米づくりのもうひとつの意味
前回、こう前置きしました。「来週は、『子育て』の参考にしてもらえるよう、「米づくり」の体験がもっている「もうひとつのたいせつな意味」について考えてみます」。また、「もう少し長い目で見つめ、根気よく子育てに向かうこと(つまり、お母さんやお父さんが我慢すること)で、こどもたちは、勉強にしろ何にしろ、我慢を重ね辛抱しながら、おもしろいことを見つけ、それに向かって邁進し、『勉強!』の確かな実りをつかんでくれるのではないでしょうか?」。そう問いかけました。
ぼくたちは無意識でも、子どもたちはお父さんやお母さんそして成長過程で関わる人たちの姿を見て、自らの人格を形作っていきます。子どもの人格や性格は「独りでにできあがる」わけではありません。肯定的にしろ否定的にしろ、逐一周囲の姿を見て、自らに取り入れ、成長していきます。
特に現在は物質的には恵まれていることが多く、「辛抱したり」「我慢したり」という機会が極端に少なくなりました。小さいころから、欲しいものは十分すぎるほど与えられる毎日です。
お父さんやお母さんの多くも、それに近い環境で育っています。そのため子どもたちが我慢や辛抱を覚える機会や状況は多くありません。
我慢や辛抱を覚えるには、「お父さんやお母さんが辛抱する姿」を見たり、「我慢する姿」を見せないとわかりません。つまり、「辛抱すること」・「我慢すること」を教えなければ覚えません。覚える必要も機会も失われているからです。
「勉強しなければならなくなって、急に我慢しなさい」をはじめても無理な相談です。我慢が当たり前になっていないから、「ものを与えなければ、何か代償がなければ我慢できない」状況になってしまっているわけです。
ところが、お父さんもお母さんも大人になっているのでわかるでしょうが、社会に出れば、相変わらず我慢や辛抱は「生活につきもの」です。逃げるわけにはいきません。
だからと言って「我慢や辛抱をさせればかわいそう」という子育てでは、力やパワーをためる子を育てることは難しくなります。ハングリー精神が全くないのは困りものです。
「目標に向かって、弓をたわめて引き絞るようなパワーのある子」は育ちません。子育てには、そういう先を見通す眼や展望が必要になってくるわけです。
時代を反映する「軽佻・簡便」の環境ではうまくいく通りがありません。ぼくたちは、その現実をしっかり自覚しなければならないと感じています。好悪を問わず、自ら子どもたちに範を示す必要があることを忘れることはできません。それが「おども」でも「ことな」でもない「大人」としての務めです。
「明日が変わる」明日があるさ
さて、『米作りの体験』がもつ「もうひとつの意味」。それは我慢の指導に大きくかかわる、「明日の実り」の実感です。
田植え。汗・ぬかるみ・泥・・・。毎年、蒸し暑さの中、ギラギラ照り始めた太陽のもとで、子どもたちは稲を植えていきます。
稲を植えるにもルールがあります。2・3本の苗に小分けをして、隣の苗との間隔を考え、浮いてしまうことも無いように、一つ一つていねいに植えなければなりません。
ところが、「なぜ…」という「その我慢の作業のたいせつさの理由」が、その時点で、子どもたちに認識できているわけではありません。それぞれの手際の理由は説明しますが、その作業の「結果が出ていない(!)」ので、「言うとおりにする」だけです。
「そんなもんか?!」と「がまん」です。いわば疑心暗鬼のまま、「決して楽ではない作業」を繰り返していきます。
最初は面白くても、腰をかがめて植える作業は20分、30分と続いていくと、次第に「テキトー」になる子がでてきます。もちろん、そんなときは「雷」が落ちます。丁寧な田植えにはたいせつな意味があるからです
理由です。まず、農家の人にとって「米作り」は「生命線」です。「いのちの糧」の長い歴史があります。そんな作業を遊び半分にするのは失礼です。また、子どもたちにも「米作り」という仕事(農作業)のたいせつさや大変さがわかりません。無意識のうちの「足の運び」や「手の運び」のひとつひとつが、イネの生育や実りにも大きく影響します。
「作業の難儀さ」に触れることで、「食べ物は『買うもの』ではなくて、人の生業として多くの人たちの苦労や協力があって初めて手に入るもの」という本来の「しくみ」がわかります。食べ物にしろ、人の行動にしろ、そのひとつひとつを「仇やおろそかに考えてはいけない」ということを学んでいきます。
まだまだあります。田んぼの横を流れている、きれいな小川の水が、かつては「血で血を洗う争いのもと」になってしまったこと。近くの山からの湧水が腐葉土の栄養分を携え、毎年のコメ作りを養っていること。豊かな山の木が、そうした連作を可能にし、そのまま海に至る流れが、海の生物の栄養源にもなっていること・・・等々等々。
「田植え」一つとっても、かけがえのないことの「豊かさ」がわかるのではないでしょうか。「総合学習や社会体験は、こういう奥行きもふくめて先生方や指導者が協議・検討したうえで実践すべきもの」だと考えます。課外学習には、こういう意味をもたせることができるのです。そのたいせつさに先生方は気づいているでしょうか?
残念ながら、現在の総合授業や課外学習を見ると、ほとんど「マニュアル通り」、「遠足」や『リクリエーション』としか認識していないような取組が多すぎます。寺院や神社見学・浄水場見学・テーマパークめぐり・・・。事前調査や何の工夫もなく、まさにルーティン。
たとえば、近くに異国情緒豊かな(?)街並みがあり、全国から児童や学生たちが訪れてきます。その様子を散見するに、「一角で立ち食いしたり、買い物をしたりするだけ」。「通行の邪魔」になっていることにも気づかないで、ゾロゾロ「商店街の往復」をくりかえすだけ・・・。
「一体全体何の意味があるのだろう」と、見ていると哀しくなる取組です。商店街の人たちとの企画検討やアドバイス・指導など、テーマの掘り起こしや展開は何なりと可能なはずです。
ぼくの指導と「他の多くの『総合授業?』」とのちがい。それは、「子どもの眼に返り、子どもの心に返り、たいせつな人生・生きること・成長の一環として考える、という立場と態度」だと思います。社会体験や総合授業を実践するのであれば、どうか、その取り組みを子どもたちにとっての「千載一遇のチャンス」に変えてください。
かつて、「明日があるさ」という歌がはやりました。ぼくの半生の中でも2回・・・。明るく心に訴えかけるメロディと歌詞です。ぼくは鼻歌を歌いながらも、いつも何か「心に引っかかる」感じがありました。それはどこなのだろう・・・。
確かに明日はあるし、その楽観的な気持ちは「心地よい」。その「心の構え」はたいせつだが、『それだけ感』が否めない。「若いぼくらにゃ夢がある・・・」と慰めているが、努力するわけではない・・・。それでは未来は変わりようがありません。「明日があるさ」の明日は「何もない、たいしたものが生まれない明日」です。
今若者たち(ぼくたちにも)にたいせつな「メロディ」はもっと前向き、「明日を変えることができる『明日があるさ』」ではないのか。明日が変わってこそ、ほんとうの「明日があるさ」ではないのか。
立体授業『米づくり』のスライド学習や指導、我慢しながら一生懸命遂行する作業が、『混然一体!』となって、子どもたちの体力や学力や精神力を形作っていきます。「田んぼまでの田舎道の道程が、子どもたちの環覚養成にどれだけ役に立つか」は前回もお話ししました。つまり、『立体授業』は、言わば『生きることや日常生活の実体験』でもあるのです。
蛍狩りや渓流教室の夏を経て、秋には「稲刈り」が待っています。初夏に叱られながら一生懸命植えた稲が金色の稲穂もたわわに、子どもたちの手によって刈り取られていきます。そのころ、子どもたちは「三粒の種もみが約1000粒になる」ということも学んでいます。明日は大きく変わるのです。
目の前には、信じられないくらい大きく実った稲穂。「しんどかった」努力の成果です。こうした半年によって、すぐには結果が出なくても、しっかり努力することで大きな成果を手に入れられる、ということが「実体験」できるのです。
「すぐには結果が出ない努力」、しかし「努力をしなければ手に入れられない実り」…何かに似ていませんか? そうです、勉強と同じです。こうした経験を一年・二年・三年と年を重ねるごとに、「確かな力を蓄えながら、当たり前のことをきちんとできる子」が次第に多くなっていきます。
さて、来週は、先日(24日)の課外学習「石ころとぼくたちは親せきかもしれない」の実践について紹介します。「もち鉄」や「ガーネット」を探す取り組み。子どもたちにとって「千載一遇の学習のチャンス!」になってくれればよい、と始めたものです。
サポーターで参加されたお母さんが、当日の一連の活動を見て、「こんなふうに習ったことがない…」と感想を述べてくれました。最近では一番うれしい一言でした。学習のすべての問題がそこにあるのですから。ぼくの「どや顔」が見えませんか?(笑い)