの学習に対する姿勢・取り組み方にも「浸潤」しつづけていることがわかります。「教えてもらうことを待っている」、「一人でできない」、また「忍耐力やがまんする力」の欠落です。それらの克服から団の指導は始まります

 これらの「症状」を客観的に考えると、「自分で考え続ける力」はもちろん、「『考える力を育てる力』そのものが弱くなっている」ということです。新しい学習・新しい問題に入るとき、「一人では何をしてよいか、どうしてよいかわからない」という戸惑い。「説明やヒントをもらっても、手取り足取り、かみ砕いてかみ砕いて説明しないと、集中して取り組めない」。
 みなさん、もう一度この姿をイメージしてみてください。これは「子どもたちは、次第にひとりでは、考えられなくなっている」ということでしょう。もちろん、もっと幼い頃の、学習の初めは別ですが、小学校の高学年までそのままでは、それ以降問題が多発します。ひとりでは、中学校・高校の高度な学習や大学受験には到底対応できない、ということです。これらを何とかしなければいけない、ぼくの指導法の原点です。たとえば、身近な問題であるテストというテストも、ひとりで立ち向かわなくてはならないからです。
 十年くらい前は、まだ半分くらいの子は何とか苦労しながらも「しがみついてきた」ものですが、今は、指導の中で、ぼくの予想通りに「問題に入っていける子」は、よくて数年に1~2名しかいません(なお、ぼくの塾は選抜試験がありませんので、ごく一般的な諸君が入団します)。

 なぜ問題が多発するのか? それらの姿勢が身につかないと、「自分のペースで学習を進めることができないから」です。いつまでたっても、「誰かが傍にいないとできない」、自分で考える、考え続けることができない。つまり、高校受験になっても、大学受験になっても、そのままの姿勢は継続するし、社会人になって仕事をはじめても、大差ないでしょう。
 社会や会社はそういう人を必要としているでしょうか? 逆に、少々の失敗はあったとしても、助けや指導がないところでも、自らのアンテナを活用し、積極的に仕事をこなしたり、プラスアルファの成果をもたらしたりすることが要求されるはずです。
 こういったからと云って「社会に貢献できるから育てたい」と願っているわけではありません。学体力が身につくことによって、夢が開花したり人生が大きく転換したり、という子どもたちの可能性が広がるからです

 「お母さんや塾の先生を頼りにするようなサラリーマン」は優秀でしょうか、有用でしょうか。子どもを育てる、あるいは指導する過程で、そういう問題意識が不問のまま、「大きくなればわかる、できるようになるという思い(込み)で、しつけや指導が見逃され(すぎ)ている」。それが現状です。
 また、「できないことをやる必要はない」、「誰かにやってもらえばいい」という依頼心の塊りが、大きくなって急に解消されるでしょうか。小さいころはお金を払って家庭教師を雇い、塾に通えば、受験学力や入学試験は望みがかなうかもしれない。しかし子どもたちは「受験をクリアするために」生まれてきたのでしょうか? 「死ぬまで受験ですごす」人生でしょうか? クリアすれば、充実した人生が送れるのでしょうか? それよりもっと大事なことがあるのではないでしょうか? 人生に塾や家庭教師はありません
 大きくなってきちんと仕事ができたり、社会で活躍するときの駆動力になるのは、「問題解決力」であり、それを可能にする「学体力」なのです。現状「華やか」で「にぎやかな」受験戦争の中で事態は相変わらず、その受験学力や入試対応力を可能にする、子どもに内在する「学体力」やすべてを含む「精神力」に、目が届いているようすはありません。「あなた任せの一本道」です。

 入学試験場でのぼりを片手に、大声でデモンストレーション指導をする学習指導と、冷気の中、白い息を吐きながら自らが受ける受験を想い、白く霜が降りている自らの周囲に目を見張り、学習内容を振り返る学習指導の、「子どもたちに与える大きな相違」にぜひ目を向けていただきたいと思います。「中学合格したら学校を平気で休ませる」ような子育てではなく、心身ともに健やかな子どもたちが一人でも増えることを願ってやみません。「学習するときに、学習する姿勢や態度」も覚えなければ、いつ身につける(られる)のでしょう?
 超難関校でもない限り、入試前にも学校は休まず一日2時間弱の家庭学習でも、十分受験対応は可能です。また、超難関校に入った諸君にそれほど「引けを取らない」実績を残している、一貫校出身のOB諸君の実績もご覧ください。ぼくが、考えている以上に、子どもたちが大きな力を発揮してくれるのは、こういう静かな時間や課外学習のゆとりが、精神的な構えに大きな影響を及ぼしているのでしょう。団の子どもたちが、想定以上に力を発揮してくれるのは、こういう理由です

むずかしいことは、ほんとうにむずかしいのか?
 むずかしいときに、あるいはむずかしければ、「取り組む前に投げ出してしまう」「できないものはしょうがない」という認識が、今はほとんどではないでしょうか。「何とかもう少しがんばって結果を出さなければ」という「当たり前のこと」ができているでしょうか。それができなければ、「学体力」も存在しません。
 「むずかしいときにでも、まずひとりで取り組む」という「気概」や「根性」や「忍耐力」がなく、「がまん」もできないと、やがて、ひとりでは何もできなくなります。つまり「教えてもらうのが当たり前」という意識から抜け出なければ、自分ひとりでは前に進めず、新しいことに取り組むことができません。
 ひとりで取り組み克服することで、自信が培われます。そして次の目標にも勇気をもって立ち向かえることが成長するということです。そして、その自立過程での自らの過ちに気づくことによって、メタ認知機能が発達し、成長は確実なものになります。ひとりで踏み出せなければ、どんな進歩もありません。

 ところが、むずかしいことや新しいことになると、いつも手伝ってもらったり、躊躇したり、あきらめたり、逃げたりしている習慣が「定着」してしまえば、それが本人の『生きる術』になってしまいます。そうこうしているうちに、自分では道が見えなくなり、人生の意味も見いだせなくなってしまう(「人生には意味がない」と考える人の人生を否定するつもりはありません)。
 また、『依頼心の強いままでは』本も読まない(読む必要を感じない)し、考えることもできない(考える必要を感じない)、つまり「知的な部分を半ば放り出さなければならない」ような後半生を送ることになってしまうのではないか、そうも自戒しています。
 できるだけ豊かな人生を送ってもらいたい考える団の子どもたちにも、さまざまな機会を通じて、ひとりで問題に取り組むよう指導し、解決を図る努力を奨励したいと考えています。

 さて、学体力が整ったときの学習方法を、ぼくが読んだ碩学の著書から紹介します。「『学習』が伴侶になったとき」の学習のノウハウです。これらはOB諸君に伝えています。

「学体力」がついてからの学習方法
 まず、哲学者の木田元さんの本の読み方とノーベル賞学者の福井謙一博士の学習法です。木田さんの引用部分は、大学院生相手の原書の読み方の指導です。以下、引用の下線はいずれも南淵。

 「哲学のばあい、本がきちんと読めなくては話になりません。ハイデガーの書いたものを読むということは、その思考を追体験するということです。だいたいわかればよいということではなく、ハイデガーの思考のあとを精密にたどることができなくては意味がありません。たとえば、ある文章と次の文章が「そして」でつながるのか、「しかし」でつながるのか。欧米の言葉ではそうした接続詞が表に出てこない場合が往々にしてありますが、それを読みこむことが本を読むということです。接続詞ひとつで意味ががらりとちがってきますから」。
               (「闇屋になりそこねた哲学者」木田元著 晶文社p183)

 これらの書には多くの数式が載っていたが、私はそのすべての式を、紙と鉛筆を用いて省略なしに導くことを実践した。それでもなお誘導できない式はいちいち原論文を読んで理解することにした。そして、この勉強が後で非常に役立ったのである・・・私は教え子にも文献を読むのは少なくてもいいが、一字一句をおろそかにしてはいけないと言ってきた・・・例えば湯川先生の著書のような簡潔にまとめられた書を読む時、一つひとつの数式を自分のわかっているところから始めて仕舞いまで誘導してみなければ、専門外のものにはなかなかそのエッセンスはわからないと思う。これは数理的要素の強い理論を読解する時の心得であるが、おしなべて文献を読む時は、字句の深層に横たわっているものを自分なりに捕捉しなければ本当に理解したとはいえないはずである。」そのためには手を動かす労を惜しんではならない。
(「学問の創造」福井謙一著 佼成出版p116~117・文責南淵)

 たいてい一回読んでしまったら「読んだ」と納得(?)しがちですが、それは予行演習で、「一回読んで終わりの本」と「何回も読む本」とを区別することから読書は始まるということが、読書を重ねるとわかります。次は読んだことを定着させる方法です。

 「図書室で閲覧させてもらったそうした書物を読む時、私は関心を覚えた箇所があると必ず紙に写すことにしていた。外国の教科書で写したい箇所が厖大にある場合には、さすがに骨が折れるので、そのときは要点を書きとめることにした。これは複写機械の発達した今日からみると、いかにも手間のかかる方法だといわねばならないが、決して無駄ではなかったと思う。手を動かして学んだということが、血となり肉となったからである」。
                                                                                    (「学問の創造」福井謙一著 佼成出版p114~115)
 

 本を書き写すことより役に立つこと。それは要点をまとめることだと福井博士は云います。インプットしたのち、アウトプットの重要性です。これで理解は整います。これは以前紹介した、ファインマンの子ども時代の読書(学習)法でもあります。
 
 手を動かして学ぶということは記憶に役だったと思うが、それ以上に「要点を整理すること」が、役だったと思う。「コピーを取って保存しておくという方法に甘んじると、本のエッセンスは決して身につかない。古風なやり方ではあるが、本の内容を自分の血とし肉とするためには、自ら筆を取って写すか、要点をメモするのが、かえって近道なのである。経験による信念からそういうのであるが、これは若い読者にお勧めしておきたい事柄だと思っている」
                                                                                                            (「学問の創造」福井謙一著 佼成出版p115)

 次は学習の「量から質への転換」です。

広く学ぶことは大切である。そのために刻苦勉励することも、もちろん大切である。が、それは多数の文献を読み、多量の知識を不統一に吸収することとイクォールではない」。したがって、「私は多数の文献を読んで知識を集めるという、いわば衒学的勉強を捨て、数少ない文献を徹底的に読みこなす勉強態度を自分に課していた」。
                                                               (「学問の創造」 福井謙一著 佼成出版・p107~109)

 「人間は、やっぱり、平生から記憶をきちんと整理して、オルガナイズする、いろいろな知識を―自然とおぼえた知識でも、自分が努力して獲得した知識でも―自分なりにうまく組織化しておかなければなりません。整理のしかたには高度なものから非常に簡単なものまで、いろいろありましょうが、整理することと、理解することとは密接に関連しているように思われます。教育にはそういう、すぐに記憶を再生する能力が身につくようにする効果もある。そこで、そういう記憶と理解とかをもとにして、創造性を発現できるようにしたい」 
(「創造的人間」湯川秀樹著 筑摩書房 p149)

 さて、最後は「東大・京大へ進んだ数学のできる秀才たちの勉強法」です。繰り返し問題演習の効用―「学体力」の必要性の確認です。斎藤孝さんの「偉人たちのブレイクスルー勉強術」(文藝春秋p239~241)に、斉藤さんが、秀才たちにその勉強方法を聞いたときの答えが書いてあります。

 「どうやってできるようになったの?」と聞いたときに、口々にこんなことを言いました。
 「ただ、問題集を五周、十周するだけですよ」
 「そうそう、十周すればたいていできるようになりますよ」
 
 彼らはこれぞ"鉄板"といわれているような問題集を、五回、十回と繰り返し解く。そのことを、「何周する」という言い方をするのです。みんな信じられないぐらい繰り返して鍛錬している。勉強には、理解するプロセスと習熟するプロセスの両方が必要です。そして、例題をわかっても、それは習熟したこと(理解が整って自分のものになった・南淵・注)にはならない、「わかるとできるは大違いなのです」と述べます。
 「重要問題集を十周しろと言われて、十周できる人はできるようになる。何周もできないとあきらめてしまう人はできないまま。比較的数学のできる人が鍛錬に鍛練を重ねて習熟していくので、ますますできるようになっていく。「数学が苦手だ」と思っている人ほど周回練習をやらない。これが現実なのです」
 
 これが『学体力』です。


2018年 合格速報

2018年01月14日 | 学ぶ

今年の中学受験合格速報です。今年も受験者三名全員、第一志望校に合格できました。「受験には何が必要か、子どもたちの健やかな成長には、何をまず大切にすべきか」を考えるきっかけを提供することができました。指導にご協力いただいた保護者、また関係者のみなさま、応援ありがとうございました。

 希望の中学校に進学できた団員諸君、君たちは今日、憧れの学校で学ぶという「許可書」をもらっただけです。夢をかなえ、責任を果たしていくことは、今から始まります。初心を忘れず、団の指導を忘れず、君たちが大きな夢を抱き、その夢をさらに大きくしていく、みんなが憧れるような人になってくれることを心から期待し、また応援したいと思っています

 ブログを読んでいただいているみなさま、土曜日(13日)アップのブログで、「受験当日まで『旗』を掲げて大声で『デモンストレーション指導すること』と、正反対の指導方法」を披露しています。
 「子どもたちの心」や「心のありよう」を考えない教育や指導は、成長の害になりこそすれ、寄与することは決してありません。ぜひ読んでみてください                     


 


夢の教科書を求めて ⑩ 耳の痛い話は成長の糧

2018年01月13日 | 学ぶ

「耳の痛い話」と合格祈願
 拙いブログを毎週350人の人が読んでくれるようになりました。土曜日には100人を超えることもあり、感謝に堪えません。数が少ないのか、多いのかわかりませんが、約5年前、週に数名(!)からはじまって、現在の人数になったことに驚くとともに、優秀で心身ともに健やかな子どもを育てたいと考えるお父さん・お母さん・先生方、志を同じくする人が増えることが、この上ない喜びです。
 毎回、「『耳の痛い話(?)』だろうな」と思うとき、極端にヒット数が減ります(ホント!)。しかし、長い人生から、自らが真剣に考え、手にした「正しいと思うこと」は、『ケツをくすぐったり(奈良で、いちばん言葉が悪いといわれる田舎の「近く」で育ちました!)』「おもねったり」はせず、『伝え続けたい』と思っています。

 子ども、特に小さい子どもは、「建前」では育ちません。たいせつなことは「心」と「心」のぶつかり合いです。また『純粋な子どもほど、建前を見抜きます』。ピュアで純粋な子に、「建前」を教えてしまえば、どんな子になっていくのでしょうか
 教えなくとも、やがて『建前』は覚えます(覚えざるを得ません)。「耳の痛い話」は、ぼくたち大人も子どももきちんと受け止め、「反省の材料」にするべきではないでしょうか。いつも子どもたちにアドバイスすることですが、「人はまちがうものだ。その過ちに目を留め、正面から見つめ、反省や再考をしないと、正しい答えは見つからないし、どんな成長もない」。
 当人にとって「耳の痛い話」というのは「自らも心当たりがあって、きちんと振り返るべきポイント・弱点」であることがほとんどです。「気になっている」から耳が痛いわけです。そうしたことを「避けて通るべきではない」、「目をつぶって、耳を押さえて見逃すべきではない」。直すために与えられたよい機会だ。ぼくは、そう思っています。
 正面から向かって、自らを振り返り、それを克服していくことで、「勉強(学習)」の正誤はもちろん、人としての大きな成長も期待できます。大人も子どもも問わず。

 さて、団では、他塾が缶詰め授業で大わらわのとき、子どもたちと毎年少し足を延ばし、奈良の桜井まで合格祈願に行きます。
 「苦しい時の神頼み」ではなく、「山の静かな雰囲気と清新な空気を子どもたちに味あわせたいから」です。試験の際は、何より「心の構え」がたいせつです。「心の構え」とは、「向かうもの」に心を整えること。「心を整える時間をもつこと」。「一生の大事」には、「心の構え」は欠かせません。 
 試験前になると『追い詰め・追い詰め』という指導がふつうのパターンでしょう。
 しかし、今まで学んだことを、「詰め込み」ではなく、「頭の『あるべき位置』」に整理していく余裕と、本人や周囲の「落ち着き」を取り戻さないと、受験勉強や受験生活は、「ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗っているようなもの」です。
 周りの景色も見えず、降りたい駅もわからない、降りる駅にも降りられない・・・そんな姿で一生過ごさなければなりません。子どもの「心の構え」にも思い至りません。自戒とともにですが、ただ『試験だけ』を乗り越えた体験で終われば、それ以外の方法や考えが浮かばないのかもしれません。

 しかし、そのままでは『生命の限り』と「それらを見越した上での日々の行動や日常まで想いが届かず」、何をしているのかも、どこへ向かうかもわからない、「他人任せ」の道程になりかねません。子どものときの「節目」にこそ、「そうではないものの見方があること」を伝えたいと思っています。 
 そこから見える景色は、「失敗や反省も、長い人生では自らを大きく成長させる良いきっかけ」です。絵馬をプレゼントし、子どもたちは、自ら志望校や氏名を書き込み奉納します。「どこかでもらってきたお守り」を渡すのもやさしい行為ですが、本人がその行為を確認できる機会があれば、経験値は、さらに豊かになります。
 神社の苔むした灯篭や大樹の間の石畳を抜け、裏道を通り田舎道を駅までゆっくり歩きます。
 サザンカの白や椿の赤に目を留め照葉樹の話をし、製材所のすぎの香りに出会えば、年輪の話題に触れます。課外学習での太陽の向きや大樹の枝ぶりから考える「方角判断」が「年輪」の実見で完結します。見える年輪が師管や道管や形成層のしくみを表現してくれます。また、板目や柾目は中学入試には出てきませんが、「学習対象の立体化」に一役買います。その「しくみ」が鳥の巣箱をつくるときの「のこぎりの手応え」で確認できます。

 道行くときに目を留めたり、凝らしたりする機会が、今はどんどん減っていきます。その減少とともに、子どもたちの学習対象は「やせ細って」いきます。それとともに「学ぶおもしろさ」は減退していきます。学習をおもしろく進めるためには、何よりも「学習対象への気づき」、「立体化による存在感」がたいせつになります。子どもたちの学習は、どんな意味においても「環境から」始まります。いや始めなければなりません。
 日ごろの課外学習の道行きもそうですが、「彼ら(ぼくたち)の身の周りにあるもの」を見ずして、気づかずして、何も始まりません。静寂の中の合格祈願、清々しい空気も、子どもたちの生活の一部であり、学習のたいせつな要素なのです。

三匹の子豚の受験指導
 今日は大阪市の中学入試です。今までの指導経験からつくりあげたキャラクターです。「三つ子の子豚」の受験体験の童話をお話しします。みなさんの学習指導や学習応援の参考にしてください。
 三つ子の子豚ちゃん、甘やかされてばかりいる、ブー・フー・ウーが受験をすることになりました.
 長男の「ブー」は頭は良いのですが、遊びほうけてばかり、時間があればゲーム、時間がなくてもゲーム。
 「調子が良い」のが取り柄で、ブーの通っている学校は、「休まないでクラブ活動に参加すればA評価(!)」という特殊な学校ですから、彼はそれ以外のことに目が向きません。「私立中学は受験勉強をしなければ合格できない」ということが、そもそもわからない。
 さらに元々能力が高いので、小学校の中学年までは勉強がよくできました。皆勤、クラブ活動をやればA評価の学校ですから、みんな勉強しません。ブーの小学校に限らず、小学校の低学年までは、本来の能力が高ければ成績はよく、その時点で本人は「勉強を甘く見ます」。「勉強なんか、たいしたことない」というわけです。

 「ブー」は今後どう指導すべきでしょう?
 まず、育て方の反省です。もっともっと小さいころに、「ゲーム以外にやれること・やるべきことがあること」をきちんと教えなければなりません。「(人の)寿命には限りがあること」を教え、「時間がかけがえのないものであること」がわかれば、次は、「世の中には、四の五の言わずやらなければならないことがあること」や、「自らもやるべきことをやる責任があること」を教える
 また、「やってはいけないこと」、「時には自らの欲求を押さえ、我慢しなければならないことがあること」をちゃんと教える。さらに、世の中にはゲーム以外にも、たくさんおもしろいものがあることを、小さいころから伝えるようにする。必要なことは「根本的な指導の改善」です。さらに、こうした指導も4年生までに行わないと難しくなります。

 「フー」は次男。
 やはり甘やかされているので、受験勉強も形だけ。「宿題もちゃらんぽらん」で、すぐ解答を見ます。「頭に汗をかこう」としません。つまり「考えること」をしないし、知りません。わからなければ、答えを写しても平気です。
 小さいころからなんでもやってもらっていたので、「『自分が』しなければならないこと」「『自分で』しなければならないこと」がわかりません。幼い頃から、自分でしなくてもいつのまにか準備や用意が整っていたので、「自分がしなければいけない」という意識がないのです。
 「負けたら恥ずかしい」し、「腹が立つ」のですが、それだけです。「勝とうという意識」、「そのためにはどうすべきか」という、たいせつなことを知らないまま育ってきました。
 そんな具合ですから、成績は上がりません。自分で何でもやる(やってみる)経験が乏しいので「メタ認知」が育たず、「自分や自分のやり方が悪い」という反省がなく、受験間際になって、とっかえひっかえ新しい参考書や問題集に手を出し始める。そういう調子ですから、つまらない漢字のまちがいや読み違い・読み落としが多く、覚えちがいの悪癖が抜けません。

 「フー」へのアドバイス。
 受験勉強は、各科目定評ある参考書を、繰り返し三周以上やれば十分です。その参考書がきちんとマスターできた段階で過去問に取り組むこと。
 つまり、参考書やテキストを疑う前に、その参考書やテキストの学習に「理解不足」や「勉強の穴」がないかを調べる、あったら、まずそれをなくすこと。それがいちばんです。
 受験では100点取る必要はありません。7割以上得点できれば、一部の難関校を除き、合格圏です。それまでの参考書をきちんと終わらせないで、受験前にあちこちやるのは「百害あって一利なし」。
 「NGOとPKO(!)をまちがえたり、愛媛県を愛姫県と書いたり、石田三成を石田光成と書いたりしないことに、最大の努力を払うべき」です。
 三男「ウー」はいちばん真面目で、学力も順調に伸びてきています。
 アドバイスするなら、「何も心配ないこと」を伝え、「進学したのちの諸注意や心構え」を伝えること。気を抜かず取り組み、さまざまな可能性が待っていることに気づかせること。合格すれば英語や数学の「先取り学習」を行っていくこと。
 お父さん・お母さんに参考になる本。最近読んで手近にあった本ですが、「僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」(山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山極壽一・永田和宏 文春新書)なんかを読めば、さらに子どもたちにできる話があるかもしれません。

英英辞典の効用
 OB教室のH君については度々紹介しています。一貫校進学(現在中一)後、週一回グレードリーダー“Logan’s Choice”(Cambridge University Press)を読んでいますが、一年経過しました。何も知らないところから、辞書だけを頼りに読むことを進めてきました。
 かなり読めるようになってきました。英和辞典の訳語にとらわれず、情景のイメージを大切にしながら、「訳語」を考え、「訳文を考える」、「意味を大切にする」という方法です。
 今京大大学院でベトナムへ留学しているY君との「老人と海」のときもそうだったのですが、もう少しすれば、二人で英英辞典から「自らの言葉で訳語を考える」という指導をしていきたいと思っています。
 それによって語彙力は増し、言い回しも覚えるし、日英両語の「語感」も身につくだろう、と思います。大学進学時には原書を読めるようになるでしょう。
 ああ、若いってことはなんていいことだ。うらやましい。


夢の教科書を求めて ⑨ 

2018年01月06日 | 学ぶ

良心は何処に
 遅ればせながら。明けましておめでとうございます。他塾では「正月返上のねじり鉢巻き」がふつうでしょう。団では毎年暮れの30日から年明けの3日まで休みです。

 「国語を『昆虫採集』してみないか」、「算数も『手づかみ』できるんだよ」のコピーとともに、このペースは20年以上続いています。学校が休みの間、冬期講習や夏期講習はありますが、ガンガンの「缶詰学習」はしません
 演習問題や宿題の量とおなじく、そんなもの、「指導の言い訳」や「料金のかさ上げ」の為ではないのか? ふだんから、きちんとしっかり勉強させておいて、入試前でも、正月は家で、少しゆっくりリラックスしましょうよ。「良心的」に子どものことを考えている先生方、そうではありませんか?

 「良心」で思い出しました。かつての「耳ダンボ」のエピソードも、その典型ですが、「最近の子育て」で目に余るのは、「悪いことをした子どもに責任を取らせない」、というしつけや仕業です。これは、しつけ以前の問題です
 隠す・ごまかす・とぼける・白を切る・・・など、やってしまったこと・失敗したことに対して、その結果を認め、反省させたうえで、きちんと謝らせ、悪いことは悪いことだ、ということを教えない。そういうことを「ないがしろ」にして、「社会できちんと一人前に仕事ができる大人」に育つのだろうか?
 「失敗や過ちは誰にでもあることだが、それでも『自分がやってしまったこと』だから、責任はとらなければならない」という「社会での基本中の基本ルール」を教えないで、どうして一人前の社会人として育つのか

 そういうことをすると、周りにも迷惑をかけるし、家族にも迷惑をかけるし、もちろん相手にも迷惑をかけ、嫌な思いをさせるという「言い聞かせ」「責任の取り方(面と向かって自分のしたことを悟らせる。責任はほかの誰も取れません。教えないと責任をとるということを覚えません)」「二度としないという約束」。それらを果たして初めて、社会は受け入れてくれます
 本人は責任をとらずにノホホンとして、その陰で困ったり悲しんでいる人がいることに、想いが至らない。他者に対する「思いやり」や「慮り」意識が、ドンドン希薄になっていってるような気がします。
 「自分さえよければいい、その場を隠し通せばいい、相手は関係ない」というような子育てや仕業は、やがて忘れたころに、とんでもない「しっぺ返し」が当人と周囲に降りかかるというのが、長い経験から手に入れた真理です。「天網恢恢疎にして漏らさず」。でも、残念ながら、そこまで想いが至らないから、起きることなんだろうな、合掌。

「正月休み」と「小石の学習」
 さて、正月、久しぶりに家族で顔を合わせ、橿原神宮に恒例の初詣に行きました。
 KAEDEの動向が楽しみだったのですが、やはり、参道の小石に興味をもってくれました。きれいな石英をまず集め、長石やチャートと・・・、「石の説明」のひととき。拡大鏡をもって行かなかったことを後悔しきり、です。
 子どもたちの、「石への興味を引き起こす(何につけてもそうだと思うのですが)」には、まず触れさせて、「それぞれのちがい」に目を向けさせること。そのとき、たとえば拡大鏡で、「ふだん見馴れていない姿」を見せること。それによって、もっと興味が深くなる・・・そういうことだと考えています。

 これら、身のまわりの小石や砂・土に気づき、その区別ができ、見つけた「謎」に思いを凝らし、「不思議」に思いを巡らすこと。「『環覚』が立ち上がるしくみ」です。はじめは石からはじまりますが、石では終わりません。その発想や考察のしくみは、あらゆることに共通するはずです。
 5~6年前、下市(奈良県)の「やすらぎ村」に課外学習の『下見』に行ったとき、宿舎裏手の丹生川の上流の川原が、「ほとんど丸くて平たい石だった」のに驚きました。川原一面に写真のような石が散らばっていました。

 「こんなところまで、どこかから『平たい石だけ』わざわざ運んでくる」というようなことはないはずだ。しかし、「そんなところで角が取れて平べったい石ができた原因」がわかりませんでした。
 不明のまま数年経ち、あるとき課外学習の資料をつくっていた際、その思いが、心の隅にずっと残っていたのでしょう、イラストに目が留まりました。海浜礫。海岸まで運ばれてきた石が、長い間波に揺り戻されていると、そのような石ができあがることがわかったのです。腑に落ちたうれしさ・気持ちよさ

 古い昔(まだ調べていません)あのあたりは海岸だった、そして石の大きさからすると、それほど「長くない川」が流れ込んでいた(はず)、というわけです。
 ぼくたちは、「謎」や『疑問』が解決すると「気持ちよく」なります。「快感!」を覚えます。
 「周囲に潜む謎や疑問が解けること」は、ぼくたちが「自らの生きていく環境に対してアプローチできること、不安が解消すること、対処法や利用法が獲得できること」という、「生きる(生きていく)方向にプラスにはたらく行動が可能になるから」でしょう。「快感」はそのためです(南淵説)。
 つまり、「『学び』は、本来それらを可能にするため生まれた行動」のはずで、受験は、その益をほとんどなしません。いくらやっても、「かりそめの快感」しかありません。
 「生きていくための意味!」とは、現実的に結びつきにくい。ですから学習の本来の意味と役割をもっと考え、子どもたちの学習指導を改革していかないと、「学習はどんどん地に落ちる」のではないでしょうか。

 橿原神宮の小石がKAEDEの心の中で、やがて、二上山のふもとの竹田川の金剛砂を仲間に引き入れ、吉野川の餅鉄や室生川のさまざまな火成岩を誘い、クワガタ探しでの腐葉土や飛鳥川の粘土を取り込むことで、平面的ではなく、自らと同じ地平に立つ立体的な「知の体系」として立ち上がってくれること。心から願っています
 さまざまな学校行事を散見して思うのは、そうして「『環境に目を見開く学習』がまだまだ足りない」と云うことです。よく見かけますが、例えば「お仕着せ」や「右に習え」の、味見や立ち食い目当ての課外活動に寄るべき、大きな意味や理由が果たしてどれだけあるものか? それより先生・生徒共々道いっぱいに広がり、通行の邪魔になっているという、心遣いを学ぶことの方がたいせつではないのか。
 『税金の無駄遣い』はよく聞きますが、一方で、さらにたいせつな『未来を担う子どものかけがえのない時間の無駄遣い』が相当見逃されているのではないでしょうか。

「どんぐり」が先か、「計算」が先か
 さて、KAEDEはトイレを待つ間に姿が見えなくなったと思ったら、いつの間にか参道のすぐ脇でどんぐりの「群れ」を見つけ、さまざまなどんぐりを拾っていました。いいタイミングと、割って中のようすを見せたり、殻斗を集めたり・・・ぼくも心休まるひとときでした。
 「身のまわりにあるもの(こと)に目を留められること」で不思議や謎が開けます。「不思議や謎が開けること」で、学習のモチベーションが機能します。それによって積極的な学習がはじまります
 エジソンが、訳のわからない計算問題や書き取り(おそらく)しか教えないエンゲル先生の授業に退屈し、授業中さまざまな不思議や謎を問いかけたのは、こうした理由だとわかっていただけたでしょうか。
 「知りたいこと」がたくさんあったのです。それらを無視されて、「そのときほとんど興味の持てなかったこと」ばかり、次々強制されたのです。

 計算問題や書き取りがたいせつなのは当然ですが、子どもがおもしろく感じるもの(決してゲームばかりではありません)を「少しも教えない」で、読み書きそろばん一辺倒では、やんちゃ坊主は誰でも嫌になり、当然反抗的にもなるでしょう。今の受験指導はどうでしょうか?
 エジソンは、幸運なことにお母さんが賢明だったので、本にも目を開かれ、少年時代に街の図書館の本を制覇するというチャレンジもしたようです。ここに、考えなければならない「どんぐりが先か、計算が先か」という問題があります。こういう学習の進み方の経緯を、ぼくたちはもっともっと深く考察すべきではないでしょうか。エジソンのことを「学習困難児や多動症」などという論評を否定できる根拠をもたないと学習問題の解決は成就できません。

 さて、神宮駅の切符売り場で、黄色の点字ブロックが目についたので、ふと思いつき、「これは何?」とKAEDEに問いかけました。知らなかったので、目の不自由な人のためのしくみを、棒を杖代わりにして考えさせました。
 駅の待ち時間には、名所案内のパンフレットに目を留め、紙飛行機を作り始めたので、一緒に作りました・・・それらの積み重ねが、少しずつ彼女の『環覚』を育ててくれるよう祈りながら・・・(カエデは「学(スッポン)に」と、紙飛行機のお土産をくれました)。

「どんぐり」から「奇数の情緒」
 もう十年以上前になりますが、吉田武さんの「奇数の情緒」を買いました。団で育った子どもが中学に進学したら、ぜひ読んでもらいたいと思ったのです。
 今まで京大に進学したY君やA君にも勧めたのですが、ちょっと手に負えなかったようで、手をつけたOBがいませんでした(毎年1~2人だし、勧められない子もいますので、ハハ)。

 今年N学園に入学したH君が国語の力があるので、「読んでみるか?」と勧めたら、「ハイッ」と早速持って帰りました。少しずつ読んでいるようです。「中学生であれを読み通したら相当だよ」と激励しています。
 先ほども書きましたが、エジソンだけではなく、多くの科学者が「少年時代」に、大人の本や専門書に読み耽るということが、なぜ行われるか?(ファインマン・アインシュタイン・マクスウェル・・・たいていの科学者はそうです)
 もちろん「身のまわりのものごと」に対する興味や好奇心が増し、知識欲が旺盛になるという前提がなくてはなりません。では、それはどうして起こるのか? 頭がいいからでしょうか? 決してそれだけではないと思います。
 頭がいい子はたくさんいますが、物語は読んでも、それらの本には見向きもしない子がたくさんいます。好奇心が機能しないからです。
 ただイメージするだけでも、明らかにそれらが、抽象的なまとめや概要の学習習慣からははじまらないだろう、ということがわかるのではないでしょうか。物語は読めても、科学書や専門書には「キャラクター!」は出てきません。みなさんはどうでしたか?
 教科書やテキストの、抽出した学習要項・まとめでは、覚えるだけで終わるのです。おもしろくない。『知りたい』に行きません(あっても稀でしょう)。

 好奇心は『学習対象や学習内容に書かれていないこと』からはじまります。以前も例を挙げましたが、「見知らぬ人の卒業アルバム」を見せられて興味がわくでしょうか? 見る気になるのは、恋をしていたり、「きれいな人」であったり、あるいは身内のおじいさん・おばあさんやお父さん・お母さんものでしょう。
 つまり、よく知っている人のものなので、興味を掻き立てられるわけです。そのもの、ものの全容、ものの本体を知っているから見たいし、『知りたい謎』が生まれるのです

 以前、石の組成で「ケイ素」のことに触れました。
 「なぜ地球にケイ素が多いのか」、というより「ケイ素ってどんなもので、何?」 という「疑問」が、学習年齢的にも、「教科書の『ケイ素』の文字」からはじまる子どもがどれだけいるでしょう。それらは、あくまで『述語止まり』で、記憶のストックに、そのまま収納されませんか? 使われないまま・・・。
 ところが、石英をはじめとする造岩鉱物の美しさ・実体に、「現実感」があれば、知りたくはならないでしょうか?  さらに、『知りたい』という精神状態になって調べはじめれば(そこまで上手く育てていると―つまり「学体力」が整ってくると)、「知りたい」を調べているうちに、その中から次の『新しい知りたい』が生まれる(というより、出てくる)のです。
 専門書にまで進むのは、科学者やスペシャリストとして知識や考察が深化していくのは、そうした「心のシステム」によって、だと考えます。「日ごろの自らの心の動き」を考えても、そう思えてなりません。そうした心が整ったとき、「奇数の情緒」から、さらに深化がはじまるのでしょう。
 「奇数の情緒」は決して受験勉強や入試問題からはじまるのではありません。それは「『どんぐり』からはじまる」のです
 さて「奇数の情緒」を読んでいるH君は学期末の成績で17番になってくれました。九州から帰ってきたお父さんに、「もう大丈夫ですよ」と報告しました。4日のことです。